本の棚卸 山田慈雨
日本および日本人について、私たちが知っておくべきたいせつなことは、すでに論じ尽くされており、何をなすべきかについても、もう主立った知見は出尽くしている。にもかかわらず、先人たちが骨身を削って構築してきた、深く厚みのある、手触りのたしかな日本論を、私たちはそれを有効利用しないまま、アーカイブの埃(ほこ
り)の中に放置して、ときどき思い出したように、そのつど、「日本人とは……」という論を蒸し返している。そのことが問題なんだと著者は言う。先賢が肺腑から絞り出すようにして語った言葉を私たちが十分に内面化することなく、伝統として受け継ぐこともなく、ほとんど忘れ去ってしまっていいのかと言う。
どうして忘れたかというと、外来の新知識の輸入と消化吸収に忙しかったからで、どうして、そんなに夢中になって外来の新知識に飛びつくかというと、「ほんとうの文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識」に取り憑(つ)かれていたからだ。
この繰り返し(回帰性)のパターンこそが日本文化の特徴なのだ。
「数列性と言ってもいい。項そのものには意味がなくて、項と項の関係に意味がある。制度や文物そのものに意味があるのではなくて、ある制度や文物が別の より新しいものに取って代わられるときの変化の仕方に意味がある。より正確に言えば、変化の仕方が変化しないというところに意味がある」という説明はさす がはと思う。フラクタルに例える箇所も出てくるが、出現パターンの同一性に気づくことは重要な意味をもつと著者は指摘している。
この指摘を補足して丸山眞男の引用をもってくる。それを更に説明して次のように述べていく。
丸山眞男はそういうふうに「外来イデオロギー」(「自分のスタイル」とか「主体性」というのはもちろん「外来イデオロギー」です)に反応するときの国民的な常同性(これが「きょろきょろ」という擬態語で表されます)を「執拗低音」(basso ostinato)と音楽用語を使って指示しました。
執拗低音は決して「主旋律」になりません。低音部で反復されるだけです。
「主旋律は圧倒的に大陸から来た、また明治以後はヨーロッパから来た外来思想です。けれどもそれがそのままひびかないで、低音部に執拗に繰り返される一定 の音型によってモディファィされ、それとまぎり合って響く。そしてその低音音型はオスティナートといわれるように執拗に繰り返し登場する。」
「うまいなあ」と感心する。私ではとてもこう段取りよく、分かりやすくはいかない。
この後、法社会学者の川島武宜から一つの例を持ち出してくる。本来、このHPは、丸山の『日本の思想』や『近代日本の思想と行動』『日本政治思想史研究』をはじめとした私が若い頃強く影響を受けた名著を再度読み直してみようという思いつきから始めたはずが、どこかで折れ曲がってしまったのだが、当然当初プランには川島の『日本人の法意識』も含まれていた。そして、この本の中で取り上げられるムラ社会での法意識を象徴するような行動の事例として引用された本に、きだみのる『気違い部落周游紀行』がある。著者の山田吉彦(この名義ではファーブル昆虫記の訳の仕事がある)は、ソルボンヌで人類学者のモース(贈与論で有名。デュルケームという高名な社会学者の甥でもあった。)に学んだ人で、日本の山村のコミュニティの実態を参与観察した報告がその本などであった。タイトルに使用されていることばが差別用語だということもあり、岩波新書版は絶版となる。冨山房百科文庫の一冊として復刻されている。こんな面白い本が入手しにくくなっているのは残念だ。きだ(山田)はこの山村を訪ねる旅に若い女性に産ませた娘を連れていっており、その娘に同情した小学校教師夫妻が引き取り育てることになる。やがてその教師夫は、その体験を基にした小説で芥川賞をとるのだが、その娘から訴えられることになる。読書を続けていると、あっちの本とこっちの本が繋がるということがあり、その不思議に驚く。
それでは、なぜ「きょろきょろ」見回すのか。それを知るのに、日本でよく起こる、根拠や論理的理由が明示されず、激しい主張がされ、激しい感情的対立が起こるという現象について取り上げている。
たとえば、朝まで生テレビといったようなタイトルの番組の中で突然ある政治家が、「国歌を斉唱したくない人間は日本から出て行け」と怒鳴り声を上げたように。国旗と国歌は法律で決まったのだから、それを遵守せよというのだ。
内田は、そのロジックが成立するとすれば、その政治家の属す政党が改憲を党是に掲げていて、他方で公務員の憲法遵守の義務が憲法に定められているのだから、「国の最高法規を『尊重し擁護する』気がないと揚言している人間がどうして自分は国を代表する権限を付託されていると信じ込めるのでしょう」と書いている。分かりやすく言い換えれば、そんなら「日本を出て行け」ということになるだろうというところだろう。
彼は、その場に参加した誰も、それは変な発言だと指摘しない理由を次のように説明する。
「国とは何か、国民とは何か」について最終的に答えを出すのは私たちひとりひとり個人の資格においてであるという考え方が私たちの中には定着していないからです。
続いて、アメリカ上院で2006年に「星条旗を燃やすなど、国旗を冒涜する行為を禁じる」憲法修正案が否決された事実と比較している。1989年最高裁判決で「表現の自由」として国旗を燃やす行為が認められたことを受けての憲法修正案だった。これは、市民の一人一人が「アメリカとは何か、アメリカ人はいかにあるべきか」という問いに答える義務と権利があるという認識が共有されている証である。
日本にはそのような合意がない。「日本とは何か、日本人はいかにあるべきか」という問いについては、何が「正解」なのかを知ろうとするだけなのだ。どこかよそで、誰か他の人が決めたことのうち、どれに従えばいいのかを知りたがるだけだ。
この態度、姿勢がなぜ起こるのかを「虎の威を借りた狐」という比喩で説明している。以下その箇所を丸ごと引用してみたいと思うほどうまい説明部分だ。で、その後、著者は、日本人の「学び」の姿勢とその原型としての「武士道」についての説明を展開していく。その学びの姿勢の箇所で「きょろきょろ」が出てくる。つまり、師を求める弟子の態度を、「自分を養う乳房を求める幼児の焦慮」に喩え、その形容として「きょろきょろ」という擬態語はもっともふさわしいと言うのだ。なぜか日本人は師の前で、判断を停止し、無防備になり、幼児性と無垢性を露呈する。適否の判断を一次的に留保する。それによって知性のパフォーマンスを上げることができるということをわれわれが(暗黙知的に)知っているというのが列島に住む祖先から引き継いできたことなのだというわけだ。
虎の威を借る狐の意見
今、国政にかかわる問いはほとんどの場合、「イエスかノーか」という政策上の二者択一でしか示されません。「このままでは日本は滅びる」というファナティックな(そしてうんざりするほど定型的な)言説の後に、「私の提案にイエスかノーか」を突きつける。これは国家、国民について深く考えることを放棄する思考停止に他なりません。私たちの国では、国家の機軸、国民生活の根幹にかかわるような決定についてさえ、「これでいいのだ」と言い放つか、「これではダメだ」と言い放つか、どちらかであって、情理を尽くしてその当否を論じるということがほとんどありません。
たとえば、私たちのほとんどは、外国の人から、「日本の二十一世紀の東アジア戦略はどうあるべきだと思いますか?」と訊かれても即答することができない。「ロシアの北方領土返還問題の『おとしどころ』はどのあたりがいいと思いますか?」と訊かれても答えられない。尖閣列島問題にしても、竹島問題にしても、「自分の意見」を訊かれても答えられない。もちろん、どこかの新聞の社説に書かれていたことや、ごひいきの知識人の持論をそのまま引き写しにするくらいのことならできるでしょうけれど、自分の意見は言えない。なぜなら、「そういうこと」を自分自身の問題としては考えたこともないから。少なくとも、「そんなこと」について自分の頭で考え、自分の言葉で意見を述べるように準備しておくことが自分の義務であるとは考えていない。「そういうむずかしいこと」は誰かえらい人や頭のいい人が自分の代わりに考えてくれるはずだから、もし意見を徴されたら、それらの意見の中から気に入ったものを採用すればいい、と。そう思っている。
そういうときにとっさに口にされる意見は、自分の固有の経験や生活実感の深みから汲みだした意見ではありません。だから、妙にすっきりしていて、断定的なものになる。
人が妙に断定的で、すっきりした政治的意見を言い出したら、眉に唾をつけて聞いた方がいい。これは私の経験的確信です。というのは、人間が過剰に断定的になるのは、たいていの場合、他人の意見を受け売りしているときだからです。
自分の固有の意見を言おうとするとき、それが固有の経験的厚みや実感を伴う限り、それはめったなことでは「すっきり」したものにはなりません。途中まで言ってから言い淀んだり、一度言っておいてから、「なんか違う」と撤回してみたり、同じところをちょっとずつ言葉を変えてぐるぐる回ったり……そういう語り方は「ほんとうに自分が思っていること」を言おうとじたばたしている人の特徴です。すらすらと立て板に水を流すように語られる意見は、まず「他人の受け売り」と判じて過ちません。
断定的であるということの困った点は、「おとしどころ」を探って対話することができないということです。先方の意見を全面的に受け容れるか、全面的に拒否するか、どちらかしかない。他人の受け売りをしている人間は、意見が合わない人と、両者の中ほどの、両方のどちらにとっても同じ程度不満足な妥協点というものを言うことができない。主張するだけで妥協できないのは、それが自分の意見ではないからです。
「虎の威を借る狐」に向かって、「すみません、ちょっと今日だけ虎縞じゃなくて、茶色になってもらえませんか」というようなネゴシエーションをすることは不可能です。
狐は「自分ではないものしを演じているわけですから、どこからどこまでが「虎」の「譲ることのできない虎的本質」で、どこらあたりが「まあ、そのへんは交渉次第」であるのか、その境界線を判断できない。もし彼がほんものの「虎」なら、「サバンナで狩りをするときは、茶色の方がカモフラージュとして有効ですよ」というような訳知りの説明をされたら一時的に「茶色」になってみせるくらいやぶさかではないと判断するというようなこともありえます。でも、「狐」にはそれができません。「自分ではないもの」を演じているから。借り物の看板のデザインは自己費任で書き換えることができない。私たちは「虎」とは交渉できるけれど、「狐」とはできない。そういうことです。「虎」なら、「自分は『虎』として何がしたいのか?」という問いを自分に向けることができます。でも「狐」は「自分が『虎』として何がしたいのか?」という問いを受け止めることができない。他人の受け売りをして断定的にものを言う人間が交渉相手にならないというのは、彼が「私はほんとうは何がしたいのか?」という問いを自分に向ける習慣を放棄しているからです。
よろしいですか、ある論点について、「賛成」にせよ「反対」にせよ、どうして「そういう判断」に立ち至ったのか、自説を形成するに至った自己史的経緯を語れる人とだけしか私たちはネゴシエーションできません。「ネゴシエーションできない人」というのは、自説に確信を持っているから「譲らない」のではありません。自説を形成するに至った経緯を言うことができないので「譲れない」のです。「自分はどうしてこのような意見を持つに至ったか」、その自己史的閲歴を言えない。自説が今あるようなかたちになるまでの経時的変化を言うことができない。「虎の威を借る狐」には決して「虎」の幼児期や思春期の経験を語ることができない。
ですから、もし、他人から「交渉相手」として過されたいと望むなら、他人から「虎」だと思われたいのなら、自分が今あるような自分になった、その歴史的経緯を知っていなければならない。それを言葉にできなくてはならない。これは個人の場合も国家の場合も変わらないと私は思います。
日本人が国際社会で侮られているというのがほんとうだとしたら(政治家やメディアはそう言います)、その理由は軍事力に乏しいことでも、金がないことでも、英語ができないことでもありません。そうではなくて、自分がどうしてこのようなものになり、これからどうしたいのかを「自分の言葉」で言うことができないからです。国民ひとりひとりが、国家について国民について、持ち重りのする、厚みや奥行きのある「自分の意見」を持っていないからです。持つことができないのは、私たちが日頃口にしている意見のほとんどが誰かからの「借り物」だからです。自分で身銭を切って作り上げた意見ではないからです。
「虎の威を借る狐」は「虎」の定型的なふるまい方については熟知していますが、「虎」がどうしてそのようなふるまい方をするようになったのか、その歴史的経緯も、深層構造も知らない。知る必要があるとさえ考えていない。だから、未知の状況に投じられたとき「虎」がどうふるまうかを予測することができない。
日本人がどうして自分たちが「ほんとうは何をしたいのか」を言えないのは、本質的に私たちが「狐」だからです。私たちはつねに他に規範を求めなければ、おのれの立つべき位置を決めることができない。自分が何を欲望しているのかを、他者の欲望を模倣することでしか知ることができない。(pp.118-123)
極めて刺激的な叙述である。最近の尖閣諸島における中国漁船や警備艇の動きやそれに付随する中国政府の外交行動に関連してわれわれ普通の日本人が政府の対応にイラついた本当の理由は、上のような事情に由来するのではないかと考えた時、かなりスッキリする。テレビに登場する評論家の解説にも新聞社説などにもどうも頷けないところがあったのだが、それは私が、評論家諸氏・論説員氏も政治家も「虎の威を借りる狐」だったのだということを感じ取っていたからだろう。
著者はそれを批判しているのではなく、むしろ肯定的に受容し、これからの社会に活かしていこうという姿勢で述べているところが秀逸なのだが。
オバマ大統領の演説においては、アメリカを造ってきた先人たちの努力をわれわれが引き継ぎ、後進に引き渡していく責務がわれわれにはある、というトーンで語られる。なすべきことをしっかり意識した発言である。それに引き替えどうも日本の政治リーダーたちは、このような発言を自然に行うということはない。
内なる基準よりも外に範を求めるのであればよいのだが、更には、強大なものに媚びを売る傾向すらみられる。外交において強国アメリカへの追従は当たり前に論じられる。自国の国益を犠牲にしてもアメリカにつけという主張さえみられるのだ。小泉首相時代の構造改革は、アメリカの企業が日本からの収奪を容易にするために行われた面もあった。イラクへのアメリカの義のない攻撃にも日本は応分の血を流す覚悟を決めた。
このような場の親密感を優先する態度はいまに始まったものではなく、ベネディクトが日本の捕虜のあまりにも露骨な変わり身の早さ、積極的に米軍に協力する態度を報告していた。
内田は、こうした日本人の行動の特性を確認しながらも、そうした傾向が同時に強みにもなることを後の方で説明している。日本人の好奇心の強さや権威に無条件に服するところから発生する学び(修行)の効果について触れている。また、日本が儒教や仏教など古いものをしっかりと学び、残していくという特徴のある地域であることや多様な要素の折衷の仕方、アレンジの仕方に独特の特徴をもつ。内田の思考は常に批判だけでなく、批判されてきた特徴が゜また強みでもあるという説明をしているところが面白い。
・ 日本人は、外交において、先方が採用しているルールを知らないふりをして「実だけ取る」という戦術を採ってきたし、今後も採る(p.63)
聖徳太子の「日出ずる所の天子」という書簡とか明治新政府の李氏朝鮮に対する文書の例や足利義満の「日本国王」僭称文書の例などを列挙し、安保条約と憲法第九条問題や「非核三原則」も辺境人の狡い生き残りの知恵と解釈している。
ポーツマス条約締結時の朝河貫一博士の論文による国際社会と日本の採る道についての予測を紹介し、この程度のことは政治家なら予測し判断しなければおかしい。しかし、いくつかの外交的選択肢を比較考量した上での「理想主義的」政策を避け「現実主義的」政策を採ったというより、視野狭窄に陥り「短期的利益の確保」に向かったという(繰り返される)事実が問題なのだ。
これは「保証人」をより上位に求めてしまうから(p.88)だと内田は解釈する。
そして、その姿勢が強みでもあると展開するのがU章。
「威を借る狐」は「下々のもの」に向かって、やおら「印籠」を取り出して、「ここにおられるのは誰だと心得る。畏れ多くも……」と居丈高に告げる。すると一同はたちまち平伏する。誰も、「それが何か?」とは言わない。
興味深いことに、私たちの社会では、「立場が上」の人々は決してなぜ自分はあなたより立場が上であるかということを説明しません。そのような挙証責任をまぬかれているという当の事実こそが彼が「立場が上の人間」であることを証明していることになっているからです。少なくとも、私たちはそう推論して怪しまない。でも、本当を言うと、「証明しないしのは「証明できない」からなんです。
水戸黄門が自分では「印籠」を出さないのはなぜか、それについて考えたことがありますか。それは徳川光圀自身が印籠を取り出して「控えい」と怒鳴っても、たぶんあまり効果がないからです。これは助さん格さんがやってはじめて有効なのです。この二人は「虎の威を借る狐」ですから、実のところどうして水戸黄門が偉いのか知らない。
「でも、みんなが『偉い人だ』と言ってるから……」という同語反復によってしか主君の偉さを(自分にさえ)説明できない。でも、子どもの頃からそう教えられてきたので、服従心が骨肉化している。この彼らの「どうして偉いのか、その根拠を実は知らない人に全面的に服従している」ありように感染力があるのです。印籠そのものには何の政治的効果もありません。でも、「助さん、格さん、その辺にしておきなさい」という命令に忠犬のように服従するそのありさまには感染力がある。
みなさんもテレビドラマを見て「何かおかしい……」と思ったことはありませんか。それはワルモノが最後に逆上して、「ええい構わぬ斬り捨てい」という展開は毎度のことであるのに、「この爺い、つまらぬハッタリをかましおって」とせせら笑って、そのまま黄門一行を置き去りにして、すたすた立ち去るという展開になることがないという点です。おかしいと思ったこと、ありませんか。論理的に考えると(『水戸黄門』のドラマツルギーについて語るときに「論理的に考えると」という措辞が適切ではないことは百も承知で申し上げますが)そういう展開があってもいいはずです。でも、ない。
この物語のかんどころは「前の副将軍」が供を二人連れただけのただの大店のご隠居にしか見えないという点にあります。その一見すると「ただの爺い」が、「狐」たちが「虎だ、虎だ」と言い立てると、「虎」のように見えてしまう。黄門さまは別にきわだった才知や武技を示すわけではありません。単に場違いなほどに態度が大きいだけです。
「ここにあらせられるは前の副将軍」という一方的な名乗りを裏づける客観的な証拠は、実はどこにもない (葵のご紋の入った「印篭」なんていくらでもフェイクが作れます)。そして、その何の根拠もない名乗りを信じることが自分の不利益であるにもかかわらず、ワルモノたちはたちまちその名乗りを信じてしまう。
その点で言えば、ドラマの前半に出てくる、街場のカタギの人たちの方が黄門の名乗りに対してはずっと常識的に対応しています。彼らは「このじいさんはただの大店の隠居」であるという第一印象をたいてい最後まで手放しません。「根拠のない権威の名乗り」を頭から信じてしまうのは、ワルモノたちだけなのです。(p.152)
ここのところを理解できないと面白さがわからないので、すんなり分からなかったという人はもう一度読み直していただきたい。
悪代官や悪徳商人とその手下たちといった悪者共が根拠のない権威を頭から信じてしまうというのは、彼ら自身がそういった権威を盲目的に信じるという構図の上に悪徳の限りを尽くす行為が可能になったからなのだ。
「このワルモノたちこそ、日本の知識人たちのヴォリュームゾーンを形成するところの、『舶来の権威』を笠に、『無辜の民衆』たちを睥睨してきた『狐』たちの戯画に他ならない」と著者は説明する。
「あなたの名乗りの信憑性について、この場のすべての人間が同意できるような価値中立的で公正な審問の場を立てて検証しょうではないか」という誰が考えても「いちばん合理的なソリューション」を誰も口にすることができない。それが「狐」にかけられた呪いです。
「狐」が「時流に迎合して威張っているだけのバカ」だということが私たちには実はちゃんとわかっているのです。わかっていながら、どうしてもそれに対抗することができない。そういう心理的な「ロック」がかかっている。でも、その同じ呪縛は「狐」自身をも緊縛しています。だから、次に彼と同じタイプの「時流に迎合して威張っているだけのバカ」が出現したときに、「狐」はそれに対抗することができずに、むざむざとその座を明け渡すことしかできない。もしかすると、そのようにして、私たちの社会では権力者の交替を制度的に担保してきたのかもしれません。
『水戸黄門』が日本人視聴者から長く選好されているのは、それがきわめて批評性の高い 「日本的システムの下絵」であり、「日本人と権力の関係についての戯画」だからだと私は思っています。視聴者たちは黄門さまご一行に感情移入してこのドラマを見ているわけではありません(彼らは人間的奥行きを欠いた記号にすぎません)。リアルに造形されているのはワルモノたちの方です。(p.156)
この基本構造が分かると、自己の主張を論理的に根拠を示して正しいことを証明しようと努力しない日本の議論の型の謎が解明できる。
私たちの政治風土で用いられているのは説得の言語ではない。「あなたが私と同じ情報を持ち、私と同じ程度の合理的推論ができるのであれば、私と同じ結論に達するはずである」というしかたで説得することにまずない。「私はあなたより多くの情報を有しており、あなたよりも合理的に推論することができるのであるから、あなたがどのような結論に達しようと、私の結論の方がつねに正しい」という恫喝の語法が通常採られる。自分の方が立場が上であるということを相手にまず認めさせさえすれば、メッセージの真偽や当否はもう問われない。
「何が正しいのか」という問いよりも、「正しいことを言いそうな人間は誰か」という問いの方が優先する。そして、「正しいことを言いそうな人間」とそうでない人間の違いはどうやって見分けるのかについては客観的基準がない。だから、結局は(水戸黄門の例で論じたように)、「不自然なほどに態度の大きい人間」の言うことが傾聴されることになる。
先日、うちの大学に学生の親から電話がかかってきました。「下っ端じゃ話にならん、とにかく責任者を出せ」とえらい剣幕でした。私は教務部長だったので回された電話の対応に出ました。すると、まず「謝れ」と言うのです。「何について謝るのか、まずそのことについてお聞きしないと……」と私が引き取ると、さらに激昂されて、「学生の親からこれほど怒って電話があるということは、そちらに非があるからに決まっているだろう。まず私をこんなに怒らせたことについて謝れ、話はそれからだ」という複雑なロジックを操りました。「私が現に怒っている」という事実は「怒るに至った事実関係」の吟味に先立って優先的に配慮されなければならないと彼は主張するのです。もちろんそれは「怒るに至った事実関係」が根拠薄弱であることに彼自身気づいていて、それだけでは「弱い」と判断したからでしょう。まず、私の側が「加害者」で、彼が「被害者」であるという非対称的な関係を構築しなければならない。そういう非対称的な関係を入り口に置きさえすれば、そのあと事実関係の吟味に入った場合でも、彼の解釈がつねに正しく、私の解釈はつねに誤謬であるとして退けることが可能になる。なにしろ私はいったん「非を認めた」人間である訳ですから、その「非」は後の全発言に拡大適用できる。
これは今私たちの社会で広く採用されている戦略です。別に今に始まったことではありません。極道の「因縁」というのはこういうものでしたし、旧軍内務班における初年兵いじめも狡猾にこのロジックを活用しました。どうやらこれは日本の悪しき伝統の一つのようです。
そういえば、先日、柴田元幸さんと対談したときに、フロアから「ウチダ先生のその無根拠な自信はどこから来るんですか」と質問されたことがありました(笑いすぎて質問にはお答えできませんでしたけれど)。質問したこの方は私の偉そうな態度や断定的なもの言いに実は「根拠がない」ということは見破っているのです。けれども「それがどこから来るのですか」と質問することで「このような態度を取っていることの本当の理由」をウチダは知っていて、自分は知らないだけかもしれないという非対称性を導入してしまった。惜しかったですね。
質問と回答は私たちの社会では「正解を導く」ためになされるわけではありません。それよりはむしろ問う者と答える者のあいだに非対称的な水位差を作り出すためになされています。
質問に対して「いい質問ですね」と応じることは、すでに質問者に対して上位を取ったことを意味します。「キミはどうしてそのような質問をするのか」と反間するのもそうです。問いを無視して、「いいから黙って私の話を聞きなさい」というのもそうです。これは別に特段有用な情報をこれから述べるという意味ではなく、単に「あなたが私の話を黙って聞かなければならない理由を、あなたは知らないが、私は知っている(だから、私が上位者である)」と言っているにすぎません。
日本的コミュニケーションの特徴は、メッセージのコンテンツの当否よりも、発信者受信者のどちらが「上位者」かの決定をあらゆる場合に優先させる(場合によってはそれだけで話が終わることさえある)点にあります。そして、私はこれが日本語という言語の特殊性に由来するものではないかと思っているのです。(pp.216-220)
はは…確かにこういう電話ときどきかかってくる。それに教室内の教師−生徒の関係がこの非対称性に基づくものになっているということも確かで、私などそれだけでは申し訳ないと思って必至になって根拠を示そうとするのだけれど、その示し方がちょいちょい書物という権威に頼るということになってしまってたりする。
ここは余裕をもってその狡猾さを認めてしまってもいい部分もあるのかもしれない。(2011.1.25)