| HOME | descripion |descripion2 |descripion3 |古い記述をふりかえる| 作田啓一『恥の文化再考』|
|山極寿一『暴力はどこからきたのか』|江國香織・すきまのおともだちたち | 吉本ばなな |
| 関川夏央『戦中派天才老人・山田風太郎』| 石黒耀 |
| 「家族」をめぐる新聞記事やテレビのニュースなどの扱いは、客観報道あるいは科学的な勝ち中立的な言説であるよりは、むしろ、フォークロアとなっていると指摘しています。 フォークロアとは民間伝承という意味です。つまり、そこで伝えられる言説そのものが一つの「物語」となっており、それは民俗学の研究対象足りうるということになります。あるいは、その「物語」が拠って立つ「価値観」を分析することは社会学的に重要な分析になるよと岩本は述べているのです。 社会学には民俗学的手法、エスノメソドロジーと呼ばれる手法がございましてね。これはなかなか面白いぞと読み進めて参りますと、まず警視庁の殺人統計から2005年に発生した殺人の総数に占める「家族」の割合は44.19%、「知人・友人」が22.3%、「職場関係者」が0,65%、「面識なし」が15.4%で、その他が12.01%であるという「事実」確認から入っています。 そして、1962-63年をピークに殺人発生件数も検挙数も減少しているという事実と合わせて考察すると、「家族」以外の発生件数が減ったのではないか、そのため、相対的に「家族」の殺人比率が増えたのではないかという推測を岩本は行っています。 次に少年によるa)殺人・殺人未遂事件のb)発生件数の暦年推移とc)尊属殺人検挙数・0-14歳児他殺の発生件数の推移を検討し、それぞれ、1970,1973,1975年をピークに減少(尊属殺人のみ1994年に再度少し上昇)の傾向がみられることを確認しています。嬰児殺はもっと顕著に1950年をピークに急激な減少傾向を示します。 これらの統計数値が意味するものは、「親殺し、子殺しが最近になって増えた」とはいえないということで、むしろ事実は逆で、減少傾向にあるということが明確になります。 つまり、『ALWAYS三丁目の夕日』の大ヒットによる昭和30年代ブームとは異なり、その頃こそ、温かな家族団らんのイメージに反して、家族内殺人は圧倒的に多発していたのです。 「家族崩壊」という物語が広がり、その反動で「かつてはよかった」という物語が副次的に紡ぎ出されてきたために、われわれはつい錯覚をするのだというわけです。 自殺についても、人口の変化ということと合わせて考えなければならないと指摘しています。母集団の問題です。人口十万当たりの数値で比較するとイメージは変わってきます。更に、自殺は通常年齢が上がるほど増えてくるため年齢標準化自殺率が使われるのですが、それを用いると、2003年男性で33.2%女性10.9%であり、1955年の男性38.5%と女性22.4%に比べて低い数値であることが明らかになります。 こうした統計的処理をきっちり行わずに警察が統計数値を発表するのも、「真実を探るのに欠かせない懐疑心の貧困」が誘因として存在するとウィリアム・ウェザロールというカナダ人研究者が指摘しているのだそうです。 岩本は、日本のメディアが好んで数値を出し、「いかにも科学的」というイメージを振りまきながらも、その実、まるっきり科学的に考察しようとする姿勢を欠落していることを指摘しています。これは似非科学の詐欺商法の手口と同じですね。 実は、あまり偉そうなことは言えません。「家族崩壊」のタイトルを用いて、20年程前に生徒会誌に文章を書いているのです。センセーショナルなタイトルに加工したのは現在ジャーナリストとして活躍している当時の会誌担当副会長で、わざわざ字数を指定ページ数に合わせて、やや窮屈な終わり方をさせたにも関わらず、逆に余白ができてしまっていたので惜しいことをしたと思ったのを記憶しています。あれは私の汚点ですなあ。反省しまています。阿呆さを露呈してしまった。 ここからの記述が面白い。 韓国の「朝鮮日報」の2000年記事と1954年の「朝日新聞」の記事との比較をして、物語化=解釈枠組みの時代的変化を検討していくのです。 1960年には「貧困」という解釈か規範あるいは正常からの逸脱として解釈されたものが、家族内殺人については次第に説明が付かなくなり、「価値観の混乱」が使われるようになります。アメリカ支配、欧米的価値観の流入、世代間ギャップという物語が付加されます。 それが1973年に再び変化します。コインロッカーベビー事件を契機に「母性喪失」という解釈が使われはじめ、逸脱事例としてではなく、家族一般の変質として取り扱われるようになるのです。 1977年開成高校生事件や1980年川崎金属バット事件をきっかけに「家庭内暴力」の発見があり、過程構造へのまなざしが顕れます。 1990年代に「児童虐待」の発見に変化し、2000年には「家族崩壊」「家族解体」など家族自体の機能不全という議論に達したというわけです。 韓国では、@過保護・過剰期待の母親という批判の解釈はない。日本での「過干渉の母親」と「存在感の薄い父親」というステレオタイブ化した家族像は採用されない。A親や存続に対する「孝」は絶対で、その規範を犯す「悖倫児」に対する非難がなされ、日本のように少年への同情はない。B日本のように普遍化して扱うことはなく、特異な事件として猟奇的な親殺しは扱われる。 大正11年から昭和2年で養育棄児数と親子心中数が交差するのですが、これは、この時期に日本人の「子どもを他人に委ねる行為に対する評価」が変化したのではないかと岩本は推測します。 昭和7年の新聞広告でも幼児を差し上げるというものが見られるという証拠を挙げて昭和9年頃までは、こうした子供の生命を他人に託すことは絶対的罪悪とはされていなかったのです。それが親の養育を絶対視するようになれば、心中、つまり子殺しと自殺を同時に行わなければならなくなってくるというわけです。 岩本は、更に、韓国との比較を行い、韓国(ヨーロッパでも)では始祖を中心に、始祖からの男系血縁のつながりで親族が編成されている。これが日本では「兄弟は他人の始まり」で、兄弟でも結婚して新たな家庭を築けば一つのイエとして分節化し、独立的な存在になり、あとは養子を迎えてでも独立の単位として「代」を継続すると考える。 韓国では国会議員299人中、親も議員だった者1人だけだという事実を示し、「一族単位」で動いているからだという指摘をしています。 親子心中の報道について韓国人は「どうして祖父や伯父に頼らないのか」という疑問をもちます。日本の現実では、親族に頼ることができなくなっています。 「他人に迷惑をかけてはいけない」*という社会規範が、親子心中の背景にあり、迷惑が許容される範囲を同居の家族内に限定されているのが近代日本社会だという指摘もおもしろいですね。 これは面白い。 多分、今後、さらにバラバラに切り離されて、子供は親兄弟からも独立し、自己責任が求められるようになる方向に進んでいるような印象を受けています。「ひきこもり」なんていまに消滅するのでしょう。 多分、われわれは「暗黙の了解」事項になっているメディアなどが広め「当たり前」化し、「見えない価値観」になっている判断基準を疑い、冷静に検討してみれば、全く別の風景が浮かんでくる可能性があります。 岩本の指摘はかなり刺激的でした。(3.2) *「日本では一種の自己責任論として、第一次世界大戦以降、内務省の民力涵養運動を通し、異郷者の集う都市化した社会に対応する、最も遵守すべき社会規範に高められていきます」(225-6頁;国立歴史民俗博物館研究報告第141号所収岩本道弥論文参照)。イエの一系性という原理に基づくといいながらも、親族にさえ頼れない、依存することを忌避し、拒んでしまうような感情を生み出す構造が広く現代日本社会に共有されていて、それがマスメディアによってバイアスをかけられて広げられ、再生産されていることを岩本は問題視しています。そして、その意識を「日本の伝統、美風だとして、責任を家族内に押し込めてしまうような政策や法律など、政治的動きも促進要因の一つに」なったということに、われわれはもっと意識化していく必要があるでしょう。 私自身がこの「他人に迷惑をかけない」という規範に意識が支配されていた、洗脳されていたということに気づき些か苦笑いせざるを得ないようです。 |
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