| 関川夏央『戦中派天才老人・山田風太郎』| 石黒耀 | 岩本通弥 都市化に伴う家族の変容 民俗学の視点から | 斎藤環『ひきこもりはなぜ「治る」のか?ひきこもりはなぜ「治る」のか?』 | 関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』|『ニッポン天才伝』|
昔(2004年くらいだろうか)書き込んだ断片が出てきた。「読書の余韻」は山田慈雨名義か時有(ハイデガーの名著を文字っていた)名義で、生徒向け、保護者向けのホームページと並行して書き込んでいたもので、更に推理小説・娯楽小説を扱って書き込んだものも別名義で書いていた。当時はとにかく速く読み、速く書けたのでできた馬鹿馬鹿しい遊びでもあり、真面目に考える機会を保とうとしていたようだ。
次第次第に、「伝えたい」という欲求が空転していくようになり、プロの書き手でもないので仕方のないことだけれど、面白味が薄れていく。多分、これを書いていた時期に既に疑問を感じていたものと思う。ただ、現時点でも、もう一度学び直したいと感じる部分があるので再度公開してみた。(こんなかたちでも公開というならということだが)
第一の熊木の本から取り上げている問題は、こんな風にも書き換えられるだろう。
日本社会だけではないだろうけれど、ややもすると物の見方が狭く窮屈に「レッテル」が貼られ、人間の行為にある「物語」が付け加えられて意味づけられることが多い。古くは村落共同体のうわさや掟、暗黙の了解がきつくその住民を縛り付けていただろうし、近代社会においてもよく似た要素ともう一つマス・メディアによる「物語」の付与がある。軍事国家では、国家による強制もある。
精神医学や文化人類学は、その硬直したレッテル付与をひっぱがす役割を果たしたから新鮮であり、そのような役割ゆえに期待を浴びたのである。
にもかかわらず、いまや精神医学は、むしろ新たな「レッテル貼り」の道具となっている。 (2008.2.3)
コミュニケーションということを考えていく上でも参考になるものの多い書である。中井久夫の本を読むようなテイストがあった。常々私自身が感じていることと同じ内容の指摘があったので、その部分を引用したい。
現在、もっと複雑な事態が引き起こされている。あまたの精神科医が連日メディアに登場し犯罪をはじめとするさまざまな社会事象を論評する場面に出くわすことが多くなった。「物語」が閉じられた治療空間から逸脱し、社会全体に発せられるようになってしまった。あたかも「物語」という名の社会正義でもあるかのようである。本来閉じられた場でひっそりと行なわれるべき犯罪容疑者の精神鑑定の結果も、そのいくつかはさまざまなルートで公にされ、ますます「物語」の根差す領域が不分明になってきている。
そもそも、精神科臨床の方法論にのっとり、個々の症例について厳密に「物語」を紡いでゆくなら、その延長線上に社会へ向けての「物語」など成り立たず、安直な社会評論はできないはずである。このようなことを続けていると、いつか社会の側から精神科のあり方に疑問が発せられ、精神科臨床の方法論の基盤が掘り崩される時がくるだろう。これは精神科だけでなく、ひいては社会の損失のはずである。
さらにこのような精神科医には、自らの専門性のおおもとである「物語」作成のすべを臨床から転用して、すべての社会事象に説明を与えようとする〈説明強迫〉傾向の強い人々が多い印象を受ける。実はこの〈説明強迫〉もよくない。精神科医がある犯罪者の奇行に説明をつけることにより、本人の独善的行状に社会的容認を与えてしまっている可能性がある。
言葉による現象の追認にすぎないと思われるものも多い。わからないものは説明せず「わからない」と話す勇気も必要ではないか。
あらゆる社会事象に心理学的な説明が求められるということもあるだろう。しかし、そういう今だからこそ、精神科医の責任ほ重大である。いたずらに精神科患者の範疇を拡張しないように、各々の医師がこころしてゆかねばならない。本当虹・精神科医療が手をさしのべるべき相手はだれか。それをしっかり意識すべきである。加えて一般の方々も、自らが神神科の医療サービスを受ける立場となるかもしれないことを想定して、先に示したような事情に自覚的になれるとよいだろう。「物語」の逸脱に対し抑制の働く治療者を、選びとる眼を皆がもてるようになるならば、精神科医各人も襟を正さずにはいられなくなるはずである。(54-5頁)
「情報公開」流行の時代である。しかし、何でも無差別に公開して良いわけはなかろう。それ以上に、患者は、治療してもらうためのみに私的情報を提供している。それを無断で公開されては信用できなくなる。ある人に聞いたことだが、カウンセリングにかかったら、最初から「家族が問題だから家族を連れてらっしゃいと言われた」とのことだ。警察の犯罪捜査で言えば見込み捜査のようなもので、長野県の事件でも最近、被害者の娘さんが疑われて取調を受け、自首を勧めるようその娘さん(被害者の孫)に刑事から言われたといった事件があった。別の被疑者が自白したため冤罪は辛くも免れたようであるが、構図としては似ている。
その人は、精神科とかカウセリングとかに行けば、両親が悪く言われるのだろうか、と憤慨していた。別の知人は、私にいろいろと母親が幼児期や思春期に自分にしたことや父親がしたことについて語ってくれた。私はふと気になって「それはいつ気づきましたか? 治療の過程でですか?」と聞いてみた。いろいろと話を聞いていると、私には、その「記憶」は、治療者が作り上げた「記憶」なのではないかという気がした。おそらく、その人の両親や年上の兄弟、あるいは叔母さんなどに確かめてみると少しははっきりとしてくるのではないだろうか。
にも関わらず、本屋の本棚には嫌というほど家庭環境が原因で精神的な病に陥ったとして親を摘発するかのごとき内容の精神科医の書いた本が並んでいる。それに便乗した軽い社会学者や教育学者、評論家が書きたてる。そのうちの何パーセントが厳密な検証をしているのだろう。
本書の著者のような「人間を看る」タイプの精神科医が一体何人いるものか不安になってくるのだが、それを言えば、教師も同様だ。(9.27)
…遺跡は、かつて栄えていたとてもすばらしい場所の、残骸なのだ。
もうどうやってもあのにぎやかさは帰ってこないのか? そう思っただけで、私は悲しくなった。
こんなに多くの何かを失って、得るべきものはなにかあったのか?
より安全になったわけでも、すごく便利になったわけでもない。ただがむしゃらに道を作り、排水を流し、テトラポッドをがんがん沈めて、堤防をどんどん作っただけだ。いちばん楽なやり方で、頭も使わないで、なくなるもののことなんか考えないで。
考えれば、適切な方法は絶対にあるはずだったのだ。
お金か? 誰かがそんなものを引き換えにするほどお金を節約できたり、楽ができたのか?
私の友達たちを、返してほしい。はじめちゃんに、おばあちゃんの思い出のかげりのないものを返してほしい。私やはじめちゃんの愛することを、お金に換算しないでほしい。
誰もいなくなった淋しい海底で、私は水中眼鏡をしたまま、息を止めたまま、泣きそうになった。(p.172)
主人公のまりちゃんは、「美大で舞台芸術を勉強したけれど、最終的にはさほど興味をもてなかった」。たまたま南の島でガイドブックに載っていたかき氷屋に出かけ二百円でパッションフルーツのほんとうの果汁がかかったかき氷を食べて、やってくる女の子たちが幸せそうなのを見た。おばさんが福木の並木道を「一周するだけで心が清められたように気持ちが幸せになるから行ってごらん」と薦め、「この道があるから帰ってきてかき氷屋を始めた」と語った。まりちゃんは故郷の西伊豆の海岸でかき氷屋を始めることにする。
母の友人の母親が亡くなり、お祖母ちゃん子だった娘が、遺産相続の醜い争いに疲れ切っているので預かってもらえないかと相談を受けた母親は、まりちゃんに土地の案内を命じる。「むだなことに思えても、ひとりの人にこの町のよさを刻めたら、それはあとで何倍にもなってあなた自身に意外な形で戻ってきます。」と言われて、はじめちゃんを迎えに行く。はじめちゃんは幼いときに火事にあってやけどの跡が顔に残っている。お祖母さんははじめちゃんを抱えて必死で守った。、孫の無事を知るまで自分の治療は後にするような人だった。そうしてはじめちゃんはお祖母さんや両親に守られて生きてきたのだった。お祖母さんの遺産は遺言書にもかかわらず、長男のお嫁さんが抗議をして、住んでいた家も両親は明け渡すことにした。おばあさんの唯一の趣味だった草木も倒され、思い出の詰まった家も潰されて3つに分けて売られるというのだ。
「環境保護とかいうと、どうしてもサバンナとか熱帯雨林とかが浮かんでくるように、私たちは仕向けられているでしょう? 身近なものに目を向けられると困る誰かから。」「でも、ほんとうは、そういう痛み…おばあちゃんの木を残したいとか、そういうくらいのことだけしか、私たちには背負えないんじゃないだろうか」
まりちゃんは、本当に故郷の山や海が好きで、いろんな店やそこに集う人々の気配が好きだ。海にはいるときには感謝のことばを心で唱える。夏の終わりには無事に泳げたことの礼を述べる。それは山に守ってもらっているような気がすることでもあった。
私は、いつの間にか、まりちゃんやはじめちゃん、まりちゃんのボーイフレンドだった子のような相手の心を思いやることばの選び方を忘れているところがある。作者のよしもとばななは、そういった人間の距離の置き方や詰め方を描くのが巧い人だ。
自分の好きなもので周囲を固めていく生き方をこわばった筋肉を解きほぐすみたいなやり方で描いていくのが実に巧みな文章が心地よい。
学校図書館に入っていたものを借りだして読んだ。心の碇を沈める場所をもてるような贅沢な生き方をまだ二十代の人もできるのだと知った。感性から私が授業で展開していたことを理解してもらうにもよい材料になるのではないだろうか。(9.27)
ジョージ・マイソン『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』(岩波書店)という本がある。かなり読みにくい本だ。しかし、重要な指摘をしてくれている。
著者は、新聞記事やCMのキャッチコピーを引用し、その内容分析をくり返しながら、ハイデガー・ハバーマスが理解し、広めてきた「コミュニケーション」という語の意味するところと、携帯電話に現代のビジネスが期待する内容との間に極めて重大な差異があることを立証していく。
ここでは、マイソンがしたような論証過程を経ていくことはできない。簡潔に述べる。ハバーマスら哲学者にとって、「コミュニケーション」とは、二人の人間が相互理解に達しようとする営為である。携帯電話にとっては、それは、「欲望の原理」、他の欲望を満たすための入口である。
「通りを歩いていて、行きつけのスターバックスまで二、三ブロックのところに来たら、ネットにつながるケータイを引っぱりだして、スターバックスのメニューをゲットし、エスプレッソをクリックすれば、送信はおしまい。これでもう注文だけでなく支払いもすんでいて、あとはピックアップしに行くだけ。」
『ニューヨーク・タイムズ』二〇〇〇年三月二日
という記事がその典型的理解を象徴している。他方、ハバーマスは次のように記す。
われわれが誰かを「合理的」とまで呼ぶのは、その人が欲望や目的を知らせ、感情や気分を表現し……それからその表明された経験に関して、そこから現実に即した帰結を引きだすとともに、それ以降一貫した行動をとることによって、批判してくる側の人間にもなるほどと思わせることができるときである。(傍線は著者)
もっと砕いて表現してしまえば、よしもとばななが『海のふた』という小説で表現していることだ。主人公の若い女性が自分の好きなもので構成したかき氷屋を作り、その小さな世界も、自分の好きな海辺の町の一部として輝いているように働いている。そこにやって来た母親の友人の娘(はじめちゃん)は、氷屋のまりちゃんの心から求めている世界を理解する。そして、理解しているということをまりちゃんに伝えるために、言葉や表情や行動を通じて伝える。
はじめちゃんは、自分の命を火事の時に救ってくれた祖母に保護されて、顔に大きなやけどの跡を抱えながらもひねくれずに育ってきた。祖母の大切にしていた庭の木に囲まれながら、伸びやかに生きてきた。祖母の死は、伯父伯母による遺産相続争いに巻き込まれ、祖母の大切に思い出の家は売られて毀されてしまう。木たちも根こそぎにされてしまう。そんなお金のためにかけがえのないものを失うことを全身で悲しんでいる。
まりちゃんが、自分の町がお金のためにどんどん大切な思い出につながるものを破壊していき、寂れていくことに抵抗している。二人は、少しずつ共通の思いを確認していく。
こうした相互理解の過程が、コミュニケーションなんだとハイデガーやハバーマスあるいはヤスパースは考えていた。政治的討論も、そうしたコミュニケーションに依拠しているから価値あるものであった。
ところが、そうした討論によらないで「システム」に従うような生き方が蔓延しているのが現実で、ハバーマスはそのことを批判していた。共通の手続きや規則によって強制的に人々がひっつきあっている状態に、人々が了解し合う状態が置き換えられることは、コミュニケーションが抑圧されていることなのだ。
携帯のもたらす世界は、その抑圧状態を推し進めることなのだ。一人一人の欲しいもの、欲することに耳を傾けるのではなく、既に企業によって用意された商品のセットを半ば自動的に、「システム」として手元に引き寄せることを携帯はスムーズにする。よしもとばななの『海のふた』でも、まりちゃんのかき氷屋をチェーン店にしないかと誘いをかけるビジネスマンが登場する。まさしく彼は携帯電話で店にかけてくる。まりちゃんは忙しく、はじめちゃんが、ちゃんと断ってくれる。ビジネスマンにとっては金儲けの手段に過ぎない。まりちゃんが何を欲しているかに関心を示そうとはしない。「システム」としての新しいファッションのかき氷屋、金につながるそれに関心があるだけだ。
学校の授業においても、哲学者の「コミュニケーション」が問題にされない。「システム」の伝達に終始する。私が逆らいたかったのが、この一点であった。「自分の頭で考える」こと、「自分の真に欲することを見つけようとする」こと、それから始めて、相互理解へ進むことをいくらかでも誘いたかった。
既に敗北宣言をしてしまい、「システム」の指令伝達に堕してしまったけれど、数年前の卒業生ならばかすかに覚えてくれているかもしれない。「自分が本当にしたいこと」から考え始めることが大切で、どうすれば親や教師や上司が誉めてくれるかは一度捨てた方がよい、と言っていたことを。
「欲望の制御」こそが、古代思想家が問題にしていたことなのだが、商品経済の発達は、それを否定する方向に進んできた。これについても一度しっかり整理しなければならないと思う。われわれの「幸福」は「欲望」の充足にあるのか、それとも逆なのかということだ。(9.30)
表紙へ戻る
| HOME | descripion1 |descripion2 |
山極寿一『暴力はどこからきたのか』|江國香織・すきまのおともだちたち | 吉本ばなな |
| 関川夏央『戦中派天才老人・山田風太郎』| 石黒耀 | 岩本通弥 都市化に伴う家族の変容 民俗学の視点から | 斎藤環『ひきこもりはなぜ「治る」のか?ひきこもりはなぜ「治る」のか?』 | 関川夏央『おじさんはなぜ時代小説が好きか』|『ニッポン天才伝』|