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これは、そのまま読んでも現在の時点でも通用するのではないかと思う文章だ。
もともとは、紙媒体でのようなスタイルで載せていたものですが、多少、イジって見やすくしてみます。
本当はそういうの苦手なんだよね。


 斎藤勇『自己チュウにはわけがある』(文春新書)から少し引用します。
 期末テストなどの前日試験勉強するのが当たり前のはずです。ところが、そうでない人がいます。これはどういうわけでしょう。

 …試験の前日だというのに、一晩中ビデオを見ている人とか、いつもはやらない部屋の片づけをはじめる人とか、
酒を飲んでいる 人、友達の家に遊びに行く人など、試験勉強以外のことをやっている人が意外と多いのです。
私の学生時代にも、そんな友人がいました。いつもは遊びに来ない のに、試験の前の日になると必ず来て、私の部屋で遅くまでテレビを見ていくのです。
私は日頃、勉強していないので、一夜づけの勉強をしないといけないので すが、そんなことに頓着しない彼は、私のいやがる顔を横目に勝手にテレビを見ているのです。
彼はというと夏休みや冬休みにはノートを整理するという勉強家 でしたので、
試験の準備も万端ととのい、余裕で私のところに来ているのだろう、と思っていました。(118-119頁)

 ところが実は違うのだというわけです。

彼は自他ともに認める秀才でしたから、試験ができて当然なのです。実際、できるのです。
でも、できて当然は、大変なプレッシャーになります。
他人が気にしている以上に、自分は人から見られていると思っているので、
自分は常に「秀才」でなければならないのです。でも、テストに絶対は ありません。もしかするとできないかもしれません。
成績が悪かったらどうしようと、前日になると、心配になるのです。不安はその日が近づけば近づくほど大 きくなります。
 そこで頭のいい秀才君は、明日のテストの成績が悪くても「秀才」でいられる方法を考えつくのです。
自己防衛のメカニズムが働くのです。これは無意識にも働きます。

 それが試験前日、勉強しないということなのです。そうしておけば、
たとえ成績が悪かったとしても、前日、友人の家でテレビを見ていたから成績が悪かったんだ、と理由づけができます。
これで、「秀才」の名を汚すことはないのです。
そして、成績が良かったらこれ幸い、前日に勉強しなくても良い成績がとれたと いうことで、
ますます自分の秀才ぶりに自信をつける、という都合のいい話になっているのです。
実際には、いつも勉強しているのですから、前の日に勉強しな くたって試験はできるのです。

 でも、なぜ、わざわざ私のところに来てテレビを見るのでしょうか。
自分のところで見ればいいのに、どうして私の勉強の邪魔をしにきたのでしょうか。私をライバル視? そんなことはありません。私はライバルとはほど遠い存在でした。
ただ私は、たまたま近くに住んでいたのです。彼にとっては、誰か同じクラスの人が必要だったのです。
クラスの人であれば、誰でもよかったのです。
彼は前の日に勉強しないで試験を受けた、という証人がほしかったのです。

 このように秀才のほまれ高い人でも、内心はビクビクということがあります。
自他ともに認める自尊心を維持するために、かなりな苦労をしているのです。

 以上は、心理学者のバーグラスの実験を紹介するための前フリの部分です。それは、セルフ・ハンディキャッピングの心理を証明するための実験です。


 要するに「できる自分」というイメージを傷つけたくないという動機から人は行動を決めるわけです。

しかし、こんなことをくり返していれば、むしろ後退し ていき、発展性はなくなってしまうのではないでしょうか? 

人間には、こういった心理的傾性があるということを踏まえて、だからこそもっと可能性を追求す る行動に切り換えるということが大事なのでしょう。

 山折哲雄・ひろさちや『死を見つめて生きる』(ビジネス社)という仏教に詳しい二人がリレー式に書いている本が出ています。その中から拾ってみます。家族の再生についての話題です。


 ヨルダンで2台の自動車に分乗して砂漠を走っていくとき、後ろの車の運転手がどうみても子供だったの

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でいくつか聞くと11歳だという。父親の後を懸命に 疾走していく11歳というのに感動したなどという話もいいのですが、親のダメな面汚い面を見せるのが大事だという話を取り上げてみます。

 関西のある中小企業の社長さんで、母子家庭の子供を支援し続けて、会社を発展させたというヒトの話を山折さんは紹介しています。


 昼間社員として働いてもらい高校、大学で夜、学んでもらう。そのために惜しみない支援をして、今日までやってきた。おかげで事業業績も伸ばしてきた。けれども結局失敗だったと言うのです。

 どうしてか?
 父親を知らない子どもは、父親に代わる人を探す。

 彼らのなかに理想的な父親像があり、その像に近い人間を探して父親のように慕うといいます。
 その対象となるのは上司であったり、先輩であったり、ときには友達であったりします。

 ところが、そういう上司や先輩は、必ずしも優れた人間とはかぎらないというのです。
相手が、父親に代わりうる本当に素晴らしい人間であればいいのですが、
経験的にそういう人は五〇人に一人か、一〇〇人に一人しかいないと社長は言いました。

 すなわち、慕われる人のほとんどが、平均か平均以下の人だというのです。
しかし、母子家庭の子供たちは父親代わりになる人を心から慕っていますから、ある意味で、ただひたすら信じてしまう。

 ときには、そうした父親代わりの人間の指導によって、とんでもないところへ行ってしまうこともあります。
社長によれば、それが組合運動に結集したということでした。

 しかも、父親代わりの人間がよい人間でないとすれば、
結局そういう人間を信じる子供に限界が来てしまうというのかもしれません。

 経営者が組合運動を語るのですから、これは話半分に聞く必要があるかもしれません。

しかし、父親のない子供は他に父親を探そうとするという話は、なかなか真理をついているのではないかと思いました。(186頁)

 ひろ氏は、自身母子家庭で育ったと語ります。しかも、彼の場合、ソ連抑留で生死が分からず、引き揚げ援護局から家に連絡があり、「引き揚げ援護局を閉鎖したいので、十中八九帰る見込みのない父親を戦死ということにさせてくれ」と言ってきた。


 これに怒った母親は、「赤紙一枚で呼び出しておきながら、その生死もわからないとは、いったい国家は何をやっているんだ。戦死と認めるハンコは絶対に押さない」と応じたそうです。


 そのため、一番下の妹が中学生になったとき、「父親のいる子は手を挙げなさい」、次に、「いない子は手を挙げなさい」と質問して数が合わない。「このク ラスには、父親が生きているか死んでいるかかもわからない馬鹿がいる。手を挙げていないのは誰だ」と問いつめた。妹は真っ青になり、みんなに手を挙げてい ないのが妹だと分かってしまった。その日、泣きじゃくって「なんとかして」と頼まれ、死亡宣告の書類にハンコをついたそうです。


 だから彼は、次のように述懐しています。 

 父が出征したときは、私もまだ子供でした。そして、子供心に「父親は、いつか必ず帰ってくるんだ」と信じていました。

 おそらく、そのときの私の父親像は、非常に理想的な人格となつていたと思います。

 完全に父親不在のなかで生活していると、子供は自分のなかで「父親とは、こういうものだ」と思い込んで、理想的な人格をつくり上げます。

 当時の私は、
「親父は怖いものだから、突然帰ってきて俺がこんなことをやっていたら、怒られるかもしれない」

という恐怖感に怯えていました。ある意味で、これはキリスト教の神の概念に近いのではないかと思ったことさえあります。

 しかし本来、人間の父親や母親は、見苦しく醜いものです。きっと私も父と一緒に暮らしていたら、父の醜さを見ることができたでしょう。

 子供としては、父親不在のなかで完全な父親像を抱き続けるよりも、その醜さを知っていたほうが楽だったのではないかという気がします。(189頁)

 続けてひろ氏は、現在の日本の父親は子供に醜い姿をさらしているか? と問いかけているのです。単なる月給運搬人となって、遅く帰宅し、早朝に会社に出かけてしまっていてはそれもかなうまい、と言うのです。


 そんな状態では、子供は父親の価値を「うちの父さんは会社で偉いんだ」といった肩書きでしか測れない状態になっている。それでは父親は人形と同じだと述べています。

 母親も同様で仕事でいないとなると、理想面だけを見せてしまったり、教育ママの面だけでつきあったりしてしまうとしています。

       自己チュー

人間の心理状態というのは、表面的に見える部分と異なるものをもつというわかりやすい話ですね。上のいずれの場合も。

自分イメージを傷つけないために負の行為をとりあらかじめ言い訳を作っておく無意識の行為。

「モデルとしての父親」には、「人間は完全無欠でなくていいんだよ」という諭しも含む「人間的モデル」が適当。

いずれもわかりやすい。なのにどうも女性はすぐ忘れておられるような気がするのはなぜ。        山折・ひろ


☆ 人間とは自分が何を欲しているのかわからない堕落した、弱い存在だ、というのが坂口安吾の『堕落論』で指摘していることで、私は高校2年生のときに読んで、すごく惹かれました。その影響で、その後も、どうしてもアメリカ流の民主主義で、自立した立派な市民が政治に参加していくという説明に反発していました。

 東大の他分野交流演習「人間の尊厳・生命倫理を問う」というゼミにゲスト参加して政治思想研究の苅部直さんの『堕落論』的な人間観の見直しについての講義を聴いた田口ランディさんは、二次会で、「べてるの家」を説明しようと試みて失敗したそうです。


 「『浦河べてるの家』は北海道の浦河にある精神障害をかかえた人たちの有限会社・社会福祉法人の名称。1980年に社会復帰のための作業所として始まり、現在は年商1億円、事業従事者は100人を越える。年間見学者は1800人、いまや過疎の町を支える一大地場産業となっている。」と説明していますが、人間には越えられない苦労がある、っていう考え方をして、「その越えられない苦労を守る社会的な装置を作ろうっていう発想」から組織を運営しているわけです。

 人間の「弱さ」、「毀れやすさ」から出発すると、その「弱さ」は可能性につながってくるという「弱さの哲学」みたいなものに依拠しているのですが、ほんとにこれは説明しにくい。

 哲学者の鷲田清一さんなんかも、懸命に展開しているものですが、高度成長期に切り捨ててきた「弱さ」というものの人間的価値にもう少し寄り添ってみると、もっといろんなものが見えてくるんじゃないかと思いますね。

 上でみた生身の人間の「醜さ」とか、哲学の中村雄二郎さんや臨床心理学の河合隼雄さんが問題にしている人間の「悪」の側面は、本来、目を背けてはいけない面のような気がします。山折・ひろ両氏が仏教の基本として説明していることの一つが、真実を隠して、口当たりのよいイリュージョンにもとづく対応を捨て去ることから始める必要です。

☆ 25日夜にもNHK教育テレビでLD,ADHDについての小学校の現場での取り組みを紹介する番組がありました。専門的知識・情報が親や教師にうまく伝えられたり、カウンセリングを受けられたりするシステムの重要性がよく理解できたと思います。神戸市の巡回指導員制度の紹介があったのですが、私には到底勤まりそうもない仕事だと感心しました。

 おそらく、教師には言えない悩みを抱えておられる保護者は本校にもおられるのだと推測します。教師によって意見・態度は随分異なるものだと思いますし、

私にはどれがよいと言えるほど分かっていないのですが、

私に解決能力はないかもしれませんが、

場合によれば個人的な状況や担任が知っておい方がよいことをお聞かせ願うことが問題解決の一助になる場合があるかもしれませんね。

ただ、秋の個人保護者会の折りにも、どうお答えしてよいか戸惑ったというケースもございました。深刻な内容になると、準備がないとどう対応してよいのか困惑する場合があるのですね。

多分、時間をかけて観察した上でないと答えられないことというのも結構あるような気がします。

 私の妻がピアノで関わっている障害を持つお子さんが、公立小学校の普通学級で学ばれているのですが、今日はとても機嫌がよかった。どうしたのかお母さんにうかがうと、同級生が男女数人がその子の家を訪れてクリスマス会を開いてくれたのだそうです。中でも一人の女の子が、幼稚園でも知的障害をもつ子と接してきて慣れているとかで、遊びの中にうまくそのお子さんを参加させるように呼びかけてくれたのがとても有り難かったとのことでした。男の子のマジックが気に入り、みんなで賞品まで用意してきてくれたビンゴ・ゲームもなんとか仲間に入れて、とてもご機嫌だったのだと言います。

 このお子さんの場合、知的障害は脳障害の副産物としてどうしようもないのですが、他の人とのコミュニケーションはとれるし、取りたがるところが、その家族にとっては救いのような気がすると妻が言っていました。

 LDの子の場合でも、本人としては内側から起こってくる衝動をどうしても抑えられない。状況が読めないため、自分の行動や発言が他の生徒に違和感、あるいは迷惑だ、邪魔だという感覚がわからなくて、本人としても辛い、ということらしいのです。


 難しい問題だと思います。

おそらく、医療がオーダーメイド医療へと向かおうという目標を明確にし始めています。

教育の方はまだまだで、多分、LDを含む障害児に対応する教育のあり方の模索というのは、教育全般の改革に関わってくる問題なのだなという印象をもちました。


 たとえば、小学校において、授業内容が簡単すぎて意欲が湧かず落ち着かなかった子供というのだって、本当は理解されない問題を抱えていたわけです。現在読み進めている彼らの書いたレポートを読んでいると、その抑圧されていた力というのが推測できますし、中には小学時代の後遺症のような文章にも出くわします。教師に迎合したような型にはまったものがあるのです。


本当にオーダメイド教育が可能かどうかはわからない。

それこそ口当たりのよい宣伝文句としての「個別指導」の看板なら掃いて捨てるほどあるけれど。

この数年、あまり順調とはいえなかった。

それぞれの個人として授業においても対応したいのだが、

担任として受け持った子でもなかなかあるテーマについて

その子の内面にあるものと外にある言説との関係を結びつけるような働きかけは、満足にできた試しはない。

私の能力不足なのかもしれない。
しかし、なんとか「自分」の視点というか立ち位置(point of view)を

ときに相手のそれに切り換えてみようとする努力くらいは続けている。

そのことは、周囲の同僚に理解されるよりも、軽んじられる気配があって辛い六年間であった。
甘い言葉、やさしい言葉ならば受け入れられやすかったのだろう。

つい、口をついてしまうシニカルなことばでは誤解されて当たり前なので、自業自得とするしかない。

ただ、問題行動(といってもしれているんだけれど)をとる生徒の背景要因を真剣に探る努力は、

学校現場では、そんなに容易ではなく、過程の側にも抵抗があるし、教師のルーティン・ワークを阻害するため、

嫌がられることは確かのようだ。

教師の側の常識とか倫理観とか美意識とかを、一旦括弧に入れ、

理解しようとする構えは必要なことだと思う。

だが、優等生に対してまでこの態度を適用しようとすると、途端にかなりの反発を招くのは

不思議な面もある。無論、私のものの言い方にも問題があるので、

別次元のものが混ざっているとは思うが、大半の教師に優等生に対する思い込みが頑強にあるような気がしてならない。

多分、成績優秀の子は、最初のケースのようなどこかで自分で気づき、

修正しておくほうがよいような行動傾性を放置して先へ進むことになるのだろう。

「父親」の不完全性のもつ意味のようなものが理解されないままで生きていき、

どこかで生きにくさとつながったり、誰かを傷つけたりしなければよいがと思う。


教師や親たちの「思い込み」の頑強さには驚くようなところがある。

私は始終揺らいでいる弱い人間だから偉そうなことは言わない方がよいと思うのだが、どこか心配である。

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