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| 河合隼雄対談集『続 物語をものがたる』(小学館)の中に、作家の中村真一郎が相手の回がある。中村は王朝文学にも英米文学にも詳しい。 河合得意の「とりかえばや物語」「有明の別れ」の話題になり、猥褻な小説の話題に流れていく。イギリスのビクトリア朝というのは偽善的な社会で、ディケンスの膨大な作品群にはまったくエロティックな場面は出てこない。一体どうして子どもが生まれてくるのか皆目見当がつかないくらいだ。「世紀未には、なにしろプラトンの『パイドロス』や『聖書』もいけないところは省いてたぐらい」だという社会だ。 ところがそのくせ膨大な匿名小説があって、微に入り細に渡り性的描写のあれこれを試している。その量もまた膨大なのだ。 さてここからが「思想史」絡みなのだ。引用しよう。 フランスでは、十八世紀末のロココ時代から大革命直前までに猛烈な勢いで猥本が書かれるんですね。作者は百科全書家の人たちです。デイドロの作品は非常に有名で、邦訳もあるけれども、いちばんいいところが抜けている。それは『おしゃべりな宝石』という作品ですが、これは女性の器官を宝石になぞらえて、奔放な女性で大勢の男性と関係した女性の器官が「この男はこうだった、あの男はこうだった」と、サロンでいきなりしゃべりだしたので男たちが困っちゃうという内容です。ところが、そのなかの一章がものすごい高級な哲学論文になっている、ディドロですから。この章は読みたくない人は読まなくていいって書いてあるんですが、その章を読むと、エロティックなところが、なおさらエロティックになるのです。 話は流れて、日本のことになる。日本人は伝統的に「おたく」なのだ。日常的な細かいこと、「たとえば、この茶碗はどこのどういう土でつくられているかということに興味があって、この茶碗の形は宇宙の構造とどういう類似があるかといったことには、まったく興味ない」。日本の猥本も、王朝ものから始
まって江戸に至るまで、日常性から一歩も抜けていない。 江戸時代の猥本には坊主も出てくるんですが、こんなことをしていたら地獄にいくんじゃないかとか、あの世へいってつぎは牛に生まれてこやしないかとか、そういう輪廻転生のことも考えない。この女とうまくやって、檀家から金をとってやろうというようなことを考えているんですよ(笑)、不思議に。日本人は、ほんとうに形而上学に興味がない。(p.72) これはイギリスも同じ傾向があり、「不思議に形而上学はない」。それに対して、「ドイツの猥本は、これはカントの国ですから、もうむやみやたらと 形而上学的で、むずかしくって、そしてエロティックじゃない。しかしドイツ人は、むずかしい細かい哲学的な議論の積み重ねを読むと、ぞくぞくして官能を刺 激されるんですね。ホフマンの『尼僧モニカ』など、その典型ですね」──という。 だからドイツ人にとっては、カントの『純粋理性批判』はエロティックな本なんでしょう。エロティスムの代表的なドイツ人、女優のディートリッヒが、一生の間、カント狂いだったのも、そう考えるとよくわかりますね。猥本は、ほんとにそれぞれの国の国民性を正直に表現する。(p.73) そうか。カントで興奮するのか…。でも、なんとなく分かる気がする。教科書しか読んでないと絶対に気づかないだろうけれど、デカルトにしてもヘーゲルにしても女性にはすぐに手を出してるしね。猥褻さと哲学とはどこかで重なっているところがあるのかもしれない。 |
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