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  |山極寿一『暴力はどこからきたのか』江國香織・すきまのおともだちたち |



  よしもとばななが「とかげ」をリメイクした作品が『ひとかげ』です。塚本晋也監督が「とかげ」を朗読し、りょうが朗読する塚本の映像をその後観て、いい作品だなと思ったのがリメイクのきっかけだったそうです。
 若いときの作品だけに、職業意識が甘いと感じ、ふたりの過去の体験が誇張されていると感じたそうです。
 「彼らがつらい体験から何を学び、なぜ今もつらい人たちと関わり合っているのか、なぜお互いの暗さに耐えられないと思いながらも、ふたりはしがみついているのか」「そこをポイントにして」リメイクしたのだそうです。
 読み比べてみて、そのことはよく確認できました。
 流石は文章を書くプロだと感心しました。  
 小説なので、粗筋や人物設定にどこまで踏み込んで書いていいものか迷います。主人公の「とかげ」と語り手が出会ったのは、あるスポーツクラブでのこと。とかげはエアロビのインストラクターをしていて暗いムードをたたえていた。そこに泳ぎに通っていた「私」は、ある日、足をつったおばさんがいて、その人に近寄ったとかげが、おばさんの足をに触れて治した場面を目撃したことから、声を掛けてつきあい始めたのでした。
 「私」は、自閉症児のためのクリニックのアシスタントとして勤めていて、保育士の資格をもつため重宝がられている。とかげは、先の出来事をきっかけに鍼と灸の学校に行って、台湾に半年留学して気功も学んできて、小さな治療院を開設した。
 疲れ切ったとかげは「私」の部屋に来ると、胸と骨と骨の間に、ものすごく強く顔を押しつけて、食い込むように強く押して、顔を上げるとすっきりしたみたいないい顔になるのでした。
 五歳から八歳にかけて目が見えなかった時期もあったというのです。それ以前にあった出来事から大きなストレスを受けて、遅れて心因性の視力喪失という現象が出たらしいのです。とかげは、現在でも「私」以外とはほとんど話しません。
 他方、「私」についても、「あなたは得体が知れなすぎる。なんだか不気味」で、子どもの中には近寄らない子もいるような人間です。その自分の中の暗さがとかげと惹かれ合うのだと「私」は自覚しています。同時に、その暗さに反発もしているのです。
 ある日、治療中のとかげを見てあまりの真剣さに注意をします。歩けない状態で来た人が松葉杖を置いて帰ってしまったり、サングラスをしてきた子どもが「うっすらと見えるようになった!」と言っているのを目撃します。それでもとかげは嬉しそうではなく、自分を責め続けているようでした。
 もう少し治療室を明るくしたらと忠告する「私」にとかげは、「小手先だけのことでは、人は治らない」と反論します。相手に「そんな軽い気持で、余裕をもって人の体に、命に、心に、魂に、触ることができるの?」と聞き返します。
余裕と呼んでもいいのかわからない。それが愛かもしれない。僕にとって、子どもたちの心と体は、聖堂だ。僕が作ったのではないし、僕には修理もできない。でも神聖なものとして敬意を持って扱いたいんだ。そこは、そんなにひどいことをしていないと思う。軽々しいところもないと思う。
 成るほど。甘くない職業意識です。わたしも、ときに自分が周囲の同僚が「面白ければいい」と言っているのに対して、なぜこうまで真剣に物事を考えさせようとするのか、場合によっては気分が暗くなっても押し通そうとするのか不可思議に思うことがあります。しかし、たとえば、身体の自由(ペリイ・メイスン物なら人身保護律と言うところです)を説明するのに、戦前の特高警察による拷問の事例を説明して明るく愉快な気分にはなりますまい。それでも避けて通りたくない。是非触れておきたい。あるいは、平等権の説明に教科書でハンセン病患者への差別が記されていれば、長島愛生園などに隔離されたいきさつや、そこで医師がなぜ既に判明していた医学的知識に基づく対応をしなかったのかという疑問や戦後になっても、共に暮らしたいという男女の患者たちを断種手術をする必要があったのか、人権侵害ではないのかという徳永進の問題提起に触れざるを得ないと考えます。「嫌あな気分にさせられる」と非難されても、そういう嫌あな事を行政がしてきたという事実を直視することを避けて学んだということにはなりますまい。
 無論、他方でバランスを回復するような笑いネタも話しますよ。授業は「おもしろく」てもいいのです。ただ、暗い側面をすべてネグレクトするのはおかしいと考えています。
 「癒し」も、自分の中の暗くて痛い部分を避けていて生じてくるわけはないように思います。わたしには全く自信があるわけでもないので断言しない方が無難だと思いますが。どんなに恵まれた環境の生徒が集まっているにせよ、周囲からチヤホヤされ褒められ続けてきた生徒たちばかりだとしても、やはり幾人かは心が傷ついており、自分の抱える問題をことばにできず戸惑っています。あるいは親の方が子どものように迷っており、その子は大人として実の親に対応しているような場合もあります。
 わたしは、そんな子らに真剣に対するしかない。恐る恐る近づくので、必ずしもケアできているとは言えないのですが、理解はしようとしているし、共感をもつ場合もあります。一日の終わりにぐったりしていることもあります。
 とかげの気持は、だから、分かるような気がするのです。そして、カウンセラーに近い仕事をしている「私」が、少し距離を患者たちとの間で保とうとしている姿勢もよく理解できます。
 この小説は、ある種の仕事をしている人たちにはとても分かりやすく、読み飛ばせないものなのではないかと思います。(2.20)

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