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| あなたのために |
木曜日の朝。
出掛けに、玄関先で英里子が私に言った。
「今日は、医院に行くの、休むわ」
「そうか」私は平然を装って答えた。
「もう、大分よくなったし…… 。今日は、祥一、塾があるし…… 」
「うん。判った」
私は英里子に素っ気なかったかもしれぬ。でも、無理をして平然を装っていたんだ。内心は英里子の顔を見るのもイヤだった。
私はもうドアの外に出ていた。私と英里子の間を、ランドセル姿の祥一が「行って来ま〜す」とすり抜けて行った。
私は祥一につられるように、すでに歩き出していた。
「あなた…… 。あなた、今晩、帰ってきたらね、ご相談したいこと、あるの」
英里子が私の背中に言った。
私は聞こえなかったように、無視して歩いていた。でも英里子の声はハッキリと聞こえていた。
内心はドキドキしていた。相談って、英里子は何を言い出す気なのだろう。言い出すとすれば…… 。
いよいよ私と英里子の生活が破局するっていうことだろうか。英里子は私に別れてくれ、って言うのだろうか。でも、祥一はどうする気だ。それに、家のローンだって残ってるし…… 。何よりも、英里子は私のどこに不満があるのか。そりゃぁ、仕事に忙しくってちっともかまってやれなかったかもしれぬ。でも、それはどこの家庭でも似たり寄ったりのはずだ。
そうではないのかもしれない。いや、きっとそうじゃぁない。英里子は過ちを正直に私に告白して、詫びを乞う気なのかもしれぬ。今日、医院を休むっていうのも過ちを反省しているからなのだろう。きっとそうだ。
でも、そうだとしたら、私はどう対応したらいいんだろう。簡単に見過ごしてやろうか。それとも横っ面を一回ひっぱたいて、『もうやるなよ! 』で済ませてしまおうか。それとも、一応…… 、『出て行け! 』って言おうか。
仕事をしながらも、でも何となく気が生々としていた。今日は英里子が医院に行っていない、ってことが私に安心感を与えた。
英里子が腰や肩の痛みを我慢しながら、洗濯をしたり、掃除したりしている姿が目に浮かんだ。英里子…… 、無理しなくっていいんだよ。ちょっとくらい散らかってたって別にかまいやしない。洗濯だって、仕事から帰ったら祥一と一緒にやってやるよ。
そうなんだ。私はやっぱり英里子のことを愛してるんだ。英里子のことを失いたくないんだ。一回くらいの過ちは目をつぶるから…… 。どうか私のそばを離れないでおくれ…… 。
今晩、英里子は私にどう告白するのだろう。私はそれにどう答えよう。それを考えると、どんどん気が重くなった。もういいから、何も言うな、判ってるから…… 。
何となく結論を出し渋って、私は仕事が終わってから同僚と盛り場を歩いていた。不思議と好きでもないカラオケを歌い続けた。あちこちと飲み歩いるうちに、最初は五人程いた同僚も、一人減り、二人減りして、いつの間にか私一人だけになっていた。皆んな所帯持ちだ。早いとこ、平和な家庭に帰って、せいぜい奥さん孝行したらいいさ。私の夫婦間に起こっている出来事なんて、誰も判りやしないさ。
タクシーで家にたどり着いた時、時計の針はすでに十二時を回っていた。いつもだったら英里子は寝ている時間だった。私はポケットから鍵を取り出すと、身体をふらつかせながらドアを開けようとした。
その時、ドアが内側から開いて「お帰りなさい」と英里子が顔を出した。
私は英里子と顔を合わせたくなかったんだ。だからわざと遅れて帰ってきたのに。というか怖かった。英里子の話しが始まるのが怖かった。
私は鞄とコートを英里子に預けると「飲み過ぎた。今日は寝る」そう怒鳴るように言って、黙って寝室に向かった。
「あなた、お食事は? 」
「いい」
「お風呂は? 」
「いい。今日は何も聞きたくない! 」
「…… …… 」
「何も聞かないぞ。いいか。判ってるか」
「聞かない、って何を? 」
「何もくそもあるか。聞かないったら聞かない」
「あゝ、朝のことね。いいわよ、急ぐ話しでもないから…… 。ちゃんと着替えてから寝てね」
急ぐ話しでもない?
英里子にとって、あのことはそんなに重大なことではないってことなのか。私は着ていたものを脱ぎ散らかして、下着のままベッドにもぐり込むと、しばらくは目を天井に向けて考えていた。
聞かない、と言いきってしまった手前、もう私から聞くことは出来ない。
しばらく、英里子が上がってくるのを待っていた。私のために用意した食事を片づけているからなのだろうか、それはずいぶん長い時間のように思われた。そのうち、一日いろいろと考えて精神的に疲れていたからだろうか、そのまま眠ってしまったようだ。
翌朝。
すでに英里子のベッドは空になっている。枕元の時計を見ると、いつも私が目を覚ます時間より三十分は早い。
私は一応ガウンを羽織ってリビングルームに起きていくと、英里子がぼんやりとテーブルに座って新聞を読んでいた。
「あら、あなた。早いのね」
「うん」
英里子は私の側に来ると、鼻をクンクンさせて「まだ、お酒臭〜い」と言って笑った。
「それに、ちゃんと下着も取り替えてよ」
私は英里子と差し向かいに腰掛けると、英里子が差し出した新聞を受け取って、紙面に目を向けていた。
「コーヒーでいい? 」
「ああ…… 」私は紙面から目を逸らさずに答えた。そして、言った。
「何だったんだ、昨日のこと」
「え? 」
「まだ、祥一も起きて来ないし…… 。今だったらいいぞ」
「大したことじゃぁないのよ」
「今だったらちゃんと聞く準備が出来ている。何を話されても驚かないから、正直に言って欲しい…… 」
私はまだ紙面から目を逸らさずに言った。いや、やっと言ったんだ。
「あのね…… 」
英里子は私にコーヒーカップを差し出すと、それから私の向かいにゆっくりと座った。
私はゴクッとつばを飲み込んだ。
「あのね。ほら、お義祖母ちゃん、今、車椅子を使ってらっしゃるでしょう」
英里子は何を言い出すつもりなのだろうか。予期していない話しに私は驚いていた。そう、確かに私の祖母は、交通事故で車椅子の生活を余儀なくされている。郷里で、私の父と母が介護をしているが、時々、大変だ、とグチをこぼされることもあった。
「それで、ね。おとといかな?相沢さんの医院で今度介護用のお風呂を入れることになったんですって。その介護用品の会社のセールスの人が来てたの。わたし、話しを聞いていて、お義祖母ちゃんにプレゼントしたら喜ばれるんじゃないかって思って」
「…… …… 」
「聞いてみたら、そんなに高いもんじゃないみたいだし、何とかやりくりつきそうだし、どうかなぁ、って思って」
英里子はそう言って、カタログを私に見せた。
「へぇー、こんなのあるんだ」
私は予期していた話しと大分違うので、拍子抜けしていた。
少しは罪滅ぼしの気持ちがあるのだろうか、私の祖母のことを心配してくれたのが正直嬉しかった。そして、もうこれでいいと思った。今さら不愉快な話しは聞きたくない。私も忘れるから、英里子もまた元の鞘に収まって欲しい。それが何よりなんだ。
「相沢さんのとこでも、今度これを二機、入れたんだって」
「でも、こんなのでちゃんと入れるのかなぁ」
「大丈夫みたいよ。付き添う人が二人いれば大丈夫なんですって」
「そうかなぁ」
「それでね、今日、相沢さんのところに納品になるらしいの。だから、わたししっかり見てこようと思って。よかったら、頼んでいい? 」
「お前に任せるよ。ありがとう英里子」
私は本心から英里子にお礼を言った。
「わたしも嬉しくって…… 」
「ん?何で? 」
「だって、わたしずっとお風呂に入ってないでしょう。無理すれば入れないこともないんだけど、ちょっと怖かったし…… 」
「ん…… ?それとどういう関係が…… 」
「その第一号にわたしに入って欲しいって言うのよ。実験台になってくれって…… 。セールスの人も言うのよ、使い方を説明するのに、ちゃんと実験台になってくれる人がいた方がいいって」
「…… …… 」
「そうしたら相沢さんが、英里子さんはずっとお風呂に入ってないみたいだからちょうどいいでしょうって。まったく赤の他人ってわけでもないから、気軽に頼めるって」
私は、突然、無性に腹が立って来た。祖母にプレゼントするっていうのは、ただの口実に過ぎなかったんだ。相沢の奴とイチャイチャするために、こんな口実を考えやがって…… 。
相沢とのことだって、英里子が正直に詫びるんだったら、何とか許してやろうって決心してたんじゃないか。
「お前、何言ってるんだ!自分が何を言ってるのか判ってるのか? 」
「え?何、怒ってるの? 」
「当たり前じゃないか。そんな見も知らないセールスの男たちの前で…… 」
「違うのよ。診察着で入るの。やり方だけ教えてもらって、身体を洗ってもらう時は出ていってもらうわ。そんなの当たり前でしょ」
私は耳を疑っていた。こんなに公然と相沢との関係を口にされるとは想像もしていなかった。診察着を着て風呂に入って、相沢に身体を洗ってもらう時は他の人には出ていってもらう?そして診察着を脱がせてもらって、英里子の身体の隅から隅まで洗ってもらうのか?
私は打ちのめされたもののように何もしゃべることが出来ないでいた。
その時、私は英里子に何か言わなければならなかったのだろう。もっと問い質さなければいけなかったのかもしれない。
「祥一も連れて行くのか? 」
「わたし、一人でも大丈夫なんだけど…… 。どうします? 」
「出来たら連れていって欲しい」
「あなたがそう言うんだったら、そのようにするわ。あの子、遊びに行きたいみたいなんだけど…… 」
「…… 、頼むよ」
私はやっとの事でそう言うと、着替えるために寝室に向かった。
コーヒーが手つかずのまま、テーブルの上に放置されていた。
英里子はすでにもう決心している。もし、あの時、私が烈火のごとく怒ったら、『じゃぁ、別れましょう』そう言う気だったんだ。
私に詫びる気なんて、最初からなかったんだ。私は、英里子が詫びた時のことを想像して、あれこれと対応を考えて…… 、まるでピエロじゃぁないか。
無性に腹が立った。冗談じゃない。こんなにも英里子を愛している私をここまで愚弄するっていうのはあんまりじゃないか。相沢のことも許せなかった。だが何よりも英里子のことが許せなかった。よくも平然と口に出来るもんだ。裏切りじゃないか。
その夜、英里子には、ただ「風呂には入ったのか」とだけ聞いた。
「もちろん入ったわよ。さっぱりしたわ」と英里子は答えた。
私は英里子との別離を予感していた。もうこんな女とは二度と一緒にいたくない。祥一は私が引き取ろう。
ただ、争いの修羅場だけは避けたかった。今騒げば、祥一が目を覚ますに違いない。祥一は今日起こった出来事を余さず口にすることだろう。今さら騒いでどうなるんだ。もう結論は出てしまったことなんだ。
口争いする気力もないほど、すっかり、英里子に対して熱が冷めている自分を感じた。私は、英里子が嫌いになったんだ。世界中に何十億といるどんな女よりも、英里子のことが嫌いだった。
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