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お試し読みになります
第1話
「大丈夫よ、そんなに心配しなくても」
駆けつけた私を、頭に包帯を巻いた姿の、それでも気丈な妻の笑顔が待っていました。
言葉とは裏腹に、ベッドの上で吊られている右脚は痛々しく包帯に包まれています。
複雑骨折した脚は包帯の上からギプスに包まれ、おまけに、踵に仰々しく取り付けられた金属の枷からはワイヤーが足下に伸びていました。
ワイヤーの先は、滑車で方向を変えてベッドの下側にある重りを吊しています。
折れた骨を筋肉が引っ張らないようにするためだそうですが、まるで、拷問道具のようにおどろおどろしいものに見えました。
ケットの下に覗く妻の脚はドキッとするほど白く、妙になまめかしく感じます。
まだ、病衣と言えども、着るために身体を動かすのを避けるとかで、薄いケット一枚下は、何も身につけていないようです。
私が駆けつけるまで、いくら個室とはいえ、こんな無防備な姿でいたのかと思うと、なぜか、腹の下側がキューッと締め付けられるような思いがこみ上げます。
何も出来ないとはいえ、もっと早く来るべきでした
「ほら、そんなに心配しないで。手術もうまくいったって先生もおっしゃってたのよ」
わずかに、右手を動かそうとして、痛みに思わず顔をしかめながら、それを必死で隠そうとするのも妻の健気さでした。
だから、よけいに、右手のギプスが痛々しく感じられました。
結婚から二年。
こうして会うのは、実に3ヶ月ぶりになってしまう、哀しい単身赴任が始まったのは今年の春から。
久しぶりに会うのが、こんな痛々しい姿になってしまったなんて、なんてことなのでしょうか。
本社に「戻った」のは、私にとっての幸せなのかと考えてしまいます。
そもそも、入社早々「都落ち」の支社配属。しかも、こんな田舎です。
落ち込んだ時もありました。
しかし、ごく平凡な私が、なぜか、地元の短大を出て事務職として入社した妻の心を射止めたのです。
入社するやいなや、支社のアイドル的存在になった妻ですから、独身連中からの反響は凄いものでした。
お前は後で悔やむぞとやっかみ半分に、忠告? する人間もいました。
なぜか、地元出身の上司たちは、微妙な顔をしたのも、それもこれも、きっと妻の父がこの地方の名士であったからでしょう。
案の定、最初は大反対をされました。
美穂の強硬な説得の甲斐あって、義父も最後には折れ、一緒に住むことを条件に、結婚を許してくれたのです。
思えば、妻との結婚が、私の運命を変えたのかも知れません。
結婚以来、私の営業成績はぐんぐん伸びたのです。
地方の名士である義父の存在は、陰に日向に大きな影響があったのは確かでした。
しかし、公私ともに順調で、ここに骨を埋める覚悟ができた頃、あっけないほど簡単に本社への栄転が決まったのです。
普通ならば、夫婦二人で東京へと移り住めば、それでお終いのはず。
ところが旧来の習慣がいろいろと残されている地方です。
そもそも「同居」を条件に結婚を認めてやったんだと義父は譲りません。
こうなってくると、地方の名士を父に持ちながら早くに母親を亡くした妻は、親孝行な面と、夫婦で一緒に、の板挟みになって苦しむことになってしまいます。
最後に、私が単身赴任をすると言うことで決まったのですが、ここで、困ったことが起きたのです。
東京に全く人脈のない私です。しかも、新人の頃に、田舎の支社で営業を覚えたため、東京と全く慣習も、営業のやり方も違っていて、思った以上に仕事が滞ってしまったのです。
支社の営業実績を買われたはずの私は、今では本社の「お荷物社員」と化してしまって、肩身の狭さたるやすさまじいものでした。
今回も「妻が交通事故に遭った」と聞いて、手に取るものも取らず駆けつけようとしましたが、成績が伸び悩んで悪戦苦闘している営業マンが、とっさの休暇を取ることなど不可能だったのです。
あらゆる所に頭を下げて、やっとの思いで到着したのは、ついさっきのこと。
事故から二日たった午後でした。
遅くなったことを詫びる私に、妻は一言も責めません。それどころか「忙しい時に、こんなコトになっちゃってゴメンナサイ」と謝りさえしてくれたのです。
久々の二人きりでの話題が、事故のことだというのでは、全く情けない話でした。
「父がもう話し合ってくれていて」
「うん、電話で聞いてる。僕としても、直接話すより、お義父さんにやって貰った方が都合が良いから、すっかりお任せになっちゃって」
「でも、こうなってくると皮肉よね」
妻が、ちょっと肩をすくめて微笑んで見せます。
「加害者の父と被害者の父が親友だったなんて」
「おまけに、そこは僕のかつての得意先で、この町の唯一の総合病院と来てるんだからなあ」
そう「加害者」は、東京から高速を飛ばして3時間もかかる、この町で一番の病院で院長をやっている人間の一人息子でした。
もちろん息子も医学部に通っています。つかの間の里帰りでこの街に入った途端に妻を撥ねてしまったのです。
国試に備えての連日の勉強疲れと、故郷に着いた安心感で、思わず居眠り運転をしてしまったようでした。
ついさっきの病院長とのやりとりは、被害者の夫としてよりも、どうしたって「かつてのお得意様」に会う営業マンとしての感覚を消せませんでした。
「相川さん、申し訳ありませんでした。息子が警察から戻ったら、必ず、付きっきりで世話をさせますので、どうぞ、お許し下さい」
「え、でも、先生の息子さん、今度、国試だったのでは?」
「人様を怪我させて、何の、医者でしょう。とにかく、奥様が無事完治されるまで、息子がすべきことは一つしかありません」
「しかし。国試の年に、いつまでもこちらに帰っているわけには、あの、そんな大げさなことなどなさらずとも、あの、先生、頭をお上げください、お願いしますから」
院長室で、このまま土下座しかねないほど深々と頭を下げ続ける深谷氏。
MRとして営業に来て世話になった時は肩で風切る勢いに見えましたが、一人の父親として肩を小さくしている姿に驚きます。
それにしても、さんざんに私をひいきしてくれた私に対して、このように真摯なお詫びをされると、かえって恐縮するしかありません。
「いいえ、医師として一番大切なことを守れなかった。人様の身体を傷つけてしまったのですから、試験どころの話ではありません」
大きくため息を一つつきます。
「息子には、なすべきことをなすべき時がきた、ということです。どうぞ、お任せください」
豪華すぎる応接テーブルに、再びすりつけんばかりに頭を下げます。
普通なら、妻の痛々しい姿を見れば、怒りを加害者にぶつけたくなるものですが、栄転の元はと言えば、この病院の院長に私が気に入られて実績を伸ばしたのです。
いわば「恩人」の息子が加害者なわけで、恩人にこのように頭を下げられては、文句も言いづらいというのも仕方のないことだと思うのです。
まあ、命に別状がない以上、加害者の誠意あふれる対応が不幸中の幸いとあきらめるしかないという結論が、いともあっさりと出たのも無理からぬことでした。
個室に特別待遇の妻には、付きっきりで世話をする看護師が三交代の専属で置かれているそうです。私が付き添ってやれない以上、お任せするしかないので、至れり尽くせりの待遇には、正直、助かりました。
しかし、事故の結果とはいえ、久々に会えた今日くらいは一緒にいようと、私はその日、泊まり込みました。
この病室は、なんといっても特別な部屋ですから、小さいながらも付き添いが寝る別室もありますが、もちろん、今日はずっと妻の横にいます。
裸同然の妻を前にして、単身赴任中禁欲生活をした私ですが、いくら夫婦でも、妻がこんな状態では、何もできません。
あ、いえ、一度だけ、深いキスをしたのです。
妻の身体に気を遣いながら、そっとです。
それでも、しばらく、女性に触れていなかった私のものが巨大化するのはあっという間でした。
しかし、長いキスの果てに、私の手が妻の胸に伸びそうになったとき、折悪しく、看護師の見回りが入ってしまったのです。
しかも、私がMRで出入りしていた時からいる古手のオバサン看護師、いえ、泣く子も黙るMRの天敵ともいうべきベテラン看護師の、山村さんです。
「相川さん、奥さんと会うの、しばらくぶりだそうですけど、くれぐれも、ここは病院ですからね」
とっさに、妻から離れたので見られていないはずでしたが、厳粛な顔で釘を刺されると、なんだか、エッチ心を見抜かれてしまったような気まずさがありました。
「いえ、滅相もない、神聖なる病院でけっして、そのような」
病院相手の営業ですから、私にとって山村看護師の一言は、神の一声と同じです。
一気に萎えてしまいました。
どうやら、ふんどしのような下着を着けているだけで、ケット一枚下は丸裸の妻の横で、指をくわえて寝るしかありませんでした。
それでも、安心したように寝ている妻の寝顔を見つめた後で、窓から月を見上げると、ほのぼのとした感情がこみ上げてきたのです。
それは、都会で神経をすり減らしている私が忘れていた温かさでした。
「なんだか、妙な感じね」
痛みが残っているのか、時折顔をしかめつつも、素直に嬉しそうな表情を見せてくれる妻です。
付きっきりで世話をする看護師も、今朝は、私が世話をするからと断りました。場所が病室とはいえ、久々の二人だけの時間が静かに進みました。
電動で背もたれが持ち上がるので、食事の世話も素人で十分できます。
ただし、まだ、病衣を着せてもらえぬ妻は、身体を起こして胸が出てしまうのをひどく恥ずかしがります。
「こんなんで恥ずかしがってどうするんだよ。夫婦なんだから大丈夫だろ」
「だって、久しぶりだと、なんだか恥ずかしいもの」
「オレが来るまで、看護師さんにさんざん見られたんだろ」
「あら、だって、みんな女性同士ですもの。あなたのようにエッチな目で見たりしないしぃ」
ちょっと、挑発的な目をします。
元気が出てきた証拠でした。
やっぱり、私がいなくて心細かったと告白されたようでなんだか嬉しくなります。
「へ〜ん、そりゃ、こんだけご無沙汰なら、見慣れたオッパイでも、エッチになっちゃうのは仕方ないだろ」
「あら、東京では、いろいろ楽しいことがあるんじゃなかったの。イロイロとね」
「そんなヒマなんてあるもんか。都会の営業を舐めるなよ。舐めるならこっちを、ね」
朝だということもありますが、久々に妻の匂いをそばで嗅いでいた私は、目の前のケット一枚下は、つかの間見た妻の胸に、激しく勃起していたのです。
私は、巨大化したモノを妻に見せつけるように立ち上がります。
「まあ、不謹慎。こんな怪我人に、何を見せてるのよ」
バージンで結婚した妻は、新婚初夜には、巨大化したモノを、怖いと言って触れもしなかったものですが、さすがに、今では、私のモノのあしらいも知っています。
「さ、その前に、食事、食事っと。ほら、あ〜んだよ。大丈夫、食事が終わるまでは、僕のを舐めろなんていわないから」
「もう。朝っぱらから、エッチなんだからぁ」
それでも、慣れぬ手つきでスプーンを運ぶと、ほのぼのとした幸せそうな顔をします。
スプーンを慎重に妻の口にあてがいながら、やや小振りな部類ですが、形のよい妻の胸が、ドキンとするほどの白さを見せて目の中に飛び込むと、ドキドキしてしまいます。
とうとう、我慢が出来なくなった私が、まだ、ピンクと言っていい乳首をツンとつつくと、あん、という短い声を上げます。
「あん、あなたったら、エッチなんだから、あう、もう、ね、お願い、まだ、ちょっと」
しっとりとした表情の何割かに、痛みをこらえる表情が見えます。そうなると、それ以上イタズラをするわけにもいきませんでした。
「ごめん、ごめん」
「ううん。ごめんさい、あなた」
「いやいや、こっちこそ、ごめん。つい」
「本当は、私も一緒に行けば良かったのよね、そうすればこんなことにも」
「いや、そんなこと、それにそれじゃ、お義父さんが」
娘を連れて私が東京に出ることを真っ向から反対したのが、結婚以来あれほど私に好意的だった義父でした。
私が初めて挨拶に行った日にも負けず、いえ、それ以上の勢いで怒りを見せたのです。
やはり、年を取って娘が東京に行くのは寂しいのだろうと、単身赴任が決まったのでした。
昔ながらの躾を受けてきた妻にとって、妻として夫に尽くさなければという気持ちと、娘としてたった一人の親を大切にしたい気持ちが、最後まで揺れていたのです。
とりあえず、東京で実績を上げてから、妻を何とかして呼び寄せようと懸命に頑張ってきました。
しかし、東京では鳴かず飛ばずのまま、気ばかり焦っているさなかに事故の連絡を受けたのです。
毎日電話とメールをあふれるほど交換しても、伝えられないものがあることに気がつきました。
なにをするでもなく、しっとりとした愛情をこうやって確認する時間は、ささくれができかけていた私の心に、温もりをもたらしてくれたのです。
病衣を着られぬ妻のためにやや高めに温度調整された病室で、私もシャツ一枚のまま、妻と見つめ合うこの時間が何よりも幸せに感じていたのです。
食後のリンゴでも、と定番の皮むきに挑戦しようとした時でした。
「ね、あなた、あの、ちょっと、家から取ってきて欲しいものがあるんだけど」
妻が、微妙な表情のまま、言い出したのです。
「良いとも。何? でも、どうせ、後で、一度家に帰るから、その時じゃダメ?」
取りに行くこと自体は、何でもないことでしたが、そうなると一時間はかかります。
せっかく休暇をとって、妻のそばにいられるのもわずかな間でしたから、なるべく長く一緒にいてあげると昨夜約束したのです。
「えっと、あの、そうね、あの、なるべくなら、急いで欲しいのだけど」
「急ぐなら、もちろん、かまわないよ、何?」
「あの、そうね、あの〜、そうね、えっと……」
妻が目線を右下に、せかせかと送ります。妻がウソをつく時のクセです。
「言いにくいもの? 何なら、こっちの看護師さんに頼む?」
「ううん、あの、ね、お願い、あなたちょっと外に」
「え? 何か取って来るっていうのは良いの? 何で外に?」
急に外へ出ろと言われても、わけがわかりません。ケンカをしたわけでもないのです。
「もう! 聞かないで。いじわる」
妻が、顔を赤らめて、ちょっと怒った顔になったので、ようやく思い至りました。
そう言えば、妻は、昨夜からトイレに行っていないのです。
いえ、足を吊られている妻がトイレに行くことなどできるはずもなく「尿瓶」という、屈辱的な方法に頼るしかないはずでした。
恥ずかしがり屋の妻にとって、私の目の前で尿瓶を使うことなどできるはずもないことでしょう。そう言えば、昨夜からずっと一緒です。
自分のうかつさに、穴があったら入りたいくらいです。
いえ、妻の「アナ」に一番入りたいのですけれど。
心の中で、そうつぶやきながら、ごめんごめんと声にします。
いくら夫婦でも、古い躾を受けた妻は、まさか夫に、尿瓶を取ってくれなんて言えなかったのでしょう。
いえ、待てよ、尿瓶を取るだけではダメです。左手は、点滴の管が入っているため、上手く動かず、食事だって私が食べさせたのです。
「わかった、わかった、そうならそうと言ってくれればいいのに」
私は、結婚してずいぶん経ったのに、まだ、そう言う部分が硬い妻の対応が可愛くて、つい、ニタニタとしてしまいます。
「なんなら、僕が世話を……」
「エッチ! もう。何にも言ってないでしょ」
「あれ、そうなんだあ。じゃあ、夫として、愛する妻にずっと付きっきりでいようかなあ」
妻のそばに寄り添うようにすると、いつもの妻らしくなく、いたって弱気な顔をするのです。
「あなたったら。お願い、ね、あなたぁ」
妻の顔に苦しそうにものがまざってくると、いつまでもいじめては可哀想です。
「じゃ、ちょっと、屋上でも見てくるよ」
「ダメぇ、あなた、お願いよぉ。しばらく帰ってこないで」
「え? そんなのすぐすむだろう」
考えてみれば、間抜けなことですが、その時は本当に分からなかったのです。つい、真顔で聞き返していました。
今度は、やや本気で怒った顔になってしまいます。
「もう、デリカシーがないんだから! 早く出て! 一時間は戻ってこないで、お願い」
ああ、大の方なのかとようやく思いが至ったのは、強引に病室を追い出された直後のことでした。
そう言えば、妻のベッドの下には、ステンレスの見慣れぬカタチのものが置いてあり、昨夜しげしげと見ていると妻に叱られたものです。
いえ、もちろん、仕事上は何度も見かけていますが、こうやって、妻という、最も身近な人間のそばに置いてあると、妙な生々しさがあります。
それは、差し込み便器と言われる、ステンレス製のフタのできるトレイのようなものでした。
それをしげしげと見ていると、そんなの、まだ使ったことないんだから、となぜだか怒ったように言ったものです。
ベッドの上ですませるしかない妻にとって、誰でもすることとはいえ、あれに排泄した直後の場所に私が戻ってくるのは耐え難かったのでしょう。
おそらく「その」後の匂いが消えるまで、私に戻って欲しくなかったのに違いありませんでした。
まあ、一時間といわなくとも、ほとぼりを冷ますのに、どうやって時間をつぶそうかとブラブラと病室の廊下を曲がろうとした時でした。
『あれ? 確か、あれは』
そう、白衣を着たドクターが、妻の病室に入って行くのが見えました。
どこか見覚えがある気がして、しばし私は立ち止まってしまったのです。
『誰だ?』
妻の病室を訪れた一人の若いドクター。
よりにもよって、なぜこのタイミングでと思いましたが、ようやくその顔を思い出しました。
『ああ、誠君じゃないか』
加害者に「くん」をつけるのもヘンな話ではありますが、その時の私にとってはそれが自然だったのです。
なんといっても、特に地方都市で、MRとしてやっていくためには出入りする病院の関係者を家族ぐるみで知らなければ話になりません。
まして、この病院は父が紹介してくれた私の得意先だけに、院長の息子ともなれば顔見知り以上の顔見知りと言っていいと思います。
おそらく、警察から解放されて、朝一番に謝りに来たに違いありません。しかも、夫である私も泊まっていることを既に聞いているはずでした。
きっと、取るものも取りあえず、駆けつけてきたに違いありません。
私の四つ下になりますが、いかにも真摯で、そのくせ人付き合いの良さそうな好青年の笑顔が頭に浮かびます。
まさか、今回はあの笑顔はみられないと思いますが、被害者が私の妻と知って、がっちりした体格の誠君が肩を落としている姿を想像すると、いささか気の毒になります。
しかし、まさにバッドタイミングというヤツでしょう。
妻がさっき、ちらりともらした「使っていない」という言葉通りなら、ひょっとして二日ぶりに、ようやく「出したくなった」のです。
しかも、私とのやりとりの間に確実に、限界が近づいているはずでした。
ちょうど折悪しく、その時に、現れるのですから、これ以上ないほど間が悪いとしか言えませんでした。
きっと、すぐに追い出されてくるでしょう。
そうしたら、その間、直接話をしてみるのも良いだろうと思いました。そして「追い出された者」同士、気まずく笑ってみるのもいいかもなどとも。
『あれ? 出てこないな?』
妻の病室前まで、フラフラと戻りながら、いつ、誠君が追い出されてくるのかと思っても、なかなか出てこないのです。
妻のあの表情からすれば、相当に迫っているはずです。もし、あのまま我慢していれば、かなり苦しいのではないでしょうか。
それとも、加害者の青年に会ったことで、そんな意識は吹っ飛んでしまったのでしょうか?
そういえば、確か、中学から東京の私立にわざわざ通っていた誠君ですが、年齢はちょうど妻と同じはずでした。
同い年のドクターで、加害者の青年。
そして迫りつつある、生理的欲求。
果たして、妻がどうしているのか、二人はどのような会話をしているのか。
猛烈に中を覗きたいとは思いました。しかし、病室の入り口は、ストレッチャーがそのまま通るほど広い自動ドアです。
いくら夫だとはいえ、ついさっき追い出された身の上としては、堂々と入るのはためらわれました。
『あ、待てよ。隣から見られるんじゃね?』
かつての担当MRとしましては、病院ご自慢の特別個室の構造くらい、わかりきったこと。
『続きになっている付き添い用の部屋にも、入り口があるよな?』
病室に入るのとは別に、専用のドアがあるのです。
付き添いの部屋からなら、中の様子が分かるに違いありません。
『このドアを開けてっと』
いかにも重厚な木製のドアですが、軽い取っ手をそっと押すだけで開きます。
するりと身を滑り込ませると、心臓の音すらも大きく響いているような静かな部屋では隣の会話が鮮明に聞こえてきます。
「だって、恥ずかし過ぎるよ、こんなのぉ」
「何にも、恥ずかしいことなんてないよ。当たり前のことだもの。なんと言っても僕は医者の卵だからね」
「あぁ、いやあ。ダメ、見ないで。お願い、マコちゃん」
妻の声が、妙になまめかしく聞こえます。
『まこ…… ちゃん?』
まるで、不倫現場でベッドインしているシーンを覗き見てしまったような、そんな不安が私の心臓を締め付けていました。
そんな私の気持ちとは関係なく、会話が聞こえてきます。
「だめだめ、きちんとできるか医者として見ている義務があるんだ。もし、何か不自由があるなら、薬で便を軟らかくしたり、食事を変えたりしなくちゃだからね」
「あぁ、でも、まこちゃんに見られるなんて、あぁ、お願い、他の看護師さんを」
「だから、何度も言うように、最初の排便は医師が立ち会わないとダメなんだって。そして、今は、急患のおかげで自由になるのは僕だけなんだ」
「だって、ね、お願いよ、ねぇ」
「ヘンだよ。美穂ちゃん。医療に恥ずかしいなんて言葉を入れてはいけないんだ。ちゃんと大人しく力を抜いて」
「ああ、だめえ、見ないでぇ、ね、看護師さんでもいいからぁ」
「何度も言ったはずだよ? ここに立ち会えるのは医師だけ。そして他のドクターは、今、みんな出払っているんだ、さっき、急患が入ったからね」
「そんな、だけどぉ」
「それにさ、ちょうど僕がこれから付きっきりになるんだから、ちょうど良かったんだよ。さ、大丈夫だから。ほら、力を抜いてごらん?」
「あぁ、いやあ、ダメ、見ないでぇ、マコちゃんになんて、恥ずかし過ぎるからぁ」
せっぱ詰まったような妻の声がドア越しに聞こえます。
『また…… まこちゃん? いったい何なんだ』
二人は知り合いだったとしか思えません。
だとすると、妻は、同い年の知り合いの男に、私にも見せられない姿を見せることになるのです。
いくら、相手が医師の卵とはいえ、その羞恥はこれ以上ないものであるのに違いありません。
ふと、ケット一枚下は全裸同然だった妻が、今、どのような格好をしているのか想像してしまいます。
片手、片足を動かせないままに、全裸でベッドに横たわる姿を、同い年の男に見下ろされる妻。
そして、私を追い出したことで、きっと安心して緩めたのであろう妻の自然の欲求は、とっくに限界だったのでした。
そこから、空しいやりとりをいくらも交わす間もなく、妻の羞恥の砦はあっけなく砕け散ってしまうことになります。
「ああ、いやあ、お願い、出て! 表に出てってばぁ、お願い! あぁ、だめぇえ!」
最後は、懇願と言うより悲鳴にも近い気がした妻の声に、破滅の音が被さります。
こちらの部屋にまで響き渡るほど鮮やかな破裂音でした。
「いやぁあ〜」
ぶっ、ぶっ、という破裂音が響く中、よくは聞き取れない言葉を呟くように、しきりにか細い声を上げ続けていました。
あるいは、それは、わが身の不幸を呪う言葉だったのかもしれません。
妻は、人前で排泄してしまったのです。
いくら不自由な身の上であっても、誰にも見せてはならないはずの姿をさらさなければならない妻が哀れでした。
しかし、妻が可哀想だと思えたのと同時に、いくら相手が医者の卵だとはいえ、私にも見せない姿を見せてしまった妻に、いくぶん腹立たしい思いもありました。
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