日蓮逮捕
文永八年(一二七一)九月十日。
日蓮は鎌倉の問注所(奉行所)へ呼び出され、取り調べを受けた。取調官は侍所
所司(次官)の平左衛門尉頼綱である。
侍所というのは、幕府の重要な役目を担った政治機関だ。おもな職権としては、
警察権、裁判権、軍事および戦時における御家人の統制などで、いわば幕府を支える
御家人の総元締めの役割を担っている。したがって侍所の役人にたてつけるような人
間は、まずいない。いるとすれば、幕府の重要職にいる者だけだ。
平左衛門尉は侍所の次官であり、実質的な司令官だった。その職権で、警察、裁判、
軍事の三権を握っている。ということは、あらゆる人民の統制権を掌握しているとい
うことに等しい。
そうした陰の権力者、平左衛門尉がなぜ日蓮を直接取り調べることになったのか。
ここに至るまでには、さまざまな経緯があった。
文応元年(一二六〇)七月、日蓮は当時の最高実権者であった北条時頼に宛てて
「立正安国論」を提出した。
その中で日蓮は、このような悲惨な世相になった原因を、誤った宗教にあるとし、
そうした宗教を権力者が庇護していることにあると説いた。特に、念仏を唱えるだけ
で極楽浄土にいけると説く専修念仏思想を厳しく批判し、念仏宗を「この一凶」と
まで断罪したのだ。
さらに、いまのまま為政者が誤った宗教を信じ続けてゆくならば、いまだに起こっ
ていない二つの大きな難、すなわち「他国侵逼難」(他国から侵略されること)と「自界
叛逆難」(叛乱が起こること)が起こるであろうと予言した。
しかし幕府は、これを無視した。──というこの表現は、じつは正確ではない。
日蓮の立正安国論に対し、極楽寺良観をはじめとする念仏宗の僧たちは激怒した。
だが彼らはけっして公場対決、つまり公の場で討論をして是非を決定するという、
正当な方法を採らなかった。
彼らが採用した方法はといえば、権力を利用して陰謀をめぐらし、ひそかに日蓮を
亡き者にして、その口を封じようという手段だった。陳腐なストーリーを好む娯楽ド
ラマの脚本家がよく使う、悪徳の権力者らが常套手段として用いる手法だ。
翌八月、彼らはさっそく暗殺計画を実行した。
多数の暴徒が、鎌倉にある日蓮の松葉ヶ谷の草庵を襲った。彼らは、良観らの策謀
によってそそのかされ、暴徒化した念仏宗の一団だった。
いち早くその情報を知らせてくれた者がいたおかげで、日蓮はかろうじて難を逃れ、
一時、下総(千葉県北部のあたり)に移った。
翌年の弘長元年(一二六一)五月、暗殺に失敗した良観らは、まったくでたらめ
な訴状を作り、日蓮を訴えた。幕府はこの訴状を取り上げ、伊豆の伊東に流罪すると
いう判決を下した。
誰が見ても明らかなえん罪だった。罪状は「治安の攪乱」とでもしたのだろう。そ
れ以外には、日蓮が犯した罪として訴状に挙げることはできない。
日蓮は「辻説法」をして法を弘めた、という言い伝えがある。だがこれは後世にお
いて創作されたニセの伝説だ。
この当時、まだ平安時代の律令制が法制度として残っていて、仏教は為政者の許
可なく勝手に弘めることはできないとされていた。しかし個人対個人で法論すること
は黙認されている。つまり公の場での弘教活動は制限されていたが、個人対個人の
法論や弘教は認められていたのだ。
世法をなにより重んじる日蓮が、辻説法というような違法行為をするわけがない。
弘教は、あくまでも個人と個人の対話のなかで押し進められたのだ。
こうして日蓮は伊豆に流罪となったが、二年後の弘長三年(一二六三)五月には、
無実が認められ、伊豆流罪が赦された。じつはこの赦免には、わけがある。
伊豆流罪を決定したのは、ときの執権・北条長時だった。長時は極楽寺入道重時の
子で、重時は良観の熱心な信者だった。そのため長時は父の心を知って、日蓮を伊豆
流罪に処したのだった。
この判決が下ったとき日蓮は、
「執権・長時殿は極楽寺入道重時殿の子である。それ故に、親の心を知って、理不尽
にも日蓮に伊豆流罪の裁決を下された。さて各々方、極楽寺入道殿と長時殿の御一門
が滅びゆくさまを、とくとごらんになられるがよい」
と、公然といってのけたのだ。
──ええー、ウソぉー!
と、ぼくは思わず叫んでいた。
執権といえば、当時の日本の最高権力者だ。このときから数十年前には、後鳥羽上
皇が幕府に対し反乱を起こし、その結果、隠岐島に島流しになっている。また、その
ときの天皇だった順徳天皇は、佐渡に流罪になった。
天皇や上皇をも流罪にするような権力者である幕府の執権に面と向かって、滅亡す
るだろうというなど、とうてい正常な神経の持ち主だとは思えない。
ぼくは信じられない思いで、小さく首を振り、興味深くなりゆきをながめた。
日蓮の言動は、まさにお上を恐れぬ所行といってよかった。権力者たちの怒りが
心頭に達したのも、無理からぬことといえる。
こんな悪辣な僧を、野放しにしておくわけにはいかない──彼らは、怒りをあらわ
にして、そう思った。
だが予言どおり、日蓮を伊豆に流したその年の暮れ、陰謀の張本人、極楽寺入道重
時が狂死したのだ。そしてそのときの葬儀の導師は良観だった。
これ以後、良観はさらに日蓮への怨みをかきたててゆくのだが、これこそ典型的な
逆恨みというものであろう。
三文小説の作者がこよなく愛する典型的な悪役だ。こういう人間が存在しなければ、
大衆小説や昼ドラは成り立たなくなる。
それはともかく、「立正安国論」を送られた当事者であり、幕府の最高実権者だっ
た北条時頼は、日蓮に対し、なにかを感じたらしい。伊豆流罪を赦すよう指示した。
こうして日蓮は伊豆から戻り、再び鎌倉で活動をはじめることになった。
だが日蓮を赦免した時宗は、その年の十一月に死亡し、その翌年には、伊豆流罪の
判決を下した張本人である執権・北条長時も急死してしまった。
事実とは、つくづく不思議なものだ。もし売れない小説家がこんなストーリーを書
いたなら、「クサイ」といって原稿を放り投げられるに違いない。
だが真実というものは、人間の頭で考えられるような単純なものではない。しかし
そうかといって、あまりに複雑なものでもない。真実を見極めるために重要なことは、
事実を事実として受け容れる頭脳の柔軟性があるかどうかだ。
文永五年(一二六八)一月、蒙古からの書状が幕府に届けられた。内容は、日本と
の通交を開きたいというものだったが、実質的には蒙古への従属を迫るものだった。
この書状に対して幕府がとった対応策は、西海の警備体制を固め、諸寺に敵国調伏
の祈祷を行なわせるというものだった。
日蓮は、幕府と仏教界の代表者十一カ所に対し書状を送り、効力のない祈祷などを
やめ、公の場での法論をせよと、諸宗の僧との公場対決を迫った。
しかしこの提案も、これまでどおり無視されてしまった。
文永八年、こうした時代の流れの中で、良観と日蓮の祈雨の対決がはじまり、勝負
は良観の惨敗に終わった。
ところが良観という男は、敗けを敗けと素直に認めるような人間ではない。日蓮に
大恥をかかされたと、逆恨みに怒り狂う始末だ。
良観は平左衛門尉と裏で手を組み、まったく架空の罪状を作り上げた。こうしてで
っち上げた訴状を幕府に提出し、日蓮を訴えたのだ。
ぼくは思わずうなってしまった。
これまでの行状を見てみると、良観という男は、まさに悪役の悪役たるゆえんを地
でいくような、希にみる逸材としかいいようがない。これほど典型的な悪人は、そう
そういるものではない。
ぼくはむしろ感心してしまい、小さく感嘆の声をあげ、ストーリーの続きを追った。
こうして良観の訴状によって日蓮は起訴され、問注所(取り調べを行なうところ)
で取り調べを受けることになった。
平左衛門尉は、みずから日蓮を裁くことにした。もしほかの者に取り調べを任せた
場合、無罪にしてしまう公算が大きい。なんといっても、すべてがでっち上げられた
えん罪なのだ。
取り調べが開始されると、平左衛門尉は厳しい口調で詰問した。
「なぜおまえは、世の中の秩序を乱すような暴言を吐いてまわっているのか」
平左衛門尉の詰問に、日蓮はまったく臆することなく、逆に、責めるたてるような
激しい口調でいった。
「いま世の中を平和にしようと思う心があるのであれば、日本国のあらゆる宗教の中
心者を一堂に集めて、正邪をただすべきである。そうしたことをしようともしないで
日蓮をとがめるようなことがあれば、仏の使いを用いないことになる。もしこれまで
のままでわたしの言を用いないならば、自界叛逆難、すなわち北条家の御一門内部
で同士討ちがはじまり、さらに、他国侵逼難――外国から日本国が攻められるという、
の二つの大難が襲ってくるであろう。そのときになって後悔しても、すでに
遅い。軍事の責任者として、あなたはどう責任をとられるおつもりか」
平左衛門尉は、ぐっと言葉に詰まり、眼を白黒させて、うろたえてしまった。
平左衛門は、日蓮から指摘されたように、まさに戦時の総責任者だ。その責任問題
を一介の乞食坊主から問詰されたのだ。
尋問してぎゅうぎゅう締めあげてやろうと思っていたのに、逆に自分の責任を問わ
れたかたちになってしまい、彼は逆上した。
「やかましい! この乞食坊主め! よけいなお世話だ。おまえなどの知ったことか」
頭に血の上った彼は思わず叫び声をあげたが、一瞬考えた後、少し冷静さを取り戻
した。
「だが、よく考えてみれば、おまえのいっていることは、まったく間違っている。た
しかに蒙古国のことは当たらずとも遠からずというべきかもしれないが、一門の同士
討ちなど、起こるはずがない。そういうのを、でたらめな放言というのだ」
彼は確信をもっていった。
いまの北条氏の政権は、源頼朝の創設した政権を基盤としているが、頼朝没後、
彼の正妻だった北条政子と、彼女の父の北条時政が政治の実権を握った。
その後、さまざまな騒動が起こり、源氏の唯一の後継者、源実朝が暗殺される
と、政子は将軍後見人として政務を独占し、北条氏一門で政権内部を固めた。
当時は夫婦別称であり、女性は他家に嫁いでも姓は変わらなかった。北条氏の女性
は、どこまでも北条氏の一員なのだ。しかも北条家の家督相続権をそのまま有してい
る。政子はそうした自分の権利を駆使し、政権の基盤を確立していった。
人々は畏敬の念をもって、政子のことを「女将軍」と呼んだ。
こうして鎌倉幕府は、北条氏の独裁政権となった。このような一枚岩となった政権
内部で、同士討ち――すなわち内乱など起こるはずがない。
しかしこの後しばらくして、二月騒動という、誰もが思いもしなかった北条氏を分
裂させた内乱が勃起するのだが、平左衛門がそれを予想できなかったことは、神の身
ならぬ故の無理からぬことだった。
日蓮は、諭すような口調でいった。
「わたしのいうことを信じられないのは、あなたが真実の仏法に疎いからだ。いまの
ように誤った仏法を信奉している限り、この二つの大難が襲ってくるのは必定であ
る。自界叛逆難は起こらないといわれるが、現にあなた自身が、政権のなかで権力争
いをしているではないか」
平左衛門には、安達泰盛という強敵のライバルがいた。彼はこの政敵を隙あらば殺
そうとたくらんでいた。その事実を、日蓮の情報網はとらえていたのだ。
知られてはならぬ秘密を指摘されて、平左衛門はさらに逆上した。
「や、やかましい! な、なにをいう。どこからそんなでたらめを聞いた」
自分の権力を背景に力を行使しようとする人間は、得てして臆病なものだ。そのこ
とを日蓮は熟知している。
彼は、哀れみをもった目で平左衛門尉を見て、諭すようにいった。
「悪事は隠せぬとはよくぞいったものだ。素直に心を改めない限り、結局、災厄はあ
なたの身にふりかかってきますぞ」
「うるさい! よけいなことをいうな。罪人は、お、おまえのほうだぞ」
平左衛門は声を震わせながらいった。
これでは立場が逆ではないか。なぜ日蓮などというクソ坊主から、こんな恥をかか
されねばならないのか。
「わたしを罪人といわれるが、わたしがどんな罪を犯したといわれるのか」
「いま、それを問うておるのではないか」
「わたしは世のためを思い、御一門の繁栄を願い、こうして忠言している。それがな
んの罪になるというのだ」
「それがよけいなことだというのだ。坊主は坊主らしく、身の安全のことだけを考え
ておれ」
「そうはいかぬ。日本国が大難に遭おうとしているのを見過ごすわけにはゆかない」
「やかましい。わしのいうことを聞かねば、どうなるかわかっておるのか」
「たとえ首をはねられようが、遠流刑になろうが、わたしは正しい法のままに進むの
みである」
「ようし、よくいった。それでは、首を洗って待っておれ」
「ただし、仏の使いに手をつけたとあれば、あなたの身は地獄へちてしまいますぞ。
わたしは、それを案じているのだ」
「う、うるさい! とっとと帰って、沙汰が下るまで謹慎しておれ」
平左衛門尉は、狼狽して叫んだ。
日蓮がいった言葉は、彼がもっとも恐れていたことだ。
こんな罪人は、昔からいまに至るまで、見たことも聞いたこともない。幕府の高官
を脅迫するなど、とんでもない奴だ。このような極悪人は殺してしまうしかない。
オレには逆らえないということを、目にもの見せてやる。こんな奴を野放しにして
いては、オレの沽券にかかわる。
ここに至って、彼は日蓮を殺害することを決意した。その心の奥底には、日蓮に対
する恐怖心がうごめいていることを自覚していたが、平左衛門尉は、あえてそれを無
視することにした。
文永八年九月十二日、平左衛門尉は武装した数百人の兵士を引き連れ、日蓮を逮捕
するために松葉ヶ谷の草庵に乱入した。
このとき平左衛門尉の家来の少輔房という者が、法華経第五の巻を取って、日蓮の
頭を三度殴った。日蓮は叫んだ。
「見よ、邪宗の僧が法華経第五の巻で法華経の行者を殴った。これをもってしても、
どこに正義があるか一目瞭然であろう」
法華経第五の巻には、勧持品第十三が収められている。この勧持品には、末法で法
華経を弘通する者に難を及ぼす、もっとも手ごわい仏敵である三類の強敵のことが書
かれているのだ。
日蓮は、少輔房が第五の巻で頭を叩いたことこそ、不思議なことであるといった。
日蓮は、さらに語気を強めていった。
「おのおの方、平左衛門尉がものに狂うさまをごらんあれ。日蓮は日本の柱である。
その柱を倒そうというのは、日本国を倒そうというのと同じことではないか。これを
気が狂ったといわずして、なんというであろうか」
この確信に満ちた言葉に、兵士たちはうろたえた。いかにも日蓮がいうことのほう
が、正しいことのように思えてきたのだ。
日蓮は続けて、祈雨の祈祷における良観らの大醜態のようすを物語っていった。
「この良観房の祈雨の祈りが通じなかったことは、あの色好みの和泉式部よりも劣る
ことよといったところ、うれしかったのか、悲しかったのか、涙を流していたことだ」
と、日蓮が当時の模様を話すと、ある者はげらげらと笑い、ある者は顔を赤くして
悔しがり、ある者は怒り狂った。
日蓮は、さまざまな兵士たちのようすを冷静にながめ、この逮捕劇は、そのときの
恨みによるものだと断定した。
「すなわち、平左衛門は、自分の醜態をつくろうために国家権力を利用し、日本の柱
であるこの日蓮を、無実の罪に陥れようとしているのである」
兵士たちは思ってもみなかった事実を告げられ、お互いの顔を見合わせて動揺の色
を隠せない。
平左衛門はあわてた。顔を真っ赤にして、声を張り上げた。
「ええい、やかましい! ぐだぐだとたわごとをいわさずに、とっとと引き立てい!」
このまましゃべらせておけば、自分の悪事をすべて暴露されてしまうかもしれない。
彼は、これまで味わったことのない、いい知れぬ恐怖におびえていた。
平左衛門は、日蓮に縄を掛けさせた上、馬にくくりつけ、まるで謀反人であるかの
ように鎌倉市中を引きまわさせた。こうすることで、日蓮が極悪人であると知らせる
ためだった。またその効果で、自分が正義の側に立っていると示せるはずだった。
日蓮は、そのまま北条宣時の屋敷に預けられた。この時点では、日蓮の処分は佐渡
流罪と内定していた。
宣時の屋敷に預けられたのは、彼が流刑地の佐渡国の守護職だったからだ。