小説「日本のクレオパトラ」へ

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       四条金吾

 日蓮は、若宮小路を南へ下り、竜の口の刑場へと馬の首を向けた。

 由比ヶ浜(ゆいがはま)に出て、少し行ったところで日蓮はまた馬を止めた。

 兵士が不審に思い、ばらばらとまわりを取巻く。

「どうした。なぜ止まる」

「しばし待たれよ。いま、このことを告げるべき人がいるのだ」

 そういうと、(くま)(おう)という、身のまわりの世話をさせている少年を呼び寄せた。

「熊王、そなた、四条金吾のもとに行って、告げてきてくれぬか。今宵(こよい)日蓮は、首を

斬られに竜の口に参る、とな」

 少年はその言葉に小さくうなずくと、四条金吾の家をめざして一目散に駆けだした。

そこから四条金吾の家までは、歩いて十分ばかりの距離だ。

「いかがしましょうか」

 兵士の頭領格の男が、平左衛門尉に聞いた。日蓮のわがままを許し、四条金吾が

到着するのを待つかどうかという意味だ。

「よい、待ってやれ」

 平左衛門は、余裕のある声でいった。

 いよいよ日蓮も、ここまでくれば覚悟を決めたらしい。四条金吾を呼びにやったと

いうことは、自分の死を見届けさせようということだろう。

「四条金吾も、一網打尽(いちもうだじん)にしてやるわ」

 平左衛門は、四条金吾が日蓮門下のリーダー的存在だということを知っている。彼

が駆けつけてくるのなら、この際一緒に捕らえて斬首刑にしてやろうと考えた。

 ――なんとかしなければならないと思っていたのに、ちょうどよい。鴨が、ねぎを

ってくるようなものだ。

 彼にとって、四条金吾も目障(めざわ)りな存在の一人だった。

 

 熊王は、四条金吾の家に着くと、入口の戸をどんどんと叩いた。

「金吾さま、大変です。起きてください。金吾さま!」

 何度か戸を叩いているうちに、家の中で物音がして、戸ががらりと開いた。

 中から顔をのぞかせたのは、下男の男だった。

「なんじゃ、日蓮さまのところの熊王か。いったい、こんな夜中に何事じゃ」

 宣時邸を出たのが夜半過ぎだったから、もう(うし)(こく)(午前二時ごろ)近くになって

いるだろう。だがあまりの出来事に、熊王には時間の感覚がなかった。

「日蓮さまが、竜の口に連れて行かれているところです。それで、金吾さまをお呼び

してこいと……」

「なに、竜の口に?」

「は、はい。首を斬られに参る、と」

「なんだと! それはまことか!」

 奥から大きな声がして、四条金吾が顔を出した。

 がっしりとした身体、太い眉。意志の強そうな野太い声だが、実直で人情に厚く、

なにごとにも情熱的な人柄が、その風貌全体ににじみ出ている。

「そ、それで、日蓮御坊(ごぼう)は、いまどこにおられる」

「いまは由比ヶ浜のところで、金吾さまがこられるのを待っておられます」

「わかった。すぐ支度(したく)をする。待っておれ」

 四条金吾は、出かける支度をするために、いったん奥へ引っ込んだ。

 四条金吾というのは通称で、正確には四条(しじょう)中務(なかつかさ)三郎(さぶろう)左右衛門尉(ざえもんのじょう)頼基(よりもと)という。北条

氏と直系の親戚筋にあたる江間(えま)氏に仕えている武士だ。

 深夜、この緊急の事態にあって、熊王を(つか)わして四条金吾を呼びにやらせたのは、

彼の謹言(きんげん)実直(じっちょく)性を、日蓮が全面的に信頼していたからだった。

 しばらくすると、やや青ざめた顔をして、金吾がまた姿を現した。

 後ろには彼の兄弟三人も顔を見せている。

 そのさらに後ろには、青ざめた顔をした金吾の妻、(にち)眼女(がんにょ)がいた。

「では、行って来る」

 金吾が、緊張した声で日眼女にいった。

「お気をつけて」

 と妻はいったが、「帰ってきてください」とはいわない。

 彼女は、夫の性格からして、再び生きて帰ってくることはないだろうと思っている。

だから「気をつけて」とだけいって、あとの言葉が出てこなかったのだ。

 武士の妻となったからには、このようなことがあるのは常に覚悟していた。でも、

いざとなったときには、思ったように言葉が出てこないものだと思い知らされた。

 だが彼女は、なんとか涙だけは流さないようにと必死で耐えた。

「後を頼む」

 とだけいって、金吾は後を振り返らないようにして駆けだした。

 三人の兄弟もあとに続く。

 家に残した二人の幼子(おさなご)の顔が頭に浮かんだが、金吾はその影を振り払うように、熊

王をうながした。

「さあ、御坊のところまで案内(あない)してくれ」

「はい」

 と震えるような声でいうと、熊王は駆けだした。

 日眼女は、しばらくぼう然として立ちつくしていたが、やがてはっとしたような顔

になり、あわてて奥の座敷に駆け込むと、猛烈な勢いでお題目を唱えはじめた。

 

 ぼくは考え込んでしまった。

 なぜ日蓮は、四条金吾を呼びにやらせたのだろう。

 金吾の直情径行型の性格を知っている彼は、自分が死刑になった後、金吾が後を追

って殉死(じゅんし)するだろうとは思わなかったのだろうか。

 日蓮の刑死と四条金吾の殉死を知れば、鎌倉の弟子たちは、きっと大きなショック

を受けるだろう。

 彼らは自分たちの信仰に疑いを抱き、当然起きてくる弾圧に耐え切れず、やがて日

蓮門下は崩壊するに違いない。

 そんな危険をおかして、なぜ四条金吾を呼びにやらせたのか。しかも彼には、妻と

年端(としは)もいかない幼い子供もいるというのに。

 そんな愛する家族を残し、師匠を追って家を飛び出した四条金吾。そしてその妻の

心の中を想像すると、ぼくは胸が詰まりそうになった。

 日蓮は、なぜそんなむごい選択をしたのだろう──その疑問が、ぼくの胸の中で(おり)

のように(とどこお)っていた。

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