小説「日本のクレオパトラ」へ

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竜の口の処刑場

 

 日蓮たち一行は、まだ先ほどの場所にとどまって待っていた。

「日蓮さま!」

 といったきり、金吾は次の言葉が出なくなった。

 金吾たちが到着したのをみて、平左衛門は兵士たちをうながした。

「では出発するぞ」

 すると四条金吾が、猛然とかみつくような語調でいった。

「待て! 日蓮御坊を処刑するとはなにごとだ。御坊はなにも法に触れることはして

おらぬ。そして死罪の判決を受けたということも聞いてはいない。それなのに、なぜ

このような無法なことをする」

 平左衛門は、ふん、と小馬鹿にしたような笑いを浮かべた。

「おまえのような(した)()の知ったことではない。日蓮は死刑に決まったのだ」

「なんだと! それはおぬしの独断だろうが。平左衛門尉は、かくかくこういう悪事

を働きましたと、拙者の主君の江間殿に申しあげるが、それでもよいか」

「ふん、やれるものならやってみよ。その前に、おまえの首がついていればの話だが」

 そうしたやりとりを無言で聞いていた日蓮が、口をはさんだ。

「金吾殿、今夜、首を斬られに竜の口に行くということは、ここ数年の間、待ち望ん

でいたことなのだ」

 日蓮は、金吾たち兄弟四人に向かって、落ち着きはらった口調でいった。

 金吾は、はっとした顔で師匠を見上げた。

 そこにはいつもと変わらぬ泰然(たいぜん)自若(じじゃく)とした日蓮の姿があった。彼は、なぜか感動に

も似た激情に包まれた。

「およそこの世に生をなして、さまざまなことで命を失うことはあっても、法華経の

ためにこの身を(ささ)げる人はおらぬ。日蓮は貧苦(びんぐ)下賤(げせん)の身に生まれ、父母の孝養にも尽

くせず、国の恩に報ずる力もない。しかるにこのたび、法華経に首を(たてまつ)ることによ

り、その功徳(くどく)を父母に回向(えこう)することができることとなった。さらにその功徳の余りを

おまえたち弟子に与えることにしようと考えておるのだ」

 日蓮の口調は、いつもの師匠の声と変わりはなかった。

 金吾たち兄弟四人は、深い感動を覚えた。

 法華経に喜捨(きしゃ)(喜んで法のために身を捨てること)せよとは、常に日蓮から学んで

いたことだ。それを師匠みずからが実践なされようとしているのだった。

 金吾は日蓮の言葉を聴いて、はじめて悟った。この法難は、師匠がずっと望まれて

いたことだったのだと。

 それならば、弟子の()るべき道は、師匠の願いをかなえさせてあげることだ。

 そう無理やり自分を納得させて、金吾たち兄弟は、日蓮の乗った馬の(くつわ)にとりつ

き、馬を引っ張って、涙ながらに竜の口の刑場へと向かった。

 やがて一行は、竜の口の刑場とおぼしき場所へ着いた。

 兵士たちは、さっそく処刑の準備に取りかかった。

 突然、がやがやとした騒音が湧き起こり、あちこちで大声をあげて叫ぶ者もいて、

場はこれまでと違った騒然とした雰囲気になった。

 そのようすを見て、四条金吾は感極(かんきわ)まった声をあげた。

「お師匠さま、もはやこれまででござる!」

 金吾はそれまで抑えていた感情に耐えきれず、ついに大声で泣き出してしまった。

 日蓮はそのようすを見て、カラカラとおかしそうに笑い出した。

「なんと不覚(ふかく)なお人であることよ。これほどの喜びを泣いてしまうとは。いま起きて

いるこのことは、大いに笑うべき慶祝事(けいしゅくじ)ではないか。こうした大難がきそうときこそ、

まさに成道(じょうどう)のときであると、常々(つねづね)教えてきたことを忘れられたのか」

 はっとしたような顔になった金吾に、日蓮は続けていった。

「わかったかな。わかればよい。それでは、これまでの約束どおり、笑って、日蓮が

成仏の姿を見届けてくれ」

 そういうと、日蓮は悠然(ゆうぜん)と歩き、みずから首の座(斬首の場)に座った。

 刑場とはいっても、特別な施設が造られているわけではなく、一枚の敷物が敷いて

あるにすぎない。

 首斬り役人は、ゆっくりと日蓮の背後に立ち、(さや)を払った刀を構えたが、いつもの

ように冷静な心境にはなれていない。――いや、その表現は正確ではない。

 いつもなら極悪の犯罪人に対して、正義の(やいば)をうち下ろし、悪を打ち砕くという

熱い情熱がたぎるのだが、今回はまったく違っている。

 むしろ自分が大きな悪に荷担(かたん)しているのではないかという疑いがあり、そして日蓮

を殺すと、なにか大きな罰が自分に下るのではないかという恐怖と彼は戦っていた。

 彼は、宣時の屋敷を出たときから、日蓮の行動の一部始終を見てきている。

 鶴岡八幡宮での、あの驚くべき言動!

 四条金吾をよび、彼が平左衛門尉にくいかかったときに、金吾をなだめたときの落

ち着きはらった態度。

 さらに、笑いながら首の座に座った、目の前の日蓮!

 その言動のすべてが、彼には想像もつかないものだった。

 日蓮とは、いったい何者なのか――彼には日蓮が同じ人間とは思えなくなっていた。

 死刑執行人は、自分の手がわずかに震えているのを自覚している。こんなことは、

いままで一度もなかったことだ。

「では、よろしくお頼み申す」

 日蓮が首を後ろへ向け、彼の顔を見て、にっこりと笑った。

「は、はい……」

 と、思わず答えてしまった瞬間だった。

 江ノ島の方角から、月のように光る大きな物体が突然現われ、辰巳(たつみ)(東南)の方角

から戌亥(いぬい)(北西)の方角へと、すさまじい光を発しながら移動していった。

 その後から、大小の閃光が暗黒の夜空を(おお)いつくし、まるでま昼のようなまばゆい

光があたりを照らし出した。

 それまでは夜明け前の漆黒(しっこく)の暗闇のために、人の顔も判別できないような暗さだっ

たのだが、夜空を赤々(あかあか)と輝かせた光のために、すべてのものが白日(はくじつ)(もと)にさらされ、

照らしだされた。

 うわ、うわぁぁ――!

 この光で、太刀(たち)を構えた首斬り役人は、まぶしさと恐ろしさのために倒れ伏した。

彼は、子供のように、この怪奇現象におびえ、ぶるぶると震えだした。

 ほかの兵士たちは、いまだかつて見たことも聞いたこともない天変(てんぺん)地異(ちい)に恐れおの

のき、大声を上げて逃げまどった。

 ある者は気が狂ったように走りまわり、一町(約一〇〇m)ほども逃げ去った。

 ある者は、馬から降りてへたへたと地面に座り込み、またある者は、馬に乗ったま

ま、馬の背にうずくまって動かなくなった。

 その場にいたすべての兵士が、恐怖にうち震えている。

 四条金吾たち兄弟は、しばらくは何事が起こったのかわからず、ぼう然としていた。

 まわりのようすをゆっくり確認すると、日蓮は大声でよばわった。

「さて、おのおの方、この大罪人をうち捨てておかれるつもりか。一刻も早く近くに

寄って、この首を討たれよ」

 と叫んだが、誰もそばに近づいてこようとはしない。日蓮は続けていった。

「もはや夜明けも近い。夜が明けてから首を斬ったのでは、見苦しいではないか。早

く近くによって、この首を斬られよ」

 と、再びうながしたが、やはり誰も近寄ろうとはしなかった。

 そうこうしているうちに、海の彼方(かなた)、波間の向こうの水平線に、遠くかすかな紅い

光が広がりはじめた。

 それは(またた)()金色(こんじき)の帯に変わり、やがてたなびく雲をまばゆいばかりの七色(なないろ)

染め、目を見張るような錦絵(にしきえ)絵画(かいが)へと変貌させていった。

 人々の視界の中で、空と海との境界線がくっきりと浮かびあがり、その裂け目を割

って出るように、鋭い光を放ちながら、巨大な太陽の一部が、姿を現してくる。

 白熱した光を放つ太陽は、見る者を圧倒する力強さで、ぐいぐいと、ほの暗い天空

をよじ昇りはじめた。

 やがて全身を(あらわ)した旭日は、暗黒の世界を、鮮やかなまばゆいばかりの色彩の世

界へと変貌させていった。

 太古から続く旭日の神々(こうごう)しさは、常に人間の心に感動と希望を与え続けてきた。

 そしてこの九月十三日の日の出の光景は、ことさらに新鮮な感慨(かんがい)を人々の胸に突き

つけていった。

 やがて太陽が高く昇り、すべての世界を照らし出したとき、馬を走らせて駆けつけ

た者があった。

「左衛門尉殿、とりあえず()()の本間邸で待機するように、ということでござる」

 馬で駆けつけた侍は、今後の処置を幕府に問い合わせに行かせた使者だった。

 なにしろ斬首という刑は平左衛門尉の独断だから、暗殺に失敗した以上、幕府から

の正式通達を待たねばならなかった。

 その返事は、本間(ほんま)六郎(ろくろう)()衛門(えもん)の屋敷で待機、ということだった。

「うむ、こうなっては仕方がない。とりあえず依智に向かおうか」

 一行は相模(さがみ)の依智に行くことになった。

 もともと幕府が決定した日蓮の刑は、佐渡流罪ということに内定していた。したが

って平左衛門尉が勝手に連れだして暗殺に失敗した日蓮の処置は、佐渡(さどの)(かみ)である本間

六郎左衛門のところで一時預かり、ということになったのだ。

 だが本間六郎左衛門の屋敷のある場所を知っている者がいない。

 誰か本間邸を知っている者はいないか、と叫びながら探しまわっているうちに、時

間はどんどん過ぎてゆく。平左衛門尉の面目は丸つぶれになった。

 誰がこんなことになるようなことをしでかしたのだと、責任を問うような声が兵士

の間でささやかれはじめ、平左衛門尉はますます渋面をこわばらせた。

 そうこうしているうちに、依智の本間邸を知っているという者が出てきて、ようや

く一行は依智をめざして歩きはじめた。

 

 ぼくは驚きのあまり、しばらくは呆然(ぼうぜん)としていた。

 いったい誰が、こんな結末を予想しただろうか。

 首斬り役人が罪人の首を斬れなかったなんて、聞いたこともない。

 また罪人が早く首を斬れというのに、恐れて誰も近づかないようなことが起きるな

んて、まったくありえない話だ。

 いやいやそれ以前に、まさに処刑の直前になって、こんな怪奇現象がおきるなん

て!

 そのとき突然、ぼくの頭の中で、ある記憶が(よみがえ)ってきた。それは高校の先輩から

聞いた話だった。

 先輩は、竜の口で起きた怪奇現象は、大流星群だった、といっていた。たしか「お

ひつじ・おうし座流星群」とかなんとか、いっていたような気がする。

 そのときぼくは、ふーん、と思った程度だったが、いまこうして()のあたりに見て

みると、そんなことですまされるような生半可(なまはんか)なことじゃない。

 少なくとも、日蓮と四条金吾たち兄弟の五人の命が、その現象が起こったことで助

かったことは間違いのない事実だ。いやいやそんな小さなことじゃなくて、その当時

すでにかなりの勢力になっていた日蓮仏教集団の崩壊を(まぬが)れさせたのだ。

 もし仮に日蓮と四条金吾たちがみんな死んでいたとしたら、日蓮の宗派は生き残れ

なかったに違いない。

 と、ぼくは混乱気味の頭の中を整理しながら考えたが、実際には、この竜の口で起

きた事件の影響は、そんな小さなものではなかった。

 でもぼくがほんとうにそれを認識するには、もう少し時間が必要だった。

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