野草随想102
「露草の青」〜谷川健一さん逝く
25.08.26
8月24日、谷川健一先生が亡くなられた。言うまでもないが、谷川民俗学といわれる独自の世界を構築した博覧強記の天才である。私が知ったのは、2日後の新聞訃報だった。
まさにその24日当日に、私に包みが届いた。
開けてみると、谷川先生から送られてきた新刊の「露草の青」というタイトルの歌論集で、先生自筆の添え物はなく出版社の送付状がついているだけだった。私は先生のご逝去を知ることもなく、暑い部屋で扇風機にあおられ、この本を読みながら、改めて先生の詩心とその知識の深さに、ただただ感嘆していた。その日は気温がずっと下がり、熱帯夜から解放され虫の集く音がさわやかだった。私はこんな駄句を書きとめた。
虫の音が訃報にきこゆ闇深し
なにか気がつかぬ先生のエネルギーが来ていたのだろうか。贈呈本はあたかも自らの訃報を伝えられた符牒のようであった。
先生のお声を伺ったのは、昨年の晩秋だったろうか。90歳を越えている先生は電話口で、
「私ももう歳をとりましたよ。けれどもう少しがんばりたいと思ってますよ」
と仰っていた。また私が全国の一の宮廻りをしていることをしっかり覚えておられて、
「全部廻るのは大変ですよ」、などとも仰った。
「いつも先生の本を参考にしながら、あちこち廻っているんです」
というと、
「ああ、それは嬉しいことですね。」とすなおに喜ばれた。
初めて先生にお会いしたのは昭和60年のこと。当時静岡県文化財団の事務をしていた私は、地名研究所の所長をされていた先生に、静岡県の地名に関する著述の仕事をお願いした。そうして幾度か先生の現地調査に同行しているうちに、九州男児の大柄な鷹揚として迫らぬお人柄、大型コンピュータのごとき頭脳、上空から俯瞰する鷹のような視点、そして溢れ出る叙情性。そうした先生の魅力に心奪われてしまった。
以来、時折音信をとらせていただき、先生からは新刊本を贈っていただくようなことが続いていた。
先生にお会いした頃、ちょうど「白鳥伝説」を上梓された頃だったが、その冒頭の文章があまりに溢れてくるものがあるので、それを伝えると、
「それはあなたに詩心があるからですよ」
と言われたのを思い出す。また、ある大学教授と私の車中でお話をされているときに、
「私は、喉まででかかる歌を封印して、民俗学をやっているんです」
と、話されていたことも意味深く思い出される。人一倍の鋭敏な感性を持つ天才が、叙情に流されることを恐れ、緻密な検証を積み重ねる「学問」の世界で戦っていたその決意であったのだろう。先生は晩年にこの封印を解かれた。
深い洞察力と五感、六感、しなやかな自分の感性を信じて、その力で大型コンピュータをフル回転させ、独自の理論を構築された。最期まで尽きぬほどのエネルギーをお持ちで、この本の終わりの歌でも、
「日本の存亡かけて立ちゆかむ時に老いたるわが身かなしむ」
という悲嘆と苛立ちの声がほとばしり出ている。
先生は青が好きであった。南の青い海と空、白い渚に、常世を重ねて見ておられた。妣(はは)の国はツバメが帰るように彼の南の地にあった。先生の死を見すえた歌はたくさん見出せる。西行は「花の下にて」と詠んだが、先生は渚の白い砂。明るい光が溢れている。だが私にはそこに同時に虚無の光も見えてくる。
この本の「露草の青」は、先生のスケールからすると意外に思えるが、小さな動植物にも神業の不思議を見出し詠嘆する繊細な情をおもちであった。
私は、谷川民俗学から実に多くのことを教えていただいた。私の現実世界の見え方も先生的フィルターが幾分はかかってしまっている。学会や集まりにお誘いを受けたこともあったが、余りにレベルが違いすぎて、私はついぞお伺いすることはなかった。そんな機会は永久に失われた。天才には私のようなファンもきっと全国にたくさん居るのだろう。
こんな歌もあった。
いにしえの吟遊詩人の末路かもわれもまじらむなぎさの貝に (「余花」から)
悔しいが人間は死ななければならない。御冥福をお祈りする以外に私にできることがない。
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