野草随想104
ツバキの1 (玉之浦・・・または遣唐使船)
26.02.24
玉之浦 白い覆輪が可憐
庭のツバキが咲き始めた。「玉之浦」という品種で、一重の濃い紅の花弁を、鮮やかな白が縁取る。こうした縁取りを覆輪というそうだ。色合いは派手だが咲き方はやや地味で、花は筒状というよりはもう少しひらく程度。下を向いてこっそり咲く。この時期になるとつぼみが膨らんで、毎日白い覆輪がみえてくるのが気にかかってならない。
それはまた、鳥たちにとっても同様で、めざといヒヨドリが早々と白いクチビルを見つけて飛来し突いているので、はらはらしてしまう。
ツバキは、日本原産の植物であり、学名はCamellia japonicaで日本の名が入っている。これが西洋に渡り人気をえて品種改良なども進められたり、デュマの「椿姫」などに名を残しているのは、よく知られたことだろう。
ところがツバキに「椿」という漢字を当てるが、この字は中国では、
「センダン科のチャンチンを表すのであって、ツバキのことではない。中国ではツバキは古く「海榴」あるいは「海石榴」と表記している。」
これは海を渡ってきたザクロのような植物という意味だろうとして、
「ツバキという植物は、わが国から中国にわたって、海石榴の文字が与えられ、その文字が中国からわが国につたえられたものとみられる。」と桜井満氏は「万葉の植物」で考証している。
中尾佐助氏は、遣隋使、遣唐使を派遣して中国文化を輸入した反面、中国に輸出したものとして、ツバキがあげられないかと指摘し、日本から中国への輸出第1号は、花だったろうとしている。(「花と木の文化史」)
遣唐使のルートは朝鮮半島の沿岸を渡る北路、トカラ列島・奄美から東シナ海を横断する南路があったが、第16回の8世紀後半からは、五島列島から東シナ海を直接突っ切る航路が選択されていた。五島列島の最後の寄港地が、福江島に隣接した久賀島の田ノ浦港だといわれる。空海や最澄が唐に発ったのもこのルートである。
我庭のツツジの「玉之浦」とはそもそも地名であり、この福江島の玉之浦町の父岳山中で発見されたことから命名されているという。このツバキもはるばる五島から命を伝えてきたのかと思うと愛おしい気持ちになる。ただし、花の時期が違うので、玉之浦の白い覆輪が、遣唐使船を見送った、というような風景はなかっただろう。
五島はツバキの島であるが、この命がけの渡航をまえに、空海も最澄もツバキを見ている余裕などはなかったろう。遣唐船は6,7月に出帆したようであり、この時期は、風は唐から日本へ吹いている。わざわざ逆風の季節を選んでいて、「信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。」と司馬遼太郎氏は「空海の風景」で呆れている。
案の定、空海の船は34日間漂流し、はるか南方、現在の福州市のほうまで流されてしまっている。この緊急事態で大使に代わって書いた空海の名文が、空海を歴史の表舞台に出していくことになるのは、まさに禍福はあざなえる縄の如しである。
野の花トップへ
|