野草随想88
母と菜の花
23.05.07
飯山市:菜の花公園:千曲川と遠方は斑尾山
5月の連休は、故郷の母を訪ねることにしている。
この季節、奥信濃はやっと雪が解け、花々が満開を迎える。山々にはまだ雪が残り、空気はひやっとしている。最も美しい季節だろう。
昔、母と菜の花公園にいったときのことを思い出す。老母の元気なころの台詞である。
・・・瑞穂の菜の花ばたげは
去年おめに(お前に)連れて来てもらって、続げて2年来たな
こごはふんとに(ここは本当に)いいなあ
こんなものまえとし(毎年)見てるげんさ(けどさ)
別に何とも思わながったけん
いい、いい、せわれて(言われて)みれば
ああ、たえした景色だ
ああ、いやまば(飯山を)見直したな (平成9年)
母は認知症対応型共同生活介護施設、いわゆるグループホームに入って4年。もう寝たきりになってしまった。
この日は、飯山についたのが正午近くなので、食事中かなと遠慮しながらも、直ぐにグループホームに向かうと、案の定、胃ろうで水分を摂っているところだった。母は、眼を閉じたまま口をもぐもぐしているが、何か食べている感覚なのだろう。
もう、頭はぼんやりしているので、目の前に居るのが自分の生んだ子供であると認識はしていない。でも、誰かが来て話していると感じとっている。話しかけると、ようやくまぶたを開いた。暫くして精神活動が盛んになってきたのか、ぶつぶつと話し始める。残念ながら言葉ははっきり聞き取れない。だが、
そうかい、本当?それからどうしたの?
などと相槌を入れてやると、ちょっと考える風をしてからまた話し始める。そうして、何かが可笑しいらしく、くすくすと笑い始めて顔を崩す。その顔を見ていると何の屈託もなく、何の煩いもなく、こちらも思わずつられて笑ってしまう。
母の髪の薄くなった頭蓋の中には、たくさんの思い出が渦巻いているに違いない。きっとその中の楽しい美味しい部分だけをえりすぐって堪能しているのだろう。
もらい泣きという言葉があるが、笑いにそれがあるなら、もらい笑いである。母の笑いには、思わずもらい笑いをしてしまう。
ホームのヘルパーさんたちが、
Mさんから、元気をもらうのよ。
お話が上手だから人気者なの。話していて笑っちゃうのよ。
などと言うのを聞くと、子供の私が嬉しくないはずがない。
10年ほど前に痴呆が始まった頃、同居する兄夫婦や孫といろいろがうまく行かなくなったときがあった。そうしたとき離れて暮らしている私のところに、一月とか半月とか逗留してくれた。
その折に、私は時間を割いては母からいろいろな昔話を聞きだした。母は話し上手で、話が好きだったから、聞いていると思わず引き込まれ、それはそれは面白かった。手振りはぶりを交えて、子供のころのことから、紡績の女工時代のことから戦争で疎開した故郷での辛酸などを語ってくれた。それは総じて厳しい生活の物語であったが、たくましく前を見ている明るい楽天的な精紳物語でもあった。それを「じょんのび」という冊子にまとめたこともある。
そのときも、自分で話しながら思わず自分で笑って、その笑いで周りを笑いに引き込んだ。
おや。こんなことを思い出した、不思議だなあ、ずっと忘れてたんだけど。
などと、自分で話しながら思い出しているようでもあった。
今もおそらく、10年前と同じ話をしているのだろう。柿どろぼうの話か、女工の話か。子供が小さかった頃の思い出か。必ず決まって同じところで、自分で可笑しくなって、笑うのだろう。
そうして話しつかれると、母の手は蒲団をつまむように、何だか裁縫をするようなしぐさを見せる。もしかしたら、女工の糸つむぎの手つきかもしれない、と思うと、胸がキュッとする。
貧家の長女ゆえに10歳を少し越したばかりの母は、群馬の深谷の製糸工場にいわば身売りされた。高給を取ったようだが、仕事が終わると疲れて立てず、這って部屋に戻ったという過酷な労働と激しい競争にさらされた。その厳しさは思い出すのもいやだったようだ。私はその話を聞き知っているので、母の仕草がかわいそうでならないのだ。
けれど母は惚けてから、時折しみじみと自分を納得させるかのように
いい人生だった、幸せだった、ありがとう
などと言った。
痴呆で寝たきりの母が、明るく笑えるのは、本当に親身に看てくれて、話かけをしてくれる温かい介護があってこそ、と思うと、ホームの皆さんに頭が下がる。言い方は悪いが、終わりよければすべてヨシである。日本では、老人の人生を良い人生にしてくれるかどうかは、ホームによって左右されるという過酷な現実がある。
そうした看護に守られて、母は生き仏である。
明るく笑みを絶やさない。回りに笑いを催促してくる。
私もこのように人生を肯定して死にたい。惚けた母から、いまさらながら生き方を教わる思いだった。
へんな話だが、母はもう私の母ではないようだ。
その心は、我執を捨て、明るい光の中で揺曳している。草や木や動物など自然界の生きとし生きるものの心は、もしかしたら皆こうなのかもしれない。母はそれらの仲間入りをしたのかもしれない。
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