野草随想90
ハンス・コパーとアザミ
23.05.28
展示パンフを使わせ頂いた。
いわゆる「ティッスル・フォーム」・・・あざみ型
ハンス・コパー展を静岡市美術館で見てきた。
コパーはイギリスの陶芸家で、ルーシー・リーとともにイギリスの陶芸界をリードしてきた。その革新的作風の影響力はいまや世界に及んでいる。私もNHKの日曜美術館で知って、一目でその魔力に魅入られた。
二人ともユダヤ人で第2次大戦下にイギリスへ亡命しており、とくにコパーは16歳のときユダヤ人迫害で父が自殺し、その後も厳しい境遇を強いられてきた。たまたまルーシー・リーの工房にコパーが雇われたことが運命の出会いとなった。以後二人は互いに影響しあいながら付かず離れずの関係にあったらしい。
展示室の出口付近に、女性の頭部のブロンズがあった。1953年作である。ルーシー・リーをモデルにしたものであり微妙な二人の心情を深読みすることも不可能ではない。
写真を見ると、コパーの額には深い縦皺がノミで掘り込んだように入っている。
長い間眉をしかめながら生きていたのだろうと思わせる。晩年は筋萎縮症に苦しみながら命を凝縮したような精神性の高い研ぎ澄ませた形態を生み出した。作品の精神性の代償は彼自身の肉体であり、彼は自分の肉体を拒否し供物として捧げたのではないかとさえ、私には思えた。作品全体から、そんな彼の人生をイメージしてしまうのである。 1981年に61歳で亡くなっている。
けれど、若い頃の笑顔の写真などはなかなか魅力的である。
コパーの作品の特徴は、その独特の風合いときわめて洗練されたユニークなフォルムとにある。
地肌の風合いは、ルーシー・リーの豊かな色彩世界とは別天地で、単色に近い印象である。白い地に黒い化粧土を掛け、それを研磨して白い部分と下の黒い部分を微妙な風合いに磨きだしているらしい。それを何度も繰り返し、焼きは一度なのだという。多くの作品がこうした風合いである。
悲しいかな、技法については素人の私には全く判らない。
しかしその肌合いの印象は一種の鉱物を思わせ、日本的な美に近いものを感じさせる。また古代の出土遺物のように長い時間に洗われたもののようにも感じる。
肌の奥から現れる黒い面は、白い上土にかき消されたり、時に砂漠の岩の様に現れたりしている。逆に白い肌は、時に砂の浪のように脈打ち、時にさらさらと流れるように消えていく。地肌には円状の線がさりげなく滑りこませてある。
禁欲的にみえるがしかし技巧的である。
誰もが、枯山水や竜安寺の石庭を連想するだろう。意外に両者は近いところに居る。
創作過程で様々なタイプのフォルムをうみだしたが、そのなかに、ティッスル・フォームと呼ばれるタイプがある。これは二枚の丸い鉢を合わせて銅鑼のようにし、その下部には円筒の土台を付け上部には船形の口辺をつけたもので、およそ椀や壷などの陶器とは程遠い形態である。
他にも、スペードのフォームとか、口辺がつばの帽子のように大きいフォーム(名前を忘れた)など特徴的なものがある。これらはいずれも、轆轤で整形したパーツを合接するという彼の生み出した技法によったものだ。

庭のノアザミ
晩年は、といっても60歳前だが、キクラデス・フォームという形態をもっぱら作成した。キクラデスとは古代、地中海に栄えた文明でその彫刻からインスピレーションを受けているのだといわれる。
この作品群は、高さはせいぜい30センチ内外の縦に長細いもので、ピーンとした緊張感に支配されている。全ての装飾を剥ぎ取ってぎりぎり最後に残されたものに思える。
底の部分は極めて細く、今まさに地から離れようとしているようだ。だが物理的にそれは無理なので、土台を置いて編み針を芯に入れて本体とベースとを固定しているという。しかし、その接点は無限にゼロに近づこうとしている。
コパーが、ぎりぎり最後に残したこの究極の形は一体なんなのだろう。もちろん陶器がそこに在るのであって、意味が先にあるわけではない。しかしキクラデス・フォームに、彼が見ていたものがあったはずである。
私には、それは飛翔しようとする命そのものに思える。
その形は次第にイエスの十字架に見えてくる。白鳥となって飛び立つヤマトタケルのタマ(霊)に見えてくる。
展示がおわるころ、私は緊張感からほとんど息苦しくなっていた。
しかし、彼の最期の作品らしい、1978年と79年の白と黒のポットがセットで展示されていた。それは、卵のような柔らかな膨らみをもつ形をしていて、穏やかな印象を与えてくれる。キクラデスを凝視した後、この卵型のポットを眼にして、わたしは少し安堵したのだった。
彼は、亡くなる前に認めた文章もすべて燃やしてしまったらしい。それはおそらく、やくざな人間よりも、作品がすべてを語り、作品が自分より長い時間を生き抜くことを確信している所為に違いない。
実用から遠く離れてしまった陶器には、存在理由の見つからない不安から、極端な饒舌や奇抜さや、自己破壊が見られることが往々にしてある。
コパーのこれらフォームは、一見寡黙であるが、やはり饒舌なのだ。
コパーは自分を語ることを拒否し、強く唇を閉じたが、そうすればするほど、自分が作品から滲み出る。皮肉なアンビバレンツに思えて仕方ない。
ものそれ自体になり、個を越えて悠久の時に存在するはずの彼の作品が、もっとも個を剥ぎ取ったときに、もっとも彼の体臭を帯びてしまった。ここには木石に同化して個が消失していくアニミズム的な生存の安らぎはない。永遠の切ない希求があるだけだ。
そんな悲しさを感じるのは、私だけの僻目であろうか。
さて、彼の作品の主要な形態である、ティッスル・フォームというのは、日本語にすると「アザミ型」というらしい。アザミの花の形と似ていることからの銘銘だが、まあ強いて言われれば理解できなくもないが、とても自然な連想は難しい。
わざわざアザミを引きだす理由が何かあるのかと思って調べると、アザミはスコットランドの国を救った国の花だというし、また陶器にも図柄としてたくさん描かれ、国民にずいぶんと愛されている花のようだ。かの国では連想が容易なのだろう。
残念ながら日本では、アザミは七草にも入らないし、趣という点では今一つ採点が低い。でも私は結構好きな花であり、とげがあるのもプラスに評価している。
何年か前、山からノアザミを一株こいできて、ずっと鉢植えにしていたが、今年は庭に下ろしてやった。すると例年2つ3つほどの花数が、今年は10以上は咲きそうである。5月末だが、早くも3つほど紫のツンとした花を開いている。頼もしい花である。
|