青に溺れる 02


  ぎしり。  ベッドが大きくきしむ音で、目が覚める。

重い瞼を開くと視界いっぱいに、水槽の青い光に照らされた圭の顔があった。まるで体温を感じさせないそれをぼうと見返し、私はやはり彼はとても美しいと思った。
  私の頬に、男にしてはひやりとした圭の掌が添えられる。その気持ちよさに頬ずりすると、圭の唇が私のそれにそっと落とされた。


――お休みのキス、さっきしたのに……

  覚醒しきっていない頭でぼんやりと考えていると、圭の舌で唇が強引に割り開かれ、私の中に侵入してきた。
  苦いお酒の味が口内に広がり、舌を強引に絡め取られる。
  私は初めての事でどう呼吸をしていいか分からず、徐々に息が苦しくなってきた。必死に両手でシーツを握り締め、苦しさに耐える。


――溺れるって……こういう苦しさなのかな……

  朦朧としていく意識の中、薄く開けた私の瞳が、青い光を映し込んで紫色に光る圭の瞳を捉えた。
  苦しさを訴える身体とは反対に、何故か胸の奥が熱くなり、そして私は、意識を手放した。


 次の日、目を覚ますと圭の姿は無かった。

「……夢……だったのかな……」

 圭が寝ていた自分の隣のシーツを触るが、ひんやりとしていた。ごろんと寝返りを打ってそこにうつ伏せになると、圭の香水と微かな潮の香りが残っており、一緒にいてくれたのだとホッとした。
両手できゅうと、波打ったシーツを手繰り寄せる。


  圭は一ヶ月前までは、毎日ここに泊まっていた。
  しかし急に「もう一人で寝れるだろう?」と言って、泊まらなくなった。
  淋しかった。
  私が何か圭を怒らせるようなことを言ったのだろうか、と思い返したが、何も思い当たらなかった。


――圭は外で、素敵な女性に出会ったのかもしれない……

  そう思い至った。
  私は圭以外の人間に会ったことが無い。
  けれど、圭はきっと他の人たちより、綺麗なのだろうと思う。
  無駄を削ぎ落としたしなやかな肢体と、時折見え隠れする漆黒の瞳の中の光。
  私はそれを思い出すといつも、首の後ろの薄い産毛が逆立つ。


 ちゃぷん。
  サメが水面近くで大きくキックしたのだろうか、分厚い硝子越しで聞こえるはずの無い水の音が聞こえる。

「……サメさんもそう思う?」

 私はサメにそう問いかけると、ベッドから降り、巨大な水槽にへばり付いた。

「そうしたら私、圭に捨てられちゃうのかしら……」

『………』

 サメは何も答えず、ただ静かにそこにいた。

 テーブルには一人分の朝食が用意されていた。まだ暖かいオムレツを一口口に含むと、胸が苦しくなって、それ以上食べられなかった。

 その日、圭は魚の餌と私の食事のために、ちょっと部屋に顔を出しただけで、すぐに立ち去った。
  そしてそれ以後、圭はあまり長居をしなくなった。
  私は持て余した時間を出された宿題を解いたり、水槽のサメとにらめっこをして過ごしていた。
  しかし、ふとした瞬間に、圭とその恋人のことを考えてしまう。
  私は水槽にぴたりと両掌を貼り付け、遥か頭上の水面を仰ぎ見る。ゆらゆらと波打つ水面は、日光を浴びてキラキラと輝いていた。


 否――あれは日光などではない。
  心配性の圭は、水越しの太陽光さえも私の病気には危険だと、一ミリたりとも日の光をこの部屋に許さないのだ。


――太陽の恩恵を受けられる圭と……その恋人……

私はずっと、圭の隣は私のものだと、そう思っていた。
  何故そんな浅はかな考えを持っていたのかと、今更ながら泣きたくなる。
  圭には大人の美しい女性が似合う。こんな出来損ないの私では、彼の隣に相応しくない。


「十三歳のお誕生日おめでとう、七海」

 白砂に覆われた水底を見つめ、自己嫌悪に陥っていた私は、直ぐ隣まで圭が来て声を掛けられるまで、全くその存在に気付いていなかった。
  驚いて「きゃっ!」と文字通り飛び上がると、圭もびっくりしたようで、細めの瞳を珍しくぱちくりとさせていた。
 

「えっ? ……あ……今日……誕生日……」

「何? 忘れてたの?」

 やっと自分の誕生日を思い出した私の頭を、圭の大きな掌がくしゃりと撫でる。

「うん、すっかり。……あ、もしかして、サメさんが誕生日プレゼントだったの?」

 私は水槽を振り返り、ゆったりと泳ぐサメを見た。

「サメもプレゼントだったけれど……七海、目を瞑って」

 圭は面白そうにそう言って促す。

「なあに?」

「いいから」

 言われるがまま目を閉じる。数秒後、首元にひやりとした感触を覚え、ピクリと肩が震えた。

「誕生日プレゼントだよ。見てごらん」

 圭に手を引かれて姿見の前に立つ。私の生白い首には、華奢なシルバーの鎖に繋がれた、青い石が輝いていた。

「タンザナイトという石だよ」

「……タンザナイト……?」

 私は鏡に映った石を、指先で恐るおそる触れる。

「ああ、『タンザニアの夜』という意味だ。これはね、光によって色が変わるんだ。今は深くて濃い青色だが、夜は高貴な紫色になる」

「紫………」

――圭みたい……

 私は鏡越しに見つめてくる圭からそっと目を逸らす。あの夢の中の、いつもと違う男の人に見えた圭。

「あ……ありがとう、圭。嬉しい」

 鏡に映る圭の口元を見つめてそうお礼を言と、彼の薄い唇は嬉しそうに口角が上がる。そして私の頬に掛った長い髪を、細長くて冷たい指で耳に掛けると、後ろからそっと頬にキスをした。 背筋を何かがぞくりと駆け上がって、消えた。 
  圭は久しぶりに長居をしてくれるらしく、私達は彼の作ってくれた贅沢な料理の数々に舌鼓を打った。圭はワインを飲みながら、ケーキを頬張る私を、優しい眼差しで見つめていた。

 



「圭、こんなところで寝たら、風邪引いちゃうよ」

 私は膝掛けを取って、三人掛けのソファーでうとうとし始めた圭の膝にかける。

「……うん」

 圭は返事をするが、目を覚ます気配は無い。
  私は猫のようにソファーの上で身体を丸め、彼の膝にちょこんと頭を乗せる。頬に当たる布越しの弛緩した筋肉が、心地いい。
  最近の寂しさを埋めるようにもっとくっ付きたくなり、 私は圭の腰に両腕を回して、胸に縋りつくようにぎゅうと密着する。
  シャツ越しにとくとくと規則正しく響く、彼の鼓動に耳を寄せながら、瞼を閉じる。




  どこまでも青い――海の中。
  少し不安を感じるほど冷たい海水に、
  私は満たされていた。
  胎児の様に丸くなった私を、
  ゆらゆらと揺りかごの様にあやす、潮の流れ。
  呼吸するたびに零れる、
  こぽこぽこぽこぽ……という泡音は、
  金属音にも似て、私の心も共鳴する。
  薄く開いた瞳に映りこむ、
  真っ白な私の爪先と、
――交わらない、底知れぬ海の青。











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