午睡の館 〜禁断の箱庭〜 02


「……です……」

「……え?」

 ぽそりと零されたその呟きを、渡邉が聞き返した時、予鈴の鐘がガランゴロンと鳴った。
 周りの生徒達が早足に移動教室へと行ってしまい、後には二人だけが残った。
 しんと静まり返る廊下。
 目の前の櫻子は持っていた教科書類を抱え直すと、今度ははっきりと口を開く。


「大切なものを増やして、失うのが怖いんです……」

「それは……一体どういう……?」

 そう聞き返した渡邉を見上げてくる櫻子の瞳は、何か他を圧倒する力があり、渡邉はその後を続けられるない。

「失礼します」

 櫻子はゆっくりお辞儀をすると、長い髪を揺らして渡邉の横を通り行ってしまった。











 五月。

 結局、四月の終わりに行われた新入生ピクニックに櫻子が来ることは無かった。
 クラスの子達はがっかりしていたが、中等部から持ち上がりの生徒が大多数を占める為、皆わきまえているようだった。


「はあ……」

 渡邉のよく日に焼けた顔が困惑し、小さく溜め息をついたのを聞きつけ、学年主任の田所が声を掛けてきた。

「どうしたんだい? 渡邉先生、溜め息なんてついちゃって、元気な君らしくない」

 田所は空いていた隣の教員の席に腰を下ろした。
 手元に置かれた東儀櫻子の内申書と成績表を見つけた田所は、「ああ、東儀か……」と合点がいったようだ。


「とても優秀な生徒なんです。ただ、どうしても友人を作ろうとしないんです……」

 友達を作らないからと言って、櫻子がいじめにあっているかというと、そんなことは断じてなかった。
 むしろそれより、櫻子は全生徒、全教員からまるで聖母の様に崇拝されているきらいがある。


「東儀はトクベツ……ですからねえ。中等部の教員に聞いたことがある。中等部二年までは普通の綺麗な生徒だったようですよ、もちろん友達もいてね」

「中等部二年ですか……」

「ああ、東儀の父親が他界した時期だね。母親はもっと早くに亡くしているらしいが……」

「父親の他界に、何か原因があるのかもしれませんね……」

 そう呟いた渡邉に、田所は苦笑してポンと肩を叩く。

「教師として生徒の事に一生懸命になれることはいいことですが、東儀はご存じのとおり、夏休み以降はイギリスですよ。そんなに頑張っても、報われたころには、あっちです。まあ、適当にやってください」

 いつも責任感の強い田所にしては、ややいい加減なアドバイスを言うと、席を立って行ってしまった。

「………」

(東儀について深入りするな……という事だろうか……、それとも、私が東儀だけを特別視していると、忠告されたのだろうか……)

 特別視、しているのかもしれない……と渡邉は思う。
 入学式のあの日から、渡邉はいくら否定しようにも、その目は櫻子を追っていた。


 そして、思い過ごしだろうか……。
 櫻子本人も、渡邉を特別視しているような気がしてならなった。
 渡邉の担当教科である体育にも、あの一件以来出来る限り参加するようになったし、体育委員にも自分から立候補していた。


 ふと気が付くと、櫻子が渡邉の事をひたとその黒い瞳で見つめている。
 それも数度ではなかった。
 だからと言って、友人はやはり作ろうとしない。


(東儀は俺の事を……?)

 希望的観測か。
 どうしても、そちらへ思考が行ってしまう。


「……俺は教師だ……」

 渡邉は自分の妄想にも似た考えを振り切るために、内申書のファイルをパタンと閉じると、決心する。

(このままでは、いけない……来週の家庭訪問で、とにかく事情を把握しよう……)











 家庭訪問の日。

 東儀家に車で到着した渡邉は、その圧倒的な財力に度肝を抜かれた。
 門を入ってから数分は掛かる庭を抜け、その先にあったのは西洋のマナーハウス(貴族の邸宅)と言っても過言ではないほどの館だった。


 実は渡邉自身、自分はぼんぼんだと思って育ってきた。
 両親は一代で予備校、塾、教材の通信教育のシステムを立ち上げた人物で、小さな頃から甘やかされて育ってきた。
 教員免許を取ったのも親の勧めで、ゆくゆくは企業のトップの座に就くことを嘱望されていた。
 その渡邉が度肝を抜かれるのであるから、その財力というのは、学園の生徒にも多い成金では太刀打ちできないものだった。


 東儀家は明治の頃より銀行業、投資業を基軸に不動産等多角経営をし、噂では宮との繋がりもあると聞く。
 今日の面談相手はそのトップである櫻子の祖父、東儀翁かと思い渡邉は思わず身震いしたが、通された客間に現れた人物は違った。
   その人物を目の当たりにした時、渡邉は文字通り固まった。


   その人物――櫻子の兄は、櫻子に瓜二つだった。

 男性にしては色素の薄い肌。
 濡れた様な漆黒の黒髪。
 切れ長の大きな黒曜石の様な瞳。
 しかし背は高く精悍で、渡邉と同じく百八十センチは優に超えていた。


「初めまして。櫻子の兄の、雅弥です」

 雅弥はそう言って、優雅な仕草で右手を差し出す。
 固まったままの渡邉は、ぽかんとその様子を見つめていたが、雅弥がふわりと微笑んだのを至近距離で目の当たりにし、胸がどくりと高鳴った。


(東儀が微笑んだのかと思った――)

 まだ一度も目にしたことが無い櫻子の微笑みが、目の前にあるという錯覚を起こした渡邉の顔が、朱に染まる。

「渡邉先生……?」

 そう男の声で呼びかけられ、ようやく渡邉は我に返った。
 目の前の雅弥は面白そうに渡邉を見ている。











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