背徳の楔 08


 七瀬はそんな末っ子根性丸出しの理由で、一臣に取り入ることを決意したのだ。

「まず手始めに、高等部に上がってからの復習だ。幸いまだ一学期しか終わってないからな」

 一臣はそう言うと、パソコンを操作してなにやらプリントし始めた。

「なあにこれ?」

 プリンターから吐き出される大量の紙に、七瀬は首を傾げる。

「一学期分の復習プリントだ。お前の弱点はすべて把握している。これをやればまた主席辺りに戻れるだろう」

「え……、なんでお兄様がそんなことを?」

「……お前以外の弟達は、優秀すぎてな。お前のテストの解答から弱点を把握した」

 確かに、七瀬以外の兄達は、皆幼稚舎の頃から主席を陥落したことのない強者ばかりだ。
 それにしても、一臣がそこまで七瀬の事を気にかけてくれているとは、全く気付かなかった。


 胸の中がほんのり暖かくなる。

「ありがとう、お兄様」

 プリントを取り上げようと立ち上がった一臣に、七瀬はきゅっと抱きつく。

「品格のある令嬢は、そんなに人に抱きついたりしないものだ」

 一臣は七瀬を抱きしめることもなく、嘆息してそう言う。
 ぶ〜と唇を尖らせた七瀬に、


「唇を尖らせるな。じゃあ、そこのテーブルで英語からやっていけ」

 顎で一臣のデスクの近くに備えられている小さ目のダイニングキッチンのテーブルを指し示す。

「分かりました」

 七瀬は素直に頷くと、早速プリントに取り掛かる。
 中等部までの基礎は自分で言うのもなんだが、完璧なのだ。


 辞書を頼りに長文を読み解いていく。
 問題はち密に計算された、弱点を突いたものだった。


(いつの間に、こんなものを用意していたんだろう……?)

 一臣は学園の理事だけが仕事ではない。
 父親に付いて桐敷の後継者としての経営にも携わっているのだ。


 そんな彼が帰宅するのは早くても九時――遅いときは十二時を過ぎることもあるのだ。
 多忙な一臣に、七瀬が頑張っていれば掛けるはずのない迷惑をかけてしまっていた。
 七瀬はちらりと一臣を盗み見し、心の中で謝罪する。


(ごめんね、お兄様。私、頑張るから――!)

 集中して今日の分を終わらせた頃には、時計は十二時を指していた。
 声を掛けようと一臣を振り向いて、七瀬は言いとどまる。


 デスクで書類を読み込んでいる一臣は眼鏡をかけていた。
 そこまで視力が悪いわけではないらしいが、書面に目を通すときは眼鏡をかける様にしているらしい。


(隙がないな……昔はあんなじゃなかったけれど)

 高等部までの一臣は笑顔も見せ、優しくて包容力のある兄だったと思う。
 何が彼をそんな風に変えてしまったのだろうと考え、やはりそれは桐敷の長兄と、跡継ぎとしての重圧だったのだろうと思う。


 一臣はそれに一人で耐えてきたのだろうか。

(彼女には弱いところも見せてたのかな――)

「終わったのか?」

 ふいに声を掛けられ、顔を上げると一臣と目が合った。

「うん」

「じゃあ、確認しておくから、今日はもう寝なさい」

「はい、おやすみなさい、お兄様」

 七瀬はそう言って立ち上がると、一臣の頬にチュッとキスをして、逃げる様に部屋を後にした。









「そう言えば、前は京次に教わっていたんじゃないのか?」

 一臣に勉強を見てもらい始めて数日経ったある日、ふいに一臣からそう切り出した。

「え……あ、そうだったんだけれど、京兄は今、病院の方が忙しいらしいの」

 京次が忙しいのは嘘ではなかったが、それでも京次は七瀬が一臣に勉強を教わっていると聞いた時、猛反対して「俺が教える!」と言って聞かなかった。
 それを何とか説き伏せて、今に至る。


 というか、京次に勉強を教わったことは何度かあるが、いつも最後は悪戯されてしまう。
 最近、七瀬は京次に触れられるのがイケナイ事の様な気がしてきたのだ。


「お兄様の方はどうなの? 菱沼さんと、デートしてるの?」

 本当は聞きたくなんてないのに、聞かずにはいられなかった。

「してない。お見合い以降、会ってない」

「ふうん。そうなんだ」

 知らず知らず、七瀬の頬が緩む。

「……なんで嬉しそうな顔をする」

「別に」

「変な奴だな。……ここ、間違っているぞ」

「どこ?」

 一臣が確認していた物理のプリントを指し示す。
 それを見ようと屈んだ七瀬の長い黒髪が、パサリと一臣の頬に触れた。


「あ……ごめんなさい……目に入らなかった?」

 なぜか恥ずかしくなった七瀬は少し頬を赤らめ、焦って一臣に確認する。

「……大丈夫だ」

「そう……」

「最近、頑張ってるみたいだな。担任の教員も褒めていたぞ……どれ、ピアノも聴いてやる。今、何をやってるんだ?」

「ドビュッシーの喜びの島……」

「弾いてみろ」

 一臣がピアノの蓋を開け、鍵盤のカバーを取る。
 兄妹の中でも、ピアノを弾けるのは一臣と七瀬と、留学中の双子の兄達だけだった。
 七瀬は大人しく言われた通り鍵盤に指を落とす。











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