妹 02


 

 その日は午後の授業の前からずっと下腹部が痛く、重い感じがしていた。

 雅には理由が思い当たらず、最初は我慢が出来ないほどの痛みではなかったので授業を受けていたのだが、時間が経つにつれその痛みは増していった。授業の邪魔にならないよう講義をしている教師に挙手で合図をすると、教師が雅の席まで近づいてきた。

「どうしました、鴨志田さん?」

「すみません、講義を中断させまして。体調が悪いので、保健室に行ってきても宜しいでしょうか?」

 額に脂汗を浮かべて苦しそうにしている雅に、教師は付き添いを付けようか申し出てくれたが、雅は丁重に断り教室を出た。

 講義中の廊下はしんとしていた。

 意識が遠くなりそうな腹部の痛みに、もしここで私が倒れても、授業が終わるまで誰にも気付かれないのだろうな――と、ふと弱気なことを考えてしまう。雅は自分を奮い立たせて歩き出したが、四階の教室から一階の保健室への道のりが、酷く遠くに感じられた。

(取り敢えず、理事室で休もう)

 この鴨園学園は雅の家、鴨志田一族の学園だ。初等部から大学部まで一貫教育を行っており、各部には鴨志田と分家・宮前の子息子女の為に、理事室なるものが設置されている。高級ホテル並みに整えられた設備と内装で、理事代行として生徒会執行部に席を置く職務柄、何泊かすることを前提に作られていた。

 教室と同じ四階にある、理事室の入り口になんとかたどり着き、カードキーを使って中に入る。痺れた様に重い両足にムチを打ち、ソファーで横になろうとなんとか歩を進めると、ミニスカートの太ももに何か液体が伝った気がした。

 何だろうと、少しスカートをめくって見ると、太ももに一筋、禍々しい朱色の血液が伝っていた。

(――怪我でもしたのかしら?)

 少し気が動転した雅は、血液を洗い流そうとバスルームにあるガラス張りのシャワールームに、セーラー服のまま飛び込む。

 刹那――。

 再び腹部を鈍痛が襲い、腰から下が痺れる。立っていられなくなった雅は、タイル張りの床にずるずるとへたりこんでしまった。床に付いてしまった血がまるで意思を持つ生き物のように広がり、蜘蛛の糸を張り巡らせて行くように床を赤く染め上げていく。

 お腹の痛み……血……。

 雅はそこで初めて、自分が初潮を迎えてしまったことに気がついた。

(生理――)

「いや……」

 目の前に突きつけられた赤い現実に慄然とし、雅は弱々しく呟いて首を振った。

「いや……っ!」

 雅は血から逃れる様に、シャワールームの中を後ずさる。  身体がどんどん、大人になろうとしている。

 身体と心のベクトルが全く逆のほうへ向かって進んでいき、雅は自分の中の何かが、引き裂かれそうな恐怖を感じた。

(いやだいやだいやだ……おとななんかになりたくない。  わたしはあんなみにくいおとなになんかなりたくない。  おとなになったら……おにいさまといっしょにいられない)

 蛇口を捻ると頭上のシャワーヘッドから勢いよく、暖かい湯が降り注いでくる。

 雅は制服が濡れることなど構わず、必死に足の血を手で拭った。しかし血は止まることはなく、シャワールームの足元はお湯で薄まった薄紅色の血に満たされ、籠もった空気は鉄臭い血の匂いで充満していく。

(痛いよ、いたいよ、お兄様――!)

 頭の中が痛みと恐怖で支配された雅は、幼児のように声を上げて泣きじゃくった。

         

                                    *

 

 ヤブ医者こと武田は、パーティーで知り合った医師で、幼女しか恋愛対象に出来ない稚児趣味、いや――変態だった。

 英国混血の芸術品のような造形美の容貌、将来を嘱望されている整形外科医であれば女達が放って置くはずもなく、社交の場でも当初は下にも置かないほどの人気であった。

  しかし成人女性に興味が持ってない本人には、迷惑以外の何物でもない。いい加減面倒になってきた武田は、ある日のパーティーで直ぐに彼を取り囲んできた淑女達に向かって、 「僕って幼い女の子にしか、興味が持てないんですよね〜」 とジャブをかました。取り巻く淑女達は「またご冗談を」と笑い合ったが、武田はそれを制するように優雅に右腕を持ち上げた。

「ああ、ほらあそこの少女なんて、華奢な子供体型で、成長期特有の胴の短さと足の長さのアンバランスさが絶妙で……食べてしまいたいくらいに素敵だ」

 武田は歌うように語ると近くにいた少女を指差して、取り囲んでいた淑女達にうっとりと微笑んだ。  指を指されてしまった少女――雅は、何事かと呆気に取られてしまったがすぐさま「危ない人」と感じ取り、きびすを返してそそくさと武田と凍りついた淑女から逃げ出した。

 しかし――、

(ちょっと、待って――)

 雅は数歩歩いて、立ち止まる。

(もしかしたら……)

 ごくりと唾を飲む音。

(……もしかしたら、彼なら私の望みをかなえる為に、協力してくれるかもしれない)

 雅はおそるおそる武田のほうを振り返る。端正な顔に蠱惑的な笑みを浮かべて胸の前で腕を組みし、雅の一挙手一投足を眺めていた彼と目が合った。

 途端、武田のグレーの瞳がキラキラと輝き、小さく「小鹿ちゃん」と呟いたのが耳に入り、雅は「やはり無理かもしれない」と怖気付きそうになる。

(変態の餌食にされてしまうかもしれない……けれど――)

 

 

 その数日後、雅は武田に連絡を取り、彼の勤務している病院(彼の父の病院であった)を訪問した。武田は雅の来訪を心から喜び相好を崩して迎え入れてくれたが、開口一番、雅が口にした「お願い」を聞いても、その様子は変わらなかった。

「武田先生、お願いがあります。私はこれ以上、大人になりたくありません。どうか私に成長を止める薬を処方してもらえませんか?」

 武田はどうして雅が成長を止めたいのかと、問い詰めるようなことはしなかった。ただ一言、雅を試すように言ってのけた。

「抗成長剤って保険利かないと結構高額だよ? それに君のような成長期に投与すると後で、取り返しが付かなくなるだろう。僕の名誉もあるしね。処方したことがばれてしまったら、僕の立場も危うくなる」

 武田の当然の反応に、雅は唇を引き結んで、長身の武田を見上げる。

「先生にご迷惑はお掛けしません。お金は私のポケットマネーで事足ります。もともと私は長くは生きるつもりはありませんし……それまで成長が止められればよいのです」

 雅は淡々と武田の質問に答えていく。

「ご協力して頂けるのなら、研究助成金を将来お約束いたします」

 好条件を提示して武田を誘惑しているが、雅の大きな瞳は何も映っていないように、空虚なものだった。

「助成金ねえ……」

 武田はリクライニングのきいた椅子にふんぞり返ると、考え込むように黙った。二人が黙り込んでしまったため、雅には診察室の壁掛け時計の秒針の音が、妙に大きく感じられた。武田は微動だにせず立ち尽くしたままの雅を、頭の先から爪先まで、まさに舐めるように眺めていた。  数分ほど経った頃、武田がふいに口を開いた。

「助成金もいいけど……君は長く生きる気がない。つまりそう遠くない未来に死ぬ予定なんだよね。何か病気?」

 突っ立って武田の出方を待っていた雅は首を振る。長い黒髪もその動作でさらさらと揺れる。

「じゃあさ。君が死ぬ時は、残りの人生を僕にくれない――?」

 武田は挑発的な笑みを面に張り付けて、雅を見つめる。

「……どういう意味でしょう? ペットの様に貴方の愛玩物となれ……という意味ですか?」

 雅は汚いモノを見るような目で、武田を見返す。

「ふ……それもいいけど、僕は永遠の美にしか興味がなくてね。君が死んだら標本にして、毎日楽しませてもらうつもりだよ。別に死ぬ気なら、それでもいいよね?」

「だから、死ぬ時は献体に申し込んでおいてね?」と、武田はまるで「今度のデートの約束、忘れないでね」というのと同じ軽さで、ひょうひょうと言ってのける。

「……私の気が変わって、死ぬのが嫌になって生き続けると言い出したら、どうするのですか?」

「そうだね〜。それは僕にとってはつまらないけれど、まあ、報酬は上乗せして頂くことにするし、一応医師だからね。患者が生きていてくれるなら、それでもいい」

(この人を信用して、大丈夫だろうか――)

 雅は武田の本意が読めず困惑するが、武田はそんな雅も可愛いという風に片目をつむってよこす。

「……変なかた」

 雅には武田は頭が切れるのか、単なる変わり者なのか判断が付かない。

(ただ、これで薬は確保出来る。多少の犠牲は払ってでも、今は手に入れなければならない。たとえそれで、自分の亡骸を差し出すことになろうとも――)

「薬は用意しておくから、後日取りに来て。それと、今日は点滴を受けて帰りなさい、全く酷い顔色だ……ちゃんと食事を取っているかい?」

「………」

 図星を指されて、雅はぐっと詰まる。

 生理が始まって以降、怖くて食事が喉を通らなくなってしまっていたのだ。

(食べたら成長して……醜い大人になってしまう――)

 武田は内線で看護師に点滴を用意させると、雅の痩せすぎた細い腕に注意深く刺す。

「これでよし。終わる頃に看護師が見に来るから、大人しくしているのだよ。あっ、今度から制服で来てね! 鴨園のセーラー服って、薄いグレーと白色で、清楚でいいんだよね〜」

 整った顔ににやけた笑みを浮かべながら、武田は診察室から去っていった。                                    

 

                                    *

 

「雅、何してんの?」

 昼下がり。雅が中等部の図書館で、世界史のレポートの調べものをしていると、頭上から声が降ってきた。見なくても誰だか分かる。この学園で雅にこんな口を利くのは唯一人、高等部ニ年の加賀美先輩だ。

(高等部にも図書館が整っているのに、なんでわざわざ中等部の図書館に来るかな――)

 思いっきり面倒臭そうな表情で顔を上げてやりたかったが、我慢してポーカーフェイスで通す。これでも天下の加賀美グループの社長子息だ。理事一族として不躾な事は、なるべくやりたくない。

 雅は目の前に立っている、加賀美の無駄にイケメンな顔を見据える。よく焼けた肌に意志の強さが表れた眉、長い睫で縁取られた大きな瞳、口角の上がった大きな口が彼をいつも自信満々に見せる。見つめられた加賀美は興味深そうに雅を見返し、笑っている。

 親族以外に雅の事を呼び捨てで呼ぶ、唯一の人――。

(黙っていたら、付け上がらせてしまう)

「……先輩、学園内では名前で呼ばないで下さい」

 雅は再び文献に視線を戻して、いつものように注意を繰り返す。

「学園の外なら、呼んでいいわけ?」

 揚げ足取りな返事を寄越しながら、雅の隣に腰を下ろしてしまった加賀美を、雅は軽く睨む。

「そういう訳では……」

 大きな声で反論しそうになり、慌てて口をつぐむ。ざっと周囲を見回すと、ちらほらいた生徒逹は珍しい組み合わせの二人に皆注目していたらしく、雅と目が合うとパッと視線を逸らされた。

「雅、今日、白鳥製薬のパーティー行くだろ?」

 周りなんか関係ないのか目に入ってないのか、加賀美は気にせず続ける。

(――この人、人の話を聞いているのかしら)

「……ええ」

「迎えに行くから、一緒に行こう」

 雅は不覚にも動揺して、シャープペンシルの芯を折ってしまう。折れた芯は机を飛び越えて、どこかへ消えてしまった。

「………」

「お〜い、雅、聞いてる?」

「何故、そんな面倒なことを……。お互い各々で行ったほうが、時間の短縮になると思いますが」

 雅は、今度は面倒臭いという気持ちを全面に出して、顔を上げた。

「そんなの、少しでも雅と一緒に居たいからに、決まってるじゃん」

 普通の女生徒なら見目良く、かつ、鴨志田に並ぶ家柄の彼にこんな事を言われたら、裸足で逃げてしまうだろう。しかし、雅にはそんな軟派な発言は通用しない。

「お兄様に誤解されるから、絶対嫌です」

 雅はまた視線を文献に落とすと、一刀両断した。

「いいの〜? そんなこと言っちゃって……怪文書のこと、ばらしちゃうよ?」

 加賀美は雅に接近すると、小声で耳元に囁く。

「……脅迫ですか」

 雅の整った眉が、ピクリとひきつった。

 

 今から一週間前、雅はこの図書館のプリンターで、蜷川理子への脅迫文をプリントしていた。確かに人目につきやすいが、私室や理事室のプリンターで印刷した場合、万が一調べられたら直ぐにばれてしまう為、人気の少ない時間を狙ってわざわざここで印刷することを選んだ。

 WORDに打ち込んだ文章を、直ぐ隣のプリンターでプリントアウトする。吐き出された紙を指紋がつかないように注意深く取ろうとした時、すっと横から伸びた手に奪われてしまった。

「なになに……え〜! これって怪文書ってやつだよね。鴨志田のお姫様」

 目の前には、紙をつまんだ加賀美が、ニヤニヤ笑いながら立っていた。

 お互い言葉を交わすのはこれが初めてだったが、それぞれ有名な二人は互いに見知っていた。ざっと血の気が引く音が聞こえそうなほど、雅は目の前が真っ暗になった。

(人が周りにいないことは、ちゃんと確認したはずなのに――!)

「……返してください」

 声が震えて迫力不足になってしまったが、雅が詰め寄ると、加賀美はあっさりと紙を返した。

「あんまりおいたしちゃ駄目だよ、雅」

 加賀美はそう言うと、雅の頭をぽんと撫で、去っていった。

 

(やっぱり、あのままで終わるわけが無いわよね――)

 雅は加賀美を睨んだ。

「俺だってこんなことしたくないけど、雅、つれなさすぎなんだもん」

 そう言うと、加賀美は雅の長い黒髪を一房取り、指に絡ませ、誘うような顔で雅を見返す。周りの女生徒達が小さな声できゃっと黄色い声を上げたのが耳に入り、雅は加賀美から体を遠ざける。髪はするすると、加賀美の指の間から抜けていった。

「……私でなくても、先輩なら掃いて捨てる程、女性のご友人がいらっしゃるでしょう?」

 現に加賀美が他のパーティーに、毎回違う大人っぽい女性を連れてきているのを、雅は目撃している。

「いるけどさ〜、あれはガールフレンドじゃん? 雅は友達じゃないし」

「………」

 雅はなんだか、無駄なやり取りをしている気になり小さく溜め息をつくと、机の上に広げていた書物や筆記用具を片付け始める。

「また、だんまり?」

 加賀美は机に両腕を組んで顎を乗せると、上目使いに雅を見る。自分の容姿を百パーセント活用して、整った鼻筋や可愛らしさをアピールしている。雅は妙にそこだけは感心してしまったが、すぐ我にかえる。

「ですから……、何故友達でもない私を、連れていく必要があるのかと――」

「お嫁さん候補だから」

 鞄に筆記用具を入れていた視線を上げると、加賀美が真剣な顔でこちらを見ていた。

「……はい?」

「あれ、聞こえなかった? お・よ……」

「ちょっ、やめて下さいっ!」

 雅は慌てて、ガタンと椅子を引いて立ち上がってしまう。あまりの雅の取り乱しように周りの生徒逹は、今度は盗み見ではなくまじまじと二人を見比べていた。本来生徒の規範となるべき自分が、図書館でこんな失態を繰り返すとは、今日は厄日かしらと雅は頭痛を覚える。

「ぷっ、雅が怒った」

 脈絡も無くいきなり吹き出した加賀美を、雅は唖然と見てしまう。

(――はあ?)

「雅って、いっつも愛想笑いばかりで、ぜんぜん感情見せないじゃん? だから怒ったとこ見れて、面白いなって」

(なに、この人……ヤブ医者といい、私の周りには変人しかいない――)

「雅と結婚したら、毎日色んな顔が見られて、楽しそう」

 加賀美も椅子から立ち上がり、二十センチの身長差から見下ろしてくる。

「まあ、まだ先の話だけどね、だって雅……」

 加賀美はまた堪えきれないように、ぷぷっと笑う。

「まだ、胸ペッタンコにも程があるし」

 そう言うと、雅のグレーのセーラー服の襟元を、つんと人差し指でつついた。その瞬間、雅の瞳と表情から怒りや苛立ちが消え、能面のような表情になった。荷物をざっと纏めると、加賀美の横をすり抜ける。

「ご機嫌よう」

「えっ……雅……?」

 一瞬で表情から感情の一切を削ぎ落としてしまった雅を、加賀美は頭を掻きながら困惑して見送るしかなかった。雅は早足で図書館から離れる。もう昼休みが終わる頃だ。狼狽えないよう顔に出ないように気を引き締め、顎を引き背筋をピンと伸ばす。

「私はこのままでいいの――」

 雅は自分に言い聞かせるようそう呟くと、指が白くなるくらいにぎゅっと鞄の持ち手を握り締めた。

(誰に何と思われたっていい。お兄様にずっと愛される為には、今のままの私が必要なの――)                

 

                               *

 

 両親が死んだ頃の記憶はない。

 雅はまだ、幼すぎた。

 両親について覚えていることといえば、大きくて暖かい手の持ち主だったということくらい――いやそれさえも、写真を見て自分で作り上げた幻想かもしれない。

 だから、自分の中で始めから存在しない人達に、哀しみや恋しさはない。

(私達兄妹を鴨志田という檻に置き去りにした人達、ただ、それだけだ――)

 鴨志田には本家と分家がある。

 本家は長兄血筋の一族で、鴨志田姓を唯一名乗ることが許される。家長は鴨志田グループの総帥となり、株式会社鴨志田の代表取締役を歴任する。その事業は多岐に渡り、不動産・建設業、製薬・食品の製造・卸売業を主軸に、金融業等幅広い分野を営んでいる。

 一方、分家は長兄の姉弟妹、従兄弟、はとこ達で構成され、宮前姓を名乗る。ほとんどの者達が鴨志田グループの恩恵を受けその職に就くか、国会議員、警視庁、その他主要官庁に優秀な人材を輩出し、鴨志田の繁栄に影ながら貢献している。

 その為、昔から分家の宮前は、本家の鴨志田に頭が上がらない。  宮前の者達は役員会に名を連ねていても鴨志田が絶対で、反旗を翻そうものなら、一族から追放されてきた。また、鴨志田が歴代経営手腕に卓越した者が続いてきた為、その存在は絶対的なものとなっていた。

 そんな中、海外訪問中の雅達の両親・鴨志田当主が、列車事故で他界した。

 月哉は十六歳、雅は三歳――。

 まだ、自分を守る術も持たなかった二人は、私利私欲に塗れた分家の者たちが台頭している一族の中で、機会を窺ってひっそりと待った。月哉が大学在学中からめきめきと現した頭角により、鴨志田の総帥に史上最年少で就任し、鴨志田と宮前の主従は一旦落ち着いていた。

 雅は今年中等部に上がったばかり、席を置いている私立鴨園学園も、鴨志田の百パーセント出資の学園である。この学園は鴨志田の歴代の子息のために建てられ、富裕層の子息子女にも門戸を開き、創立百年を超える。もちろん分家の宮前の従兄弟達も在籍しており、関連企業の子息達までいる。言わば未来の鴨志田の縮図が、この学び舎にて繰り広げられているようなものだった。

(私の一挙手一投足を、いつも見られている。私の鴨志田としての資質を、いつも試されている。私の学園内での交友関係が、直接その親の会社同士の関係にまで影響する。だから、誰にでも平等に……誰にも執着せず――)

(――私は、あんな汚いことをする『大人』には成らない)

 この思いは、初等部に入学した時から変わらない。

 

                                   *     

 

「お嬢様、加賀美様がお見えです。本日のパーティーのエスコートを御約束されたとか――」

 その日の夕方、雅がドレス用に髪をセットして貰っている最中、雅付きの使用人・後藤が言付けに来た。

(――信じられない……本当に来たの?)

「……私、約束していないわ、帰って頂いて」

 雅は鏡越しに背後の後藤に指示するが、言われた本人は困った様に立ち尽くす。

「……どうかしたの?」

「それが……先程、月哉様宛に加賀美様のお父上、加賀美代表から直々に御連絡があったそうです――息子を宜しく頼みますと」

(あの人、親の力をつかったの?)

「……それで?」

「月哉様からも楽しんでくるように、との言付けを頂いております。ですので、同伴をお断りになるのは困難かと――」     

 後藤は言いづらそうに伝えると、鏡の中の雅から目を反らした。

 雅は使用人達に聞こえないよう、細くて長い溜め息をつく。

「わかりました。準備が整うまで、待って頂いて」

 かしこまりました、と後藤は廊下へ消えていった。

「お嬢様、これで宜しいですか?」

 セットをしてくれていたメイドが、鏡越しに尋ねてくる。手を引かれて立ち上がり、姿見で全体のバランスを確認する。真紅のドレスは胸元に大振りの薔薇が幾つもあしらわれており、貧相な胸を目立たなくしてくれる。バックスタイルも、腰にスワロフスキーが散りばめられた大きなリボンがあしらわれているために、雅の凹凸の少ない華奢な体型がカバーされる。ハーフアップにして貰い、長いストレートの黒髪は垂らした。

「これで良いわ、ありがとう」

 兄と出掛けるならば、淡い色彩で可愛さをアピールしたデザインの装いを選ぶが、そうでないときは自分の長い黒髪に映える物を選択している。

「雅様、よくお似合いですね」

 私室の入り口に、兄の第一秘書の東海林(とうかいりん)が立っていた。兄の都合が付かず雅が名代として社交の場に出席する際は、いつもエスコートをしてくれている。

「東海林……ごめんなさいね、急にこんなことになってしまって」

 雅は東海林に近付くと兄よりさらに背の高い秘書を、申し訳なさそうに見上げる。三十代半ばで働き盛りの彼は物腰が柔らかくて品が良く、切れ長の繊細そうな瞳は眼鏡に隠されている。

「とんでもございません、加賀美家のご子息でしたら、雅様の御同伴役に相応しい方です。ただ雅様のお気持ちを汲まずに、一方的に決められたことでなければよいのですが」

 東海林は心配そうに、少し首を傾けた。

「東海林……ありがとう。貴方はいつも私の気持ちを優先してくれるのね」

 雅は東海林を心配させないように、微笑んで見せた。

 東海林が鴨志田に入社したのは約十年前、雅が四歳の頃だ。秘書室に配属された彼は当時兄の代わりに社長代理をしていた宮前の叔父に付いて、何度も鴨志田家を訪れてきた。

(お兄様が直ぐに東海林を気に入ったから、私も第二の兄の様に慕い始めたのよね――)

 そうして東海林は、兄が大学在学中に鴨志田の実権を握り始めた頃から、兄に付いている。

「……本当は今日、先輩から同伴を誘われてお断りしたの。でも加賀美代表を通されては、断れないわよね……。大丈夫、一度付き合えば飽きてくれるでしょう。なんて言ったって先輩はプレイボーイですもの」

 雅は細い肩をすくめて見せた。

「家の肩書きを背負っていらっしゃるのですから、妙な行動は取られないと思いますが……何かありましたらすぐ、ご連絡下さい」

 東海林が差し出した手に自分の手を重ね、部屋を出る。

「ありがとう……今のは、お兄様には内緒ね。心配掛けたくないの」

 加賀美を待たせている階下の応接室に行くと、この時間に屋敷に居るはずのない兄が、加賀美とお茶を飲んでいた。

「お兄様、お帰りだったのですね」

 雅の頬が自然と綻ぶ。

「雅、なんて美しいんだ! いつもの可愛い感じも良いが、今日のように綺麗なものも良いね」

 月哉は立ち上がると、雅の姿をオーバーに誉めてくれた。確かに、赤いドレスが雅の大きくて黒い瞳と長くて濡れたように艶やかな黒髪、また口紅を付けなくても赤く潤うくちびるを引き立たせてくれていた。

「雅さん、綺麗です。エスコート出来るなんて私は何て幸せ者なのでしょう」

 月哉に続いて立ち上がった加賀美が、一応誉めてくれる。

「………」

(よくもそんな歯が浮くようなこと言えるわね。親まで使って、私に嫌がらせをするなんて――!)

 一目で仕立ての良さか分かるスーツを着こなし、首元にアスコットタイをあしらった加賀美は、嫌味なほど似合っていた。兄にばれないようさっと加賀美を睨むと、ドレスの裾を上げて挨拶する。

「そうだろう加賀美君。うらやましい、この後に用事がなければ、私がエスコートしたいよ。しかし二人が同じ学園に通っているのは知っていたが、こんなに仲が良いのは知らなかったな」

 何も知らない月哉が、ニコニコしながら二人の関係を詮索する。

(仲は最悪なのですが――  私は強迫されているのですが――)

 雅はぐっと堪えて、言いたいことを飲み下す。

「ええ、良いお付き合いをさせていただいております」

 加賀美は余裕綽々で社交用の微笑みを浮かべ、好き放題言ってくれる。

「お兄様、そんなお付き合いではありませんわ。そろそろ行ってまいります」

 このまま加賀美をここに居させたら、何を言い出すか解らない。雅はそそくさと出掛けようと加賀美を促す。加賀美は月哉に雅を借りる旨を断ると、部屋を出ようとした。

「雅」

 ふいに、硬い声で背後から呼ばれる。振り返ると、月哉が真顔で立っていた。

(お兄様――?)

 ただ立っているだけなのに漂ってくるような色香に、雅は吸い寄せられるような錯覚を覚える。月哉は余裕たっぷりに笑うと、優雅に上げた両腕を開き、誘うように言った。

「行って来ますのハグは?」

(お兄様――!)

 雅は頬が緩むのを止められず、赤いドレスの裾を翻しながら、小走りで月哉の胸に飛び込んだ。月哉は雅をぎゅっと抱き締めると、屈んで頬に軽くキスを落とした。雅は兄の瞳を、気持ちを込めた潤んだ瞳で見あげる。

(ああ、お兄様はそうやって、私の全てを支配していればいいの――)

「うちの可愛いお姫様。楽しんでおいで、行ってらっしゃい」

 月哉は抱いていた腕を緩めると、目を細めて微笑んだ。

「行って参ります」

 雅はそう言って部屋の出口を振り向く。加賀美は扉の前で少し驚いた顔をしていたが、雅と視線が合うとニコリと笑った。

 加賀美家の車に乗り込み出発すると、隣に座った加賀美は急に笑い出した。

「なるほどね〜、あんなに素敵な兄上に溺愛されたら、そりゃブラコンにもなるわ」

「………」

 雅は加賀美の挑発など無視して、前を見る。

「学園じゃあ冷めた表情しか見せてくれないのに……あんな甘い顔も出来るのな」

「………」

「あれ、無視? いいの? そんな態度とって」

 雅の方へ体を向けた加賀美は、ニヤリと意地悪そうに笑った。

「俺にもキスしてよ」

 加賀美は雅の顎をくいと持ち上げて、強引に視界に入り込んでくる。その顔には誰からも愛されてきた者特有の、自信がちらついて見えた。

(加賀美家の車に乗り込んだのは、失敗だったわ――)

 運転手も助手席にいる使用人もやり取りが聞こえていない筈はないのに、主の女癖の悪さには慣れているのだろう、雅を助けようという気配はない。

 あけすけな侮辱に、喉が内側から締め付けられる。

(私が加賀美家に何をしたというのだ――!)

「馬鹿にしないで」

 雅は腹から絞り出した堅い声で拒絶し、添えられていた手を払い除ける。

「先輩が私の秘密を誰かにばらしたければ、そうしてください。但し、先輩はただ『見た』だけであって、物的証拠もなにもありません。噂をひろめても只の噂で、私への脅迫にはなり得ないわ」

(――これ以上、この人の思い通りにはさせない)

 雅は真正面から、大きな瞳で加賀美を睨んだ。

「………」

 車内は水を打ったかのように静寂に包まれ、車のモーター音だけが微かに聞こえていた。

「なんだ、つまんないの」

 静寂を破った加賀美の声は、意外にもあっけらかんとしていた。

「もっと取り乱した雅が、見られると思ったのに」

「………」

(――この人私を怒らせたくて、こんな回りくどいことしているわけ?)

 困惑した顔を向けると、加賀美はいつものように微笑んでいた。

「しかしさあ、社長――雅の兄さんって、昔からあんなに独占欲強いわけ?」

 加賀美は座席に座り直すと、強引に話題を変える。

「………」

 ますます訳が分からず、雅は戸惑う。

「俺も妹と弟がいるけど、ハグとかチューとかしないぜ?」

 スキンシップの事かと雅は合点する。

「……あれは……小さいときの習慣が残っているだけで……お兄様にとっては、挨拶でしかないわ」

(解っている。私には気持ちのこもった行為だけれど、お兄様には挨拶以外の何物でもないってことくらい。私がいつも、一人でお兄様の行動に一喜一憂しているだけだわ――)

 怒りが急速に醒めていき、雅は小さく嘆息した。

「そうか? 俺には『雅は私のものだ』って、俺に牽制した様にしか見えなかったけど」

 加賀美は首をかしげる。

「……お兄様って今はお付き合いしている方、いらっしゃらないから」

「どういうこと?」

「お兄様、自分に恋人が出来ると、私なんか見向きもしなくなるのです……反対にフリーの時は私に構いまくるから、分かりやすくていいのですが――」

 高等部から大学迄、月哉は恋人が出来ると何日も帰らない日が続いた。月哉が社会人になってからは、雅が未然に防いでいたため、今のところは無いけれども――。

「恋愛体質ってやつ? だから雅、兄の恋路を邪魔しているのか」

「邪魔ではありません。お兄様に相応しいお相手かどうか、私が確認して差し上げているだけです」

 雅がそっぽを向くのを見て、加賀美が苦笑いした。

「じゃあさ、協力させてよ、雅の悪巧みに」

「……意味がわかりません。私にとっても貴方にとっても、なんのメリットも無いではありませんか」

 雅は協力してもらうことにより、明らかに物的証拠を先輩に押さえられる。加賀美にとってもそれ以外のメリットはなく、雅の犯す罪のリスクを負いかねないのだ。

「雅にとってのメリットは、俺のコネが使えることだ。俺は実際に事業を一部任されているから、その分実業界にコネがある。雅、秘書を使わず、全部自分でやっているだろ? いくら資産があっても、出来ることは限られてくる。それに雅のコネを使うと、後でバレる可能性が高い」

 加賀美はすらすらとお互いのメリットを列挙してみせたが、次の瞬間、見るものを蕩けさせるような微笑みに変わっていた。

「俺にとってのメリットは勿論、雅のそばに居る理由が出来るから」

「………」

(――結局また、からかわれているのか)

 雅は内心溜め息を付きながら加賀美を見ると、加賀美は珍しく真剣な顔をしていた。

「将来、雅には沢山の求婚者が現れるだろう。その時に見ず知らずの相手を選ぶより、どんな人間かを知っている俺の方が、選ばれる可能性が高くなるからね」

(――これは……どういう意味だろう――なぜ、先輩は私の未来の夫に選ばれたいなどと思うの?)

「……それって、つまり……先輩は私の事が好きなのですか?」

 雅は苦虫を噛み潰したように顔を歪める。眉間に皺が寄るのがどうしても止められない。

(私はこの人といると、変な顔ばかりをしている。そのうち、頑固老人のように深い皺が刻まれてしまうかもしれない――)

「最初っからそう言ってるでしょ?」

 困惑する雅を面白そうに見つめていた加賀美が、満面の笑みで答える。

(言っていません。貴方は私のことを好きだなんて、今まで一言も言っていません――)

 雅は盛大にため息をついて見せる。

「……私、先輩を利用するだけ利用して、見返りなんか与えないわ」

(だって、私は誰とも結婚なんてしないもの……大人になんてならないもの――)

「俺、結構自分に自信あるの、絶対雅に俺と一緒に生きていきたいと、思わせる自信がある」

 加賀美はいつものように自信たっぷりに宣言する。

(絶対なんてものが、この世に存在するのだろうか――。私に兄以外の人と見る未来など、あるのだろうか――)

 先輩は不思議な人だ、と雅は思う。 今さえ楽しければそれで良い風に装っているが、高等部に在籍しながら既に事業を手伝い、自分の婚姻のことも考えてしっかり前を見ているのか――。

 雅がまじまじと加賀美を見ていると、加賀美の顔が近づいて来る。

(……? 顔が近づいてって――)

「どさくさ紛れに何をしているのですか!」

 キスしようと近づいていた加賀美の整った顔を、雅は両の手のひらで容赦なく押し返す。

「えぇ〜良い雰囲気だったのに」

 加賀美は唇を尖らせる。

(どこか良い雰囲気? ちょっと気を抜くとこれだもの)

「卓司様、着きました」

 使用人が到着を告げると、雅ははしたないと思いながらも、自分でドアを明けて降りようとする。加賀美は逃げ出す雅のその手をとると、うやうやしく口付けた。

「さて、参りましょうか、俺の綿菓子ちゃん?」

 

 

 












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