大友氏館
*大分県大分市大友氏遺跡体験学習館所蔵 |
豊後・大友氏館が今日クローズアップされたのは平成8年度、区画整理事業に伴う大友氏館跡確認調査に始まりました。 さらに平成11年度からは、国道10号の拡幅及びJR高架化に伴う調査も行われたことで、都市の中心であるにもかかわらず、中世大友氏館と旧万寿寺などその城下町がその姿が明らかになってきています。 大友氏館は一辺約200メートルの四辺形で、典型的な守護館で京都にあった室町幕府将軍の邸宅をモデルにしたと推定されています。 延焼の痕跡があるものの廃止された時期ははっきりしないようです。 |
長らく上原館跡=大友氏の居館という位置づけが定着していましたが、平地の大友氏館が確認されたkとにより2つの大友氏館が存在することになりました。 城郭の流れからすれば、武家・大名の居館からの待避所:詰城を山城に求め、その山城に戦国末頃から武家・大名の居館機能が付随したというのが、ノーマルなパターンですが、 なお大友氏は籠城場所・詰城として高崎山城や竜王城など確保していました。 |
*大分県大分市・大友館関連マップ |
*大分県大分市上原館跡 | 上野丘陵の北部にあった館跡で、建築年代はっきりしません。 現在は一部の土塁や堀の跡が残ってますが、1597年(慶長2年)に 福原直高が府内城を築いた際に廃されたと考えられています。 |
大友氏
大友氏は初代の能直が、母方の生家の波多野経家の相模国大友荘(現在の神奈川県小田原市)を支配していたことから,
大友と称したことに始まります。
もともとは、古庄とも近藤の姓を名乗っていたようです。源頼朝の信認が非常に厚かった中原親能の猶子となったこともあり、源頼朝により平豊後・筑後守護職に抜擢されています。この抜擢を持って源頼朝の落胤説の根拠にもなっているようです。
第3代当主・大友頼康の代に豊後に下向したようですが、この大友頼康は元寇における戦いで武功を挙げ、さらには一族の豊後への定着を進めました。
元弘3年(1333年)に後醍醐天皇の討幕運動から元弘の乱が起こると、九州では第6代当主・大友貞宗などが少弐貞経らとともに鎮西探題の北条英時を滅ぼす功績を挙げたそうです。
南北朝時代には、他の守護大名同様、南北それぞれの系統にわかれました。第15代当主:大友親繁によって南北それぞれの系統が統一つされたものの、大内氏など周辺戦国大名との紛争や内紛がてませんでした。
第21代当主:大友義鎮(宗麟)の時に、九州の北部をほぼ手中にし、キリスト教や西洋文明の移入に努めたものの、竜造寺氏や島津氏との戦に破れ、天正14年(1586年)には本拠地:府内を島津軍に犯されることになりました。
そこで、豊臣秀吉に支援を要請して自ら臣従、九州征伐が開始されれ、島津氏は豊臣氏の前に敗れました。大友氏は豊臣政権下で豊後1国を安堵されました。
大友義統は朝鮮での文禄の役で鳳山城から退却したことを敵前逃亡と咎められ、文禄2年(1593年)に改易されてしまいました。 ただし、大友義統は秀吉死後の慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで、西軍総大将:毛利輝元に支援されて挙兵して豊後に侵攻したものの、石垣原の戦いで黒田孝高(如水)軍に敗れて降伏しました。
なお、近世では大友氏は徳川高家として生き残りました。





