12.5.16〜18 後篇
前夜すぐに寝たとは思えない。フェリー時代でも深夜の甲板が好きだった。起こされて、腹ごしらえはしとけと促され、食堂にゆくと私の分らしいおかずの膳だけが残っていた。
天気は回復している。水平線に薄っぺらく展ばした餅みたいなのが貼りついていて、あれが志発?けっこう驚いた。まったく地形への予備知識がなかった。というより想像しなかった。灯台らしいトンガリから推して遠くもないのに、砂州のように低くて起伏がない。
東北の震災から一年余り、なんぞ別次元である。きっと津波が百年単位で来ると知らされても、それは不確実であり、後悔の先読みなんてしない、自分の代にはないことにして住む。あったらあった、そんときは海の藻屑覚悟であればいい。海ゆかば水漬くかばね、まあ、天災を恐れたらどこにも、千代田区千代田1番地だって住めない。ただ、なんぼなんでも低すぎる。住みだしてから終戦まで津波被害ってなかったのだろうか。もっとも根室半島とて海抜100メートル越えの地点はない。その後志発の最高地点は25メートルと知った。
六時過ぎに第一陣としてえとぴりかUで島に向かった。団長はかなりはしゃいでいる。前日のことからひとしおだったのだろう。私の隣は内閣府の若くてなかなかの美男。波はなくても飛沫が位置的に私たちのところに降りかかる。「いい男に波はかかるー」と団長が言っても、それは彼を指し、私の脳はまだ目覚めきってなくうまい返しができない。
十分ほどでカフェノツ(カモメの群れる岬の意)の浜に到着。三、四人でトイレ作りが始まり、イトコも手伝っている。手を貸すにもかえって邪魔のようで、その作業の写真を撮る(三枚ほどあったのに失われ、イトコに申し訳ない)。このあたりでようやく体も気持ちも日の光に順応してきた。気分がたちあがってきた。私は起きて一時間はボーッとしてるので、東京時代から早起き型の長兄に怒られたものだ。しかしこの兄貴はすぐに昼寝居眠りをする。私はいったん起きたら眠気は来ない。個人にとって世界は自分中心に回ってても、自分に合わないのを避難するのも困ったものだ。このごろ分かった。ご機嫌に叶うように合わせるまでもないと。おっと、つい内輪の余計な文になった。
二陣を待たず、墓参の場に向かった。小高くなっていて、三、四百メートル歩く。このあたりに学校や郵便局、駐在所、神社があった。もちろん跡形もない。旧ソ連の古びた灯台が唯一の建造物になる。前回次兄がのぼって怒られたとか。団長の文によれば、元々東前では寺の納骨堂だけで墓地はなく、島を離れるときにお骨を埋めた寺のところを、いつかの訪問のときに石を運んで築いたとなっている。墓という形がないと手を合わせられないのも確かだ。ただ私の場合は先祖が眠っているわけではない。
少し離れて個人では唯一、T家の墓標が斜めになっているのを兄貴たちが直しだした。T兄弟は二陣で到着してない。なぜT家だけ別個にあるのかは問わない。私は口出ししなかった。風雪のなか傾いた墓は子孫の目にそのまま見させるべきか、先に触っていいものか判断つきかねた。
見渡しても森どころか灌木の一本もない。つまり根室半島沿いに点在する無人島を広げたようなところだ。広い面積がありながら不思議でならない。古代にはつながっていた根室半島は、明治時代の人口増で薪材にされたのと、山火事での消失前は密な森林地帯だった。ソ連軍が入ってきたとき、母を含め娘たちは裏に逃げろと言われたそうだが、裏山なんてない。隠れるところがないではないか。これはまあ私の聞き違いか勘違いから作り上げたものかも知れない。軍隊は武装解除され、北千島でのような戦闘はむろん略奪凌辱があったわけでもない。母の家はまだ季節の住人だった。冬吹きっさらしの島に常住してた家族は厳しかったろう。それでも人は仕事を求め渡ってきて住みつき、環境に慣れて当たり前にしてしまう。
北方領土への移住は明治には始まっている。でも四島を一括りにはできない。これは国後と択捉、また色丹のことだろう。千島火山帯の国後と択捉には1500m級の山があるし、低いけれど色丹にもある。一攫千金の資源の匂いが立ち上っている。群島は小さく、木一本もないところに我先に住みたがる者はいない。風除けがない。木がなければ家も造られぬし、薪もないし、ドングリが拾えないではないか(またふざけた)。おおまかに、東北や北陸で家を継げない次男三男、仕事にあぶれた者たちが大半だったと推定はできる。四島の昆布生産の八割を占めたという群島への移住は大正末期から昭和初期に盛んになる。祖父母もその頃に初めて来た。やがて出稼ぎの人も定住するようになる。だが祖父は島に定住しなかった。冬は厳しいし、やはり離島は便が悪かったからだろう。冬に漁ができないなら、越中で過ごした方がいいに決まっている。だが沖根婦を足場にして移り住んだ時期があった。陸の孤島であれ離島とは違う。結婚した母もいる。末の叔父は私と同じ小中学に通った。その上の叔父は中学のとき転校して来た。今書きながら、自分は何も知らず、知る気もなく生きてきたものだと思う。
灯台のところで墓参の形が整った頃に二陣が来て揃い、慰霊祭の形で拝んでから、地域別に三班に分かれ、それぞれの居住地跡に向かう。私たちは西に向け草むらを歩きだした。無人島なのだから道路はなく、前日までの雨水を含んでいて歩きにくい。一人が仕切るように進行方策を説く。兄貴は「知った風なこと言って」とボヤく。紺青の彼女がいるのに気づいてはいた。初めてではないようで、たえず先頭で軽やかに速足してゆく。私は母と叔父に合わせてつき従うだけだ。
やがて、海岸に下りられるところがあり、ウエンベツ=植別行きは砂浜を歩くことにした。時化だったせいか打ち上げられた昆布が多い。浜も硬くて歩きやすいところと歩きにくいところがある。これは一回きりだからあれこれ考えてもしょうない。高い草地を進む人たちも目指した家の跡がひとまずゴールになる。しかし地図を見なかったが、モトモシリの先のウエンベツは最も遠いようなのだ。兄によれば前回か前々回のときは、つけた船がウエンベツでラッキーだったとか。今回の上陸地点が、要の施設があったところで墓参の場にも近いからベストではある。北側のトッカリイソ方面はえとぴりかUで運んでもらったらしく(川があり当然橋はない)、ウエンベツ行きが一番歩かされる。イトコと私だけが不案内で、高齢の母と叔父のことを団長は気にかけていたようだ。それもありウエンベツ組には看護婦が付いた。漠然と若い女がくっついてるという程度で、ちょっと考えれば分かりそうなものだが、看護婦なのを最後まで知らなかった。
途中大きな犬が威風堂々と草地から見下ろしていたので慌てて撮った。ライオンの雰囲気があった。警備隊の飼い犬とは後で聞いた。このボケ写真は復元できなかった。
連盟の若いのが付かず離れずで追っていた。引率と監視役であり、船と連絡を取り合う。二キロ圏内でも移動は両脚しかなくきつかっただろう。キンサクの家の隣だった姉弟がいて、これは互いに支えになる。二人とも北見に住み、母とは魚や野菜を送り合ったりしている。ただ前回になるのか、この弟と兄貴が船内でケンカ騒ぎを起こしたらしい。つまり上陸艇を救った表彰状はあれ、灯台にのぼったり、兄貴は要注意人物になっている。先手を打って団長が何か役を与えたらしいが名ばかりのものだ。もっとも、私はというと東京で破産して、しかも頭がおかしくなって戻ったオチコボレに過ぎない。母にすまない。兄弟にもすまない。
長い間、母の家族は夏の間だけ島で暮らしたように思っていた。しかし昆布が片づかないと、つまり乾燥させたあと、規格に切り揃えたのを砂を落とし等級別に選葉して、段昆布(30s?)としてまとめたのを、検査でハンコをもらって納まるまでは帰れない。長引いて十二月までいた年もあるとこのごろ知った。遅れた年に小さかった母は泣いたそうだ。母の島の話は自分を見初めた軍人さんのことくらいで、思い出は越中の話ばかりだった。それはそうだろう。親戚のおじさんおばさん、イトコたち、幼馴染みがいる楽しい本拠地なのだから。そこは下新川郡入善町の新浜と呼ばれるところで、背後に立山連邦がそびえ、黒部川が流れ、田園地帯でありながら海に面している。母が電話で話しだすと急に越中弁になるのがおかしかった。結婚が決まったとき、叔母の<豆腐屋のカッチャ>がどうしてそんな遠いところに行くんだと頬ずりを繰り返したという。
私は高校を卒業した年、夏から秋にかけ根室から連絡船以外はヒッチハイクでその新浜まで行き、その<豆腐屋のカッチャ>にも会った。一度会えてよかった。そして今書きながら、涙が出てきてしまう。人は、人との関わりの意味が分かりかけた頃には、相手はいなくなってしまっている。日本海を眺めてると夕飯に呼びに来た祖父とも、御馳走してくれた末の叔父とも、最後になってしまった。
何度か待たされた叔父の合図で海岸から上がると沼が広がっていた。途中までは崖と呼べそうな、右手の浜から一段高くなったところが低くなりだすと見え隠れしてはいた。夏には叔父がよく泳いでいたと聞いたことがある。向こう端の海まではかなりある。その沖合いに本船えとぴりかが碇泊している。
ソ連軍の監視から脱島するとき、家近くの海からでなく、祖父は近所のKさん家族と一緒の舟で沼を進み、北の河口から沖根婦を目指した。Kさんが親しくしてる家を頼ったのである。私が生を受けるに到るかの瀬戸際になるが、まあこれは何代も前からのつながりであって、いや地球に生命誕生から始まっている。このとき祖母は末の叔父がお腹にいた。これはこのページを書くために母に聞いて知った。夏場の防空壕で薄着した母親の体型にあれ?と気づいたそうな。長男は遙か仏印、次男も召集された頃に、祖父母もよう励んだと言うべきか。祖母は四十二歳だったというからとりたてて高齢だったわけでもない。
他の脱島の記録を見ると焼玉エンジンの船になっていて、母の記憶では帆をかけていた。夜中に出て九月二十九日だったと覚えているのは、あさって十月一日から祭と聞いたそうだ。終戦一月半後の祭ってどんなだったろう。
四島約一万七千の住人の半分はこうして島を脱出した。命を落とした者もいると聞く。逃げられず残った者は悲惨で、強制労働もさせられ、財産を奪われ二年後には追い出された。樺太の収容所を経て函館に着くことになる。そのなかの記録で哀れなのは収容所の便所の話である。仕切り板がないので女たちは夜に行く。暗いうえ、子供たちには跨る穴が大きい。それで足を踏み外す。しかし三メートルの深さから上がってはこれないし、引き上げることもできなかったという。
十一月に入った頃、祖父は家財道具や隠してきた食料を取りに島に戻った。祖父はうまく立ち回り、家族を守ったと言える。戻ったのは監視が甘かったのか、無謀だったかは分からない。無事引き返してきたのだが、ノサップの浜に舟を着けようとしたところで(転覆したか)荷物をばらまいてしまった。沖根婦にしなかったことからも時化だったと思われる。この地では初雪のある頃で海水も冷たい。拾っていると近所の人たちが集まってきた。それが手伝ってくれるにあらず持ち去ってゆくのだった。火事場ならぬ遭難泥棒である。といってこのノサップの人たちを恨めない。そういう状況になってしまっただけだ。かつて<越中強盗、加賀乞食、越前詐欺>という言葉があって、いざってときは強盗をしてでも生きるというたくましい県民性の譬えなのだが、このとき祖父が越中弁で怒鳴ったところで甲斐なかったろう。私がそこに居合わせても「おいおい、昆布拾いじゃないぞ」位にしか言えない。
祖父は毎日のように根室駅に出かけたという。しかし戦後の混乱から切符が手に入らず、沖根婦で越年することになった。
家の跡は七、八十メートル先の沼を見下ろすところにあった。しかし跡といってもそれらしいものはなく、いつか目印にした錨が埋まり、叔父が間取りを説明しだした。ちょっとつまったのも肯ける。私の経験でも、数年であっても建物の跡地というものは狭いもので難しい。ここからの通学距離は地図ほどではなくても2キロちょっとあったようだ。近所だった姉弟も来て休んだ。
兄貴が向こうのシラリウス崎まで行ってみると、イトコを連れていった。しかし今回許可された区域外で、いいところまで行ったが、連盟の若いのに諭されたものか引き返したと後で知った。
沼に下りた。対岸に火葬場があったとは後で地図で知った。さざなみもない。何か浮遊してるものがあってクラゲのようだ。二キロ先の河口からこの行き止まりまで流れてきたらしい。魚が来るのを見込んで祖父はここに居を構えたのだろうか。ただウエンベツは悪い川という意味になる。それは沼の西側の上流を指すと思われるが、悪いというのは、鮭がのぼらないから名づいたらしい。汽水域が広すぎて鮭は嫌うのだろうか。
海に戻る途中、土手で足をひねってヒヤリとした。問題なかった。実は半月前に釧路を歩いてて、腰の両脇の窪みになった骨が痛くなって泣かされた。これは東京でもあった。摺り足がいけない。痛くなってしまうと一晩寝ないと治らない。
海岸で小石を拾った。しばらくして背後から呼んでいる。帰船が早まったという。私は呑気な性格である。夕方まで時間があると思っていた(スケジュール表を確認すると一時間早くなっただけだ)。海のせいらしいが、海を前に暮らす者としては荒れてるとも見えない。昨日といい、えとぴりかUは頼りない。30人まで乗れない小型艇ではある。しかし夜中の海を脱島した小舟とは性能も装備も比較にならない。時代と状況が違うし、安全が優先され、初就航となれば無難に乗り切りたいのも分かる。波止場がない。ながらベタ凪なんてそうそうない。並みの海に対応できないのか。昼過ぎに帰船に取りかかれはいただけない。元島民は島にいる時間を求めて来たのに、こんなやり方は北海道弁ならハンカクサイだ。島民本意より国や連盟、船の安全策で動いている。訓練を積んでも、初実戦で無理できないのも分かる。もちろん上陸が叶わず眺めるだけのケースを考えると、一歩でも踏みしめたい思いは募るだろう。えとぴりかUが横転でもしたら大問題になる。だから声を大にしては言えない。あまり批判すると次回申し込んで落選するかも知れない(かえってそれはできなくなる読みはある)。交流事業があるから数年置きにでも尋ねられるのは有難いけれども、元島民は皆、生きているうちに自由に島と行き来できるなんて諦めている。六十年以上待たされて信じる者がいるだろうか。
24年度報告書によれば自由訪問は七度あった。志発分には七人の方の文がある。その中に写真が添えられていて、私が写ってるのが三枚あった。二枚は墓参。もう一枚は海岸を歩いてるところ。ウエンベツに向かった方の文に添えられていた。
また、ある方の文によれば、前回までは野生の馬が迎えてくれたそうで、それがまったくいなくなっていて、ロシア人に食われたのか否かとあった。T家の墓が傾いでるのを見て、馬が痒いところを掻いたと誰か言ったが、今はあり得ない。
帰り、灯台近くなってある女性に言われた。
「どうしてお母さんの荷物持ってあげないの?」意外だった。
「いいって言うから」実際、最後に来て母がへばったと口にした。だがそれは荷物によるのではない。起きたときからあまり調子よくなかったとは後で聞いた。それを口にする母ではない。私は軽いバッグだから肩にしょった方がいいと思っていた。自分自身、体だけだと重心が定まらないようで、かえって荷物が背骨を支える感じがしたからだ。
「無理にでも奪いとらなきゃ駄目よ」そうだったか、反省した。
えとぴりかUに乗るため、浜の救命胴衣のところにゆき、どれにするかためらったら、差し出す者がいた。紺青の彼女だ。礼は言ってもそれ以上進まない。漁師の子でありながら、ロクに泳げないくせに救命胴衣の着け方もおぼつかない。生まれて初めて朝に着けたのは簡単だったのに、型が違って親切な方の指南を受けた。
それにしても、天気のいい昼過ぎというのに…。ビーチバレーにでも興じたいほどだ。タイトルだけでは三日間の滞在のようでも、島の上にいたのは六時間弱に過ぎない(私の感覚では四時間)。
一時には本船に戻った。上陸だけが目的ならこのまま根室に向かってもいい。しかし夜には解団式がある。もう一泊するのだから(タクシー呼んでも来ない)早い気もするが、親睦会である。それももっともだ。遠いところでは関東や富山、道内もあちこちから、同郷志発つながりが沖合いで飲んで騒ぐ一晩があってもいい。昨夜は上陸前だから浮かれてられなかった。次回がいつになるか、参加できるかも分からない。映画『ゴッドファーザー』はシチリア島移民の話だった。残念にも?シボツ・マフィアの話を聞かない。
なんとなく三階デッキに出ると、艫に人影がある。まさかと閃いた。行ってみたらT兄弟とイトコがいる。やっぱり。ちょうどカジカをあげたところだ。そのへんは釣りページに写真も載せている。おそらくすぐアップしたわけでないはずだが、朝方のできごとになっている。それが改めて写真データをみると16時過ぎだ。んー???奇々怪々。確かに当日は六時には上陸に備えてるので、その前に釣りをしてる可能性は低い。そもそも私はギリギリで起きて朝飯を食っている。早起きして歩いた疲れから一眠りでもした寝ぼけの勘違いにするのが妥当である。そこで分からなくなるのは、イソメの話をしたのは前の晩でなかったのかになる。してたのならすぐにばれるような抜け駆けをするだろうか。竿と餌を持ってきてるとも聞かなかった。朝早いなら「誘いたかったけど起こすのが悪くて」と言訳はできる。釣りページもヒントをくれない。人間、緻密なつもりでヌケたことをやらかしているものだ。十一月初め<タイエー>(セイコーマート傘下らしい)でたまたま会ったイトコに確認すると、釣りは午後にはなった。
以前の訪島ではみんなで釣りをやったという話は聞いていた。だから私も迷ったのだが、十年で時代も変わる。確実に元島民の体力ひいては活力も低下する。連盟に問い合わせる気になれなかった。動植物の持ち込み持ち出しは禁止されている。ロシアが居座っているだけで根室半島から続く島々に免疫の問題など起こり得ようがない。ましてや海を行き来する魚だ。釣った魚を持ち帰ろうとする人もいやしない。しかしそこいらが億劫になって頭から消した。目的(明確にはなくても)が違うからだ。もし用意していったとしても、島ではそんな時間はとれなかった。装備の悪かった上陸艇の頃の方が遊ぶ時間があったのか?T弟が持ち込みの申告に竿と餌のサンマを記載したのか、島にも携えたのかは聞いてはいない。島での釣りと沖合いのとでは重みが違う気はする。
前夜からしょっちゅう喫煙室に行った。四階は操舵室も船員室もあり、さわやかな印象の機関長と顔見知りになった。また一等航海士からは頼まれごともされた。ものまね芸人の清水アキラ似で人なつこかった。詳しくは書けないが二人の間に問題が起きていた。それでも機関長が一等航海士を捜しに来て、ちゃん付けで呼んで手伝いを求めたりした。ドラマ的に想像するなら、初就航時の不和を経て認め合ってゆくというストーリー。月並みかな。その後一等航海士から連絡がなかったのは和解したものと思っている。二人が今年も変わらず乗り組んでいたかは知らない。
もうあとは解団式だけになっていた。喫煙室で落石のMさんという方から夕日を背景にした写真を頼まれた。前日この場で明治時代の根室県の話が交わされてたので、私は小学の社会科副読本で習った<いも判官湯地定基>(県令。妹が乃木将軍の妻)で割り込んで知り合った。根室にはこの定基町、清隆町(黒田)、松本町(十郎)と開拓使の名前が残っている。
後日談になるが、けっこう写真の修整に苦労した。ご存じのように性能の悪い携帯付属カメラである。逆光の黒い顔をどうしたらよくできるか。顔は明るくてできても、カンジンの夕日が薄れて味気なくなる。加工技術がなかった(いまもたいして進歩なし)。ヨッシャとコサックダンスの出来映えにならない。あれこれやって、他の風景と、根室帰港後に彼がインタビューを受けてるのやら送った。しかし、ウンもスンもなかった。
ちょうど一年たち、Mさんは双沖にホッキ貝を持ってきてくれた。しかし私は双沖から引っ越してるし、母が入院してたときで、次兄が相手した。叔母が落石から来たのをさばいてくれたとは聞いた。しかしそれが私に届けられたものなのをしばらく知らなかった。このへん次兄もおかしい。おかげで十日以上たってからお礼の電話をする破目になった。そしてバケツいっぱいあったホッキの一つさえ私はありつけなかった。
解団式。団長らの挨拶とかあったか覚えがない。ある人のマジックショーがあまり受けてないのが気の毒だった。私のテーブルはウエンベツ組とT兄弟である。といっても母と叔父はその世代の席にいる。前回ケンカしたという二人、兄貴は十歳上相手を呼び捨てにして、互いに機嫌よく飲んでいる。
気づくと紺青の彼女が一列置いたテーブルにいた。何度か目が合った。まだまだ時間はある。兄貴のいないのを見計らいT兄が来て、副団長から聞いてきた兄貴の問題児ぶりを伝えた。その通り、自分に都合のいい世界観しか持たず、それを理屈っぽく振り回す。なのだが、他人から言われる兄弟への悪口は楽しいものではない。小便をしにロビーを通りかかると、その告げ口副団長が一人でいた。ニャロメと横目に睨んだけれど離れてるのは何故だろう。個人の心中は分からない。今日の上陸の思いに浸ってるのか、打ち上げで酔うより、今回の訪問を点検しているのかも知れない。いったん部屋に行き、それから戻った。すると紺青の姿がなくなっていた。私のドラマはドラマに入れぬまま終わるようにできている。
夜中のデッキに立った。来月には浜も動き出すけれど、自分にはなんら展望がない。東京で暮らしたポンコツがいまさら船乗りにもなれない。自分は最悪のシナリオにはまった浦島もどきだ。死ねずに戻ってきて、どうしたらプライドを捨てられるだろう。
喫煙室にゆくとパジャマの機関長がくつろいだ顔でいた。東北の出身で震災の話もした。
目覚めると船はもう根室海峡を進んでいた。デッキに出ると母が現われたので写真を撮り合った。
まもなく根室の港が見え、付き合っただけの二日間がもったいなく思えてきた。