基本図書の翻訳はこれでよいのか
E・H・カーの『危機の二十年』の場合
山田侑平
E.H.Carr Misrepresented
The Japanese Version of The Twenty Years’Crisis
=E・H・カーの『危機の二十年』の場合=
はじめに
来年度から国際関係論なる科目を担当することになったので、E・H・カーの『危機の二十年』を教科書に選んだ。国際ニュースの現場にいるころ読んで教えられるところが多かったこともあるが、なによりも、国際関係論と名のつく本のほとんどがこれを必読参考書として挙げており、多くの大学のゼミで教科書に使っていることを知ったからである。教科書ないし必読書として指定されているのは、岩波文庫として出ている翻訳である。文学作品ならともかく、この種の硬派の本であれば、翻訳でも本質的な論旨は変わらないと思って、廉価で手軽に入手できる文庫を採用することにした。
ところが試しにページを繰ってみて驚いた。日本語として引っかかる表現や意味の取れない文章が続出し、原文と照合すると、原著とは反対のこと、あるいは原著にないことを伝えている個所が少なくなかったからである。これでは教科書には使えない。専門家がこぞってこの訳書を推薦するのは、中身を承知した上でのことだろうか。
しかもこれは、最も権威ある良心的な出版社の一つとされる岩波書店の出版物である。戦後間もない日本に新しい思想をもたらした、かの岩波現代叢書の一つとして出版されたものが、「新しく訳し直」されて1996年に岩波文庫となったのだという。2001年6月までに10刷を重ねており、専門的分野の書物としてはベストセラーに属する。
原著がこれほど有名で、高く評価されている基本的な書物が、別の言葉になっているとはいえ、このような形で流布してよいのだろうか。これは学術的な書物の日本語訳としてはまったくの例外なのだろうか、それとも同様の事態は他の分野にもみられるのだろうか。この訳書をみて、そんな素朴な疑問を抱かざるをえなくなった。
▽ウィルソンはリアリスト?
この訳書の第1章を開いて仰天するのは、全体のテーマを決めるかのように引用されているウィルソン大統領の言葉である。国際連盟の生みの親であるウィルソンは「平和会議に出席する途中、彼の立てた国際連盟案の成否について側近からたずねられたとき、『もし、このプランが実現されないようなら、実現されるように案を立て直さねばならない』とのみこたえたのであった」(p31)という。目的だけが念頭にあって、それを達成する手段の分析的批判を有害として退けるユートピア的姿勢の象徴として引き合いに出されたのが、この言葉である。だがこの翻訳では、ウィルソンはりっぱな現実主義者であり、カーと同じ立場にあるとしか思えない。
原文は驚くなかれ、というよりも当然ながら、“If it won’t work, it must be made to work.”(もしうまくいかなければ、うまくいかせなければならない)という単純なものである。鳴かぬなら鳴かせろというのである。現実に合わせて案を立て直すなどとウィルソンがいうはずがない。カーの批判するユートピアニズムの代表的存在がウィルソンである。本書について若干でも知識をもつ読者は、唖然とするに違いない。近頃評判の悪い学校英語で、使役動詞makeの受動態の作り方を習った中学生は、原文をみてなんというだろうか。
本書の立役者、ウィルソンは他の箇所でも筋の通らない発言をしている。彼は「国際的な争点の解決が『自国の利害にとりわけ敏感な外交官や政治家たちによってすすめられるのではなくて……学究……によって』おこなわれるなら、平和は確保されるだろう」(p48)という。いくらウィルソンでも、外交官や政治家が自国の利害に敏感であることを非難するわけがない。原文はeager to serve his own interests(自分自身の利益を図ろうとする)である。
ニュージャージー州知事選挙で政治ボスに対抗して「人民」に訴えたウィルソンについての説明にいう。彼は「ボスたちが阻んだとしても人民に訴えることだけはすべきであった」(p73)と。実際は “If the bosses held back, he had only to appeal to the people…... ” (ボスたちが引き下がれば、あとは人民に訴えるだけでよかった)のである。続いて彼の演説の長い引用がある。その冒頭は次のように訳される。
この大戦の特異性はつぎの点にある。一方で政治家は彼らの目的を明確にしようとしてあれこれ工夫をしているようで、時には彼らの立場や観点をかえるかにみえるときもあるが、他方、政治家に教えられ導かれるべき大衆の考えは、しだいにくもりが払われてゆき、政治家たちが得ようとして戦いつつあるものが何であるかをしだいに確実につかみつつあるということである。(p74)
It is the peculiarity of this great war that, while statesmen have seemed to cast about for definitions of their purpose and have sometimes seemed to shift their ground and their point of view, the thought of the mass of men, whom statesmen are supposed to instruct and lead, has grown more and more unclouded, more and more certain of what it is they are fighting for.
問題は「政治家たちが得ようとして戦いつつあるもの」である、原文のwhat they are fighting forをそのまま「彼ら」としておけば、すなおに意味がとれるのに、読者に分かりやすくという親切心から「彼ら」を「政治家」に置き換えたがために、「今度の戦争は政治家の戦争ではなく、人民の戦争である」というウィルソンの趣旨が消えてしまった。「政治家が彼らの目的を明確に」できないでいるのに、大衆が「政治家たちが得ようとして」いるものがなにかを「確実につかみつつある」とはどういうことだろうか。「自己の利害」を「自国の利害」としたのと同様な「読者への配慮」の行き過ぎである。直接引用の場合は文章を改変しないのが鉄則のはずである。最初に引いたウィルソンの談話にせよ、この演説にせよ、こうした最小限の約束を無視すると、大変なことになる。
(試訳)この大戦争の特色はといえば、政治家が自分たちの目的の定義を探し求めている様子で、時にはその立場や見解を変えるかと思われることもあったのに対して、政治家が教え導くものだとされている大衆の考えのほうは、自分たちがなんのために戦っているかについて、ますますはっきりし、ますます確かなものになってきた、という点である。
▽セシル卿の不可解な演説
ウィルソンよりももっとわけの分からないことをいわされているのは、第2章に出てくるセシル卿である。彼の下院での発言は次のように訳される。
プロシア人がドイツ国内だけに閉じこめられることはないという平和会議の結論に、私なりの経験から到達したと思っている。官僚層の全般的な傾向と伝統というものもあるが……。かれらの間では何事であれそれは正しいかと考える傾向があるという結論も、諸氏は回避をされないはずである。(p49)
この文章の意味を解する人がどれだけいるだろうか。平和会議がそんな結論を出したのか、何事であれ、それは正しいか、と考えることが異常なことだろうか。編集者や校正者の目を通って、なおかつこのような文章が残るのは不可解というほかない。原文は演説だから平明である。
I am afraid I came to the conclusion at the Peace Conference, from my own experience, that the Prussians were not exclusively confined to Germany. There is also the whole tendency and tradition of the official classes…. You cannot avoid the conclusion that there is a tendency among them to think that whatever is is right.
(試訳)残念ながら、平和会議では、私自身の経験から、プロシャ人(のような考え方の人間)はドイツだけにいるとはかぎらない、という結論に達しました。官僚階級そのものの傾向や伝統もありますが……。彼らの間に、存在するものはなんでも正しいと考える傾向がある、という結論は避けられないでしょう。
引用文に不自然な訳が目立つのは、カーの意図を理解していないからである。それは前後を読めば分かることだ。理論を嫌う官僚との関連で引かれたフランスの将軍のモットーが「まず行うことだ、そうすれば見えてくる」(p46)となっている。実存主義のアンガージュマンの説明をしているようだが、実はOn s’engage, puis on voit. 理屈をいわずに戦え、ということだろう。「そうすれば見えてくる」では、みるのが目的になってしまう。一般民衆の士気が初めて軍事目標になったこととの関連で、英国の参謀総長は「長距離砲は砲撃目標の各地域に持続して不安をあたえるように、絶え間なく砲弾を見舞いさえすれば、この砲の最大限の士気上の効果をあげることになろう」(p248)と書いているという。ここでいうlong-distance bombing は、長距離爆撃機(当時の)による空爆でなければ意味をなさない。原文にif visits are constantly repeated とあるし、The War in the Air なる書物からの引用との注さえついているのである。引用をいい加減に訳すと、引用された人物まで間が抜けてみえてしまう。
「有名なアメリカの一公法学者は、イギリスと合衆国とが、『戦略上重要な金属』を、『独裁的な<持たざる>諸国家がそこでしか購入できない市場から大量に運び出す』目的で、これらを共同購入したことを批評した。」(p230)とあれば、この「公法学者」の常識を疑いたくなる。だがこの政治評論家(たしかに辞書には公法学者という訳語もある)は、独裁国家が戦略的に重要な金属を買わなければならない市場に、これらの重要な金属が出回るのを防ぐ目的で、米英が共同で買い占めを行うよう呼びかけたのである。「批評した」は「批判」ではないにしても、勧めていないことは確かである。原文は A well-known American publicist urged the joint buying by Great Britain and the United States of “metals of strategic importance”with the object of “removing these important metals from the markets in which the dictatorial and ‘have-not’ Powers must buy them.”である。
「コミンテルンの有能な歴史家」のボルケナウも気の毒な形で引用される。訳書第3章第6節の冒頭にいう。
このような破局にあっては、明確な説明はおよそ求むべくもない。共産主義インターナショナルのすぐれた一史家はつぎのように言っている。その組織の歴史において、「あらゆる失敗―客観的失敗でなく、リアリティがユートピアを伴い得なかったこと―は、すべて裏切りのためである」と。(p82)
In such disasters the obvious explanation is never far to seek. The able historian of the Communist International has noted that, in the history of that institution, “every failure― not objective failure, but the failure of the reality to comply with the utopia ―supposes a traitor”.
(試訳)このような災禍の下では、明確な説明は手近に簡単にみつかる。コミンテルンの有能な歴史家は次のように指摘する。コミンテルンの歴史においては、「あらゆる失敗―客観的な失敗ではなく、現実がユートピアに呼応しないという失敗―に裏切者の存在が想定される」と。
▽不自然な日本語
訳書全体を点検する必要があると思ったのは、15ページ足らずの第1章の訳文を読み、日本語があまりに不自然で、原文をみなければ意味がとれなかったり、原文をみると正反対の意味だったりしたからである。国際関係と一般国民の関わりを述べた書きだしに、「世論とのかかわりでも、イギリスでそれが外交方面にむかって起こるのは」、「労働運動の形をとって……戦争否定の理論めいた論議を生む程度」(p20)、「むしろ、活気のある展開がみられる外交の実際面が確実な情報価値をもっていた」、「それらの条約(秘密条約)について、訝る人はまれであったのであり、まして抗議ができるなどと考える人はいなかった」(p21)などとある。これらの記述から具体的な事態を想像するのはかなり困難だろう。
カーが述べているのは極めて単純なことで、「世論がすぐに刺激された」 (the public opinion was readily aroused)(原文には「外交方面にむかって」に該当する語はない)、「労働運動がときどき非現実的な戦争反対決議を行った」(the labour movement, which from time to time passed somewhat academic resolutions against war)、「外交の華やかな側面のほうがある程度のニュース価値をもっていた」 (The more picturesque aspects of diplomacy had a certain news value.)、「それになんらかの興味をもったり、それをけしからんことだと思ったりする人は、ほとんどいなかった」 (Few people felt any curiosity about them or thought them objectionable.)。英語の初歩を習った人であれば、訳文よりも原文のほうがよほど平易だと思うに違いない。どれも全部辞書に説明がある。訳者はなぜ辞書を使わなかったのだろうか。
▽慣用句の無視
学校英語で暗記した熟語は訳語とともにいつまでも覚えているものだが、それを彷彿とさせるような訳文もある。「彼の政治的ユートピアのみが大きくなって政治的現実がそれについてゆかず背丈が合わないのでは、彼の願望は最低限の成功もおぼつかない」(p33) は、このままでは意味不明だが、「背丈が合わない」からgrow out of ~を思い出すと、疑問は氷解する。No political utopia will achieve even the most limited success unless it grows out of political reality. という原文がみえてくるからだ。「政治的ユートピアは、それが政治的現実から生まれたものでなければ、極めて限られた成功さえ達成できない」ということである。grow out of ~には「~から生まれる」の意味もある。「全く平板な、にべもない否定」(p28)という奇妙な表現も、flat negationを忠実に訳したかったのかもしれない。だが一方で「リアリズムは事実の認識(原文はthe acceptance of facts すなわち事実の「容認」)とその原因結果の分析とに力点をおく」(p34)と、本質にかかわる部分では、原文の単語にはあまりこだわりをみせない。
「リアリストは、力の後を追ってゆくなら道義的権威はおのずから後につづくのが見られると確信する」 (p190) からは、おなじみの熟語look after ~ (面倒をみる) が浮かび上がる。リアリストの考えは「力さえつけておけば、道義的権威の問題はおのずと決着がつく」( if you look after the power, the moral authority will look after itself )ということである。「平和はゆきわたらねばならない、なによりもまず生まれなければならない」 (p126) というブリアンの言葉も、 come before ~(優先する)という単純な熟語を辞書で調べさえすれば、創造的な訳語を作らなくてもよかっただろう。原文は “Peace must prevail, must come before all.” と単純明快。十九世紀の帝国主義について米国の歴史家は「国際関係の基本的問題は、だれがこれらの犠牲者たちを壊滅させるかということであった」(p103) と説明しているという。滅ぼした犠牲者を壊滅させても帝国主義の利益にはならない。cut up the victims は切り分けて「分割する」ことだろう。利益調和の理論が深く浸透していることの説明のなかに突然出てくる「だがこの理論自体が、むしろむごい死にかたをしたのであった」(p104) も、 die hard (なかなか死なない)を想起しなくても、文脈でおかしいと分かるはずである。原文はもちろんThe doctrine itself died harder. である。訳者の自信に満ちた翻訳には驚くほかない。
▽歴史の常識を覆す
だが読みにくい日本語や英語の熟語の誤訳は、まだ罪が軽い。問題は歴史的な事実や常識として受け入れられている前提を、平気で読み違えていることである。アダム・スミスの政治経済学の登場について次のような記述がある。
一八世紀にはいると、西欧では貿易がきわめて重要となり、それにつれて多くの制約がわずらわしいほど政府の権威のもとに課せられ、それが重商主義の理論によって正当化された。(p28)
In the eighteenth century, trade in Western Europe had become so important as to render irksome the innumerable restrictions placed on it by governmental authority and justified by mercantilist theory.
訳者は重商主義が18世紀に出現したと思っているらしいが、たとえその間の知識がなくても、原文をたどりさえすれば、「18世紀になって西欧では貿易が重要になり、政府当局によって課せられ、重商主義理論によって正当化されてきた無数の規制が、わずらわしいものになった」ことが分かる。
同様な例は随所にみられる。「もっと決定的な要因となったのは、なおまだヴィクトリア朝の全盛期で心になごむベンサム的信条へのヴィクトリア朝流の信頼が最高潮にあったときに、合衆国から受けた影響であった」(p65) という記述は、欧州が20世紀に入って米国から受けた影響のことをいっているのである。すぐ前の「欧州では、ベンサムの考え方を無条件で受け入れる政治思想家はいなくなった」との説明に続く。原文 (But a more decisive factor was the influence of the United States, still in the heyday of Victorian prosperity and of Victorian belief in the comfortable Benthamite creed.) を確認しなくても、ヴィクトリア朝的な繁栄を謳っていたのが米国だったことは想像がつくにしても、こうはっきり書かれると困ってしまう。もっともVictorian prosperity を「ヴィクトリア朝」 とすれば、英国のことにならざるをえないかもしれない。
ベンサムが「善なるもの」を常識的に捕らえることを可能にしたとして、カーは次のように述べる。
Not only was the good ascertainable ― as the eighteenth century had held ― by a rational process,but this process ― added the nineteenth century ―was not a matter of abstruse philosophical speculation,but of simple common sense.(善なるものは―18世紀が考えたように―合理的思考の過程で確かめられるだけでなく、その過程も―19世紀がつけ加えたところでは―難解な哲学的思弁の問題ではなく、単純な常識の問題になったのである。)
この部分は「善であるもの (the good) は―一八世紀の人びとが主張したように―理性によってのみ見出されるのではなく、それは―一九世紀の人びとがつけ加えたことなのだが―難解な哲学的思索の問題としてよりも、むしろ単純な常識の問題としてとらえられるものであった」(p60) と訳される。おそらく訳者は大した違いはないというだろうが、哲学者が100年かかって考えたことを、こうも簡単にすりかえることが許されるだろうか。
米国のタフト大統領は、国際紛争の強制仲裁を盛り込んだ条約を締結しようと考えたとき、「合衆国のような民主国家では判決を強制すればかならず特殊のむつかしい問題が起こるということに気づかず、この面に関して彼が『まったく無関心』であることを自ら明言した」(p72) という。こんな無責任な大統領がいるだろうか。タフトとしては、米国のような民主国家では、裁定を執行したからといって、とくに厄介な事態が起こるのをみたことがなかったので、問題のこの側面については「ほとんど心配していない」といったのである。原文はHe had never observed that in a democracy like the United States the enforcement of awards gave rise to any particular difficulty; and he professed himself “very little concerned” about this aspect of the matter.
▽なにが問題かに無頓着
比較的分かりやすく論旨が展開されてきたのに、突然それを覆す内容の文章が出てきて驚かされることもしばしばである。19世紀にナショナリズムが好意的にみられていたのは、認知された民族がまだ少なかったためだだった、という説明のあとに、「ドイツ人、チェコ人、ポーランド人、ウクライナ人、マジャール人、さらに六以上の民族集団が、二、三百マイル四方の土地で押し合っているという状態がまだみられた時代には、各民族がそれぞれのナショナリズムを展開して、国際的な利益の調和に、それぞれ特定の寄与をすることができるということが、比較的に信じられがちであった」(p99) とある。「押し合っている」のが調和の状態だという文脈である。実は「これらの民族集団がまだ目立つほどにはせめぎ合っていなかった時代」 (not yet visibly jostling one another) のことだった。
「この困惑がさらに増大したのは、アングロ=サクソンの世界のスローガンを繰り返し唱えることでこの世界を表面上容易に安堵させることができると他の諸国に思わせたことであった」(p108) は、「他の諸国がアングロ=サクソンのスローガンを繰り返すことによってアングロ=サクソン世界にこびへつらおうとする、これみよがしの態度をとったことから、混乱は増大した」(The confusion was increased by the ostentatious readiness of other countries to flatter the Anglo-Saxon world by repeating its slogans.) といえば、分かりやすくなる。
「諸国家のなかには戦わなくてもすむように現状を維持したいとねがうものがあり、現状は変えたいがそのために戦争するのは困るとする国家もあるのが事実である」(p109)も「ある国は戦わずして現状を維持したいと思い、またある国は戦わずして現状を変更したいと思う」(some nations desire to maintain the status quo without having to fight for it, and others to change the status quo without having to fight in order to do so) のほうが原文の趣旨に近いだろう。少なくとも前半は目指すものが違っている。そのすぐあとに、チェコスロバキア首相の発言として「このダニューブ地域一帯においては、真実、だれも対立や嫉妬を欲してはいない。諸国家がそれぞれの独立を維持しようと欲しているが、しかしそれができないならいかなる協同手段にも応ずる用意がある」(p109) とある。「独立を維持できないならいかなる協同手段にも応ずる」のであれば、ドナウ地域の紛争などないはずだ。「各国は自国の独立を維持したいと思っている。だがそれ以外の点に関しては、いかなる協力措置にも応ずる用意がある」(The various countries want to maintain their independence, but otherwise they are ready for any co-operative measures.) といいたいのである。訳者は自分が現に訳している部分がなにを問題にしているか、一切頓着しない様子である。
「イギリスの自由党政府は、一九一四年の春に失脚するところまで追い込まれたが、それは、この政府が、動員された軍事力によって支えられていない(むしろ、それとは正反対の)道義的権威にもとづいたアイルランド政策を遂行しようとしたからであった」(p189) も気になる。 アスキス政府は1916年まで政権を担当している。「失脚するところまで追い込まれた」のは「失脚した」のではないのかもしれないが、それならそこを明確にして欲しい、と読者は思う。もっと困るのは、頻繁に出てくる effective military powerをすべて「動員された軍事力」としていることである。カーは経済力も含めて動員されない軍事力も「有効な軍事力」になるといっている。「英国の自由党政府は1914年春、あやうく失脚するところだった。有効な軍事力の支えのない道義的権威に基づくアイルランド政策を遂行しようとしたからである。」 ( The Liberal Government of Great Britain nearly came to grief in the spring of 1914 because it sought to pursue an Irish policy based on moral authority unsupported by effective military power. )
「一九三五年の秋、国際連盟がイギリスの指導のもとに、イタリアに対する『軍事的制裁』に乗り出していたとしても、アビシニアからイタリア軍隊を駆逐するほどまで戦線をせばめることはできなかったであろう」(p214) は、「国際連盟が1935年秋、英国の指導の下にイタリアに『軍事制裁』を行っていたら、この戦役をアビシニアからのイタリア軍部隊の排除に限定することは不可能だっただろう」( Had the League of Nations in the autumn of 1935, under the leadership of Great Britain, embarked on “military sanctions” against Italy, it would have been impossible to restrict the campaign to the expulsion of Italian troops from Abyssinia. ) でないとおかしい。訳者は軍事制裁が戦線を狭め、戦線を狭めると、イタリア軍隊を駆逐できる、と思っているらしい。そうなれば英国がイタリアの北アフリカ植民地を占領することになり云々、と続くのだから、誤解の余地はないはずだが、最初の仮定を「~していたとしても」ととったので全部が狂ったのだろう。
日本と関係のあるリットン調査団についても初歩的な間違いをしている。
特別総会は、満州における現状の実質的な変更を調査したリットン委員会の勧告を是認した。日本の軍事行動が、これらの勧告が行われるもとをなす実力であったが、しかしこの勧告が日本を満足させるに足りないことを立証した実力でもあったことは、言い加える必要がほとんどない。」(p402)
The Special Assembly …… endorsed the recommendations of the Lytton Commission for substantial modifications of the status quo in Manchuria. It need be hardly added the Japanese military action was the force which prompted these recommendations, which proved, however, insufficient to satisfy Japan.
(試訳)特別総会は満州の現状の実質的な変更を求めたリットン委員会の勧告を支持した。日本の軍事行動がこうした勧告を出さしめた力であったことはほとんど附言を要しない。しかしながら、これも日本を満足させるには不十分だったのである。
常識に挑戦するこの種の訳文を拾い出したら、紙幅がいくらあっても足りないが、最後に、これはあんまりだという例をひとつだけ指摘しておく。カーはアダム・スミスの理論について「その調和は、もし当事者たちが、それを意識していないなら、決して現実のものにはならない」(p95)と説明する。中学の社会科で習う「みえざる手」のことである。もちろん、原文は「その調和は、関係者がそれを意識していなくても、現実であることに変わりはない」 (The harmony is none the less real if those concerned are unconscious of it. ) である。これに続いて引用されるアダム・スミスの有名な言葉との関係を、訳者はどう考えたのだろうか。
▽ifに躓く
ついでにいえば、訳者はこの手のifが苦手らしい。
「このために―他の理由がないとするなら―国際法においては、……国内法におけるよりも、力の要素が優位し際立つのである」(p327) は「この理由のために―ほかに理由がないとしても―国際法では国内法よりも力の要素が支配的で目立つのである」( and for this reason, if for no other, the power element is more predominant and more obvious in international than municipal law, ...... ) であり、「政治と道義との二領域を区分する理論が人をひきつけるのは実は皮相的なことで、関心を引くとしても、それは、この理論が実力の行使を道義的に正当化する道を見出すという解決できない問題を回避しているからにほかならない」(p193) は、「政治と道義の領分を分離する理論は、一見魅力的である。力の行使を正当化する道義的根拠を探すという解決不可能な問題をこれによって回避できるから、という理由だけだとしても……」( The theory of the divorce between the spheres of politics and morality is superficially attractive, if only because it evades the insoluble problem of finding a moral justification for the use of force. ) ということだろう。ifには「もし~ならば」と「たとえ~でも」の両方の意味があることを、カーを翻訳するほどの人に指摘しなければならないのだろうか。
「『力は正義なりMight is right.』というよく知られている言葉は、もし『力』という語をきわめて限定した意味で用いるなら、わけなく誤って解されてしまう」(p135) という不可解な訳文も、原文はThe popular paraphrase “Might is Right” is misleading only if we attach too restricted a meaning to the word “Might”.と明快である。「俗にいう『力は正義なり』が誤解を与えるのは、『力』という語をあまりにも限定的な意味にとった場合だけである」ということで、カーは「勝てば官軍」だといいたいのである。
第八章第二節「経済的力」の書き出しは、「経済的な強さは、つねに政治権力の助けになる力であるが、それは軍事手段と結びつくことではじめて役立つのである」(p215) となっている。経済力は軍事と結びつかなくても政治権力の大きな手段である、というのがこの節全体の内容である。「経済力は、たとえ軍事的手段との関連のためだけであったとしても、つねに政治権力の手段となってきた」( Economic strength has always been an instrument of political power, if only through its association with the military instrument.) の言外の意は、「軍事的手段との関連がなくても」ということにある。この訳書をゼミの教科書として使ったとしたら、この冒頭の論断と、あとから出てくる「経済的な力は実際には政治的な力である」という説明とを、どう関連づけたらよいだろうか。
▽学生の疑問に答えられるか
学生に質問されたら答えようのない記述は随所にある。第十一章第二節「強迫下に署名された条約」は文庫版訳文で1ページ半足らずである。このような条約についてカーは「ヴェルサイユ条約に反対して最もしばしば表明された道義的異論は、実際においては、その内容の厳しさよりも、むしろ、それが強迫下に署名されたことにもとづいていたと思われる」(p342) と述べたとされる。ところが原文は The moral objections most frequently expressed against the Versailles Treaty seem, in fact, to have been based not so much on its signature under duress as on the severity of its contents, and on the fact ……(ヴェルサイユ条約について最も頻繁に表明される道義的反対論は、実際には、それが強迫下に署名されたことよりも、むしろその内容の厳しさと、……という事実とに基づいていたように思われる)とまったく逆である。訳書では、「道義的異論」の根拠は「内容の厳しさ」ではなく、「強迫下に署名されたこと」と、そのあとの「……という事実」にあったことになる。受験生ならだれでも暗記しているnot so much ~ as に躓いたわけだ。その前を「戦争に終止符を打つ条約はいずれも、強迫下に敗者がほとんど避けようがなく受諾させられるものだからである。……強迫下に締結された条約も反道義的として無条件に非難されるはずはない」と訳しているにもかかわらず。
[同じ構文は第八章にも出てくる。The substitution of the economic weapon for the military weapon is a symptom not so much of superior morality as of superior strength. (軍事的武器の代わりに経済的武器を使うのは、道義の優位というよりも、むしろ力の優位を示す徴候である。)訳文は「軍事的武器に代えるに経済的武器をもってすることは、優越者の強さを示すものであっても、優越者の道義を示すことではない」(p237) としているので、文の流れはつかんでいる。惜しむらくは、書き出しの格調の高さにもかかわらず、superior を名詞だと思い違いして、龍頭蛇尾の文章になってしまった。]
その直前の文章はさらに不可解である。ドイツがヴェルサイユ条約は道義的効力をもたない一方的命令 (diktat ) だとの宣伝を行い、こうした見方がロカルノ条約締結後に広がったため、「イギリスおよびフランスの政治家たちは、ヴェルサイユにおいて強迫下に受諾された義務のうちのあるものを、ドイツが自発的に容認したことであるとして、その道義的意義を強調することでは、履行政策をとったシュトレーゼマン独外相と思慮の浅さでよい勝負であった」(p342)というのである。 British and French statesmen rashly vied with Stresemann in emphasising the moral significance of the voluntary acceptance by Germany of some of the obligations accepted under duress at Versailles. 英国とフランスの政治家たちは、大急ぎでシュトレーゼマンと張り合って、ドイツがヴェルサイユで強迫下に受け入れた義務の一部を自発的に受け入れたことの道義的意義を強調した、ということだろう。もっとも「履行政策をとった」がどこからきたのかは不明である。
▽言葉のニュアンスを無視
国際関係では言葉のニュアンスが問題になり、国際会議では決議案の単語一つをめぐって徹夜でもめることもあるが、訳書にはそのような配慮はまったくみられない。国際連盟の経済制裁と軍事制裁に関して英国で行われた1934年の平和投票についてボールドウィン卿はいう。「私が引き出すことになった多数の結論の一つは、発動される制裁で、それが戦争を意味しない制裁であるなどというものはあり得ない、ということである」(p222)と。「制裁を発動すれば、必ず戦争になる」と解釈してよいのだろうか。彼の結論はThere is no such thing as a sanction which will work, which does not mean war. 「効果のある制裁で、戦争を意味しないような制裁などない」ということである。「心理戦争が、経済戦争および軍事戦争に伴って必ず起きる」(p247)という断定は唐突だが、心理戦争を伴わなければ、経済戦争や軍事戦争の効果が上がらない(psychological war must accompany economic war and military war) という意味だと分かれば、納得がいく。
国際的な道徳律に関連していう。「他の人間に不必要な死や苦しみをさせない義務である。つまり一般的な義務からはずれたことを正当化すべく、よかれあしかれその国家がかかげる何かより高い目的を達成するために、理由のない死に方をさせたり苦痛を与えない義務である」(p284) と。真面目な学生であれば、この記述に疑問をもつだろう。その疑問に答えるには原文をみなければならない。そうすれば、「他の人間に不必要な死や苦痛をもたらさない、すなわち、その当否はともかく、一般義務からの逸脱を正当化すると称する、なんらかのより高い目的がある場合でも、その達成のために必ずしも必要ではないような死や苦痛をもたらさない、という義務」(the obligation not to inflict unnecessary death or suffering on other human beings, i.e. death or suffering not necessary for the attainment of some higher purpose which is held, rightly or wrongly, to justify a derogation from the general obligation.) であることが判明する。「高い目的を達成するために、理由のない死に方をさせる」とは、どのような事態なのだろうか。
立命館大学のあるゼミではこの訳書を12回に分けて輪読し、報告者が要旨を説明したあとディスカッションをしているという。早稲田大学には、岩波文庫の第一章を教材にして、なぜ国際政治を学ぶか考えるゼミがある。この訳文でカーのいわんとするところを理解できるだろうか。カーのいうことはおかしいという学生はいないのだろうか。中島嶺雄は三年生の「国際関係論演習」の前半でカーの『危機の二十年』を輪読して討議している(中公新書『国際関係論』1992年初版)という。外語の学生でも一人ぐらいは訳書を参照するのではないだろうか。ほかにも明治学院、一橋、青山学院、慶応義塾など、インターネットでアクセスすると、岩波文庫をテキストにしている大学はいくらでもある。だがこの訳書が改版されることなく、版を重ねているところをみると、学生からは疑問が出ていないのかもしれない。ゼミではどのような指導が行われているのか。学生にどのような報告を期待したらよいのか。
▽引用に耐えない
たとえば花井等編『名著に学ぶ国際関係論』(有斐閣、1999年)も当然、『危機の二十年』を取り上げている。そして結論にあたる第十四章第二節の冒頭が引用される。
新しい国際秩序における力の役割を考えるために、その力を構成する単位について、まず検討しなければならない。国際政治が現在行われている一般の形態は、国民国家を実際の単位として展開される事実に示される。将来の国際秩序の形態は、この国家という団体的単位の将来性と密接にかかわっている。(p410)
Before considering the role of power in any new international order, we must first ask what will be the unit of power. The current form of international politics is due to the fact that the effective units are nation-states. The form of the future international order is closely bound up with the future of the group unit.
カーはもっと綿密に論理を展開している。新しい国際秩序における力の役割を考える前に、「力を構成する単位について検討する」のではなく、「なにが力の単位になるのか」を知らなければならないというのである。カーが述べているのは「国民国家を実際の単位として展開される事実に示される」という単純な現状ではなく、「国際政治の現行形態は、その有効な諸単位が国民国家であるという事実に由来する」という因果関係である。だからこそ「将来の国際秩序の形態は集団単位の将来と密接に関わってくる」のである。欧州連合 (EU) などとの関連で、カーが国家統合の問題をどう考えていたかについて興味がわくが、この訳書がそれに対応できるだろうか。カーが国家の擬人化は当面続くとみていたとして、次の文章を引用する場合はどうだろうか。
In any case, it is clear that human society will have to undergo a material change before it discovers some other equally convenient fiction to replace the personification of the political unit. (いずれにせよ、人類の社会が政治単位の擬人化に代わるような、同程度に好都合な他の擬制をみつけるには、その前に本質的な変革を経なければならないことは明らかである。)
「いずれにせよ、明らかなことは、人間社会が実質的な変革に遭遇することではじめて、国際関係の政治的単位を人格化することに代わる何か他の等しく使いよい擬制を見つけ出すことになるのであろう」(p280) という訳文は間違いではないだろうが、他の擬制をみつけ出すのを待っているような感じを受ける。世界共同体についてカーはどう考えただろうか。
On the other hand, it would be a dangerous illusion to suppose that this hypothetical world community possesses the unity and coherence of communities of more limited size up to and including the state. (一方、この仮定の世界共同体が、国家を含めた国家以下の限定的な共同体のような統一と結合をもっていると考えるのは、危険な幻想だろう。)
これは「他面、このように措定された世界共同体が、国家を含めて、より規模の小さい諸共同体をまとめて統合していると考えることは危険な幻想ということになろう」(p296) と訳される。世界共同体と国家との統合度の比較はどこかへ消えてしまった。訳者はカーの論理の展開をわざわざ妨害しているのではないか、とさえ疑いたくなる。
▽些細な部分こそ重要
細かいことであっても、見逃せない部分がたくさんある。細かいことというのは、たとえば、経済制裁としての禁輸措置 (embargo) について、「ソヴィエトからの輸入品を押収する」(p237, p240)や「ギリシャからの輸入品をイタリアが押収してみても、それはとるに足らぬもの」(p237)と説明し、労使協調 (industrial peace) を「産業上の平和」(p411) と片付け、労働党の元閣僚 (Labour ex-Minister) を「元労働大臣」(p165) としていることではない。「われわれは世界第一等の民族である」(we are the first race in the world) というセシル・ローズの言葉が「われわれは世界における最初の人類である」(p149) となっていることでもない。それよりも問題なのは、日本語として通ずるのでそのまま読んでしまうが、論理的にはカーの趣旨を離れてしまう箇所が非常に多いことである。毛を吹いて傷を探すかの印象を与えるかもしれないが、原著者にとってはこのほうが大きな迷惑ではないだろうか。
一例を示せば、「世界の世論という重さをもつものとされることになろう」(p76) は、「世界の世論に大きな影響を与える」( carry great weight with the public opinion of the world ) のであって、それが世界の世論になるわけではないし、「政治生活において決定的な要因となる姿勢をとることのできる大衆」(p45) は、「その姿勢が政治生活で決定的要因となる大衆」(the masses whose attitude is the determining factor in political life) である。カーは大衆が自らそのような姿勢をとることができるとはいっていない。「知識人や理論家は『左』の方へひかれ、官僚や実務家は『右』へひきつけられる」(p50) は、「理論の人である知識人」と「実践の人である官僚」を対比させている(The intellectual,the man of theory,will gravitate towards the Left just as naturally the bureaucrat,the man of practice,will gravitate towards the Right.) のであって、知識人と理論家の二種類の人びとを問題にしているのではない。
「倫理は政治とのかかわりで意味が明らかにされるものであり」(p53) は、「倫理は政治の観点から解釈しなければならない」( ethics must be interpreted in terms of politics)とすべきだろうし、「諸君を立ちおくれさせているのが、利益に対する考慮であってはならないのである」(p151) は「利益を考慮して立ち遅れるようなことがあってはならない」(no consideration of interest should keep you behind) としないと意味がとりにくい。「中世の教会が最初の全体主義国家であったことは、近時の一史家の所見において重視されている点である」(p243) とあれば、前半がカーの断定のように受け取られる。原文はThere is much point in the remark of a recent historian that the mediaeval church was the first totalitarian state. である。「ソヴィエト政府は、別の条約を締結したり締結する提案をして、条約を順守する国であることを示し他国が順守することを期待する国であることを明示したのであった」(p286) というのは、「自国も遵守し、他国にも遵守を期待するという明確な意図」で条約を結んだ(It simultaneously concluded, and offered to conclude, other treaties with the manifest intention of observing them and expecting others to observe them.) と読むほうが素直だろう。
「自国よりも強力な諸国家とできるかぎり多くの条約を結んでいた国で、その結果として立場を強化してきた国家は、ドイツ、イタリアおよび日本である」(p346) とあれば、日本などが立場を強化したのは、多くの条約のおかげだったということになる。こんな重要なことをさりげなくいわれるとびっくりするが、カーは因果関係を述べているわけではなさそうだ。原文はThe countries which had concluded the largest number of treaties with states stronger than themselves, and subsequently strengthened their position, were Germany, Italy and Japan. である。アイルランドの自治要求を説明して、「変革に対する要求は、イギリスの軍事力が他の方面に転換されたことからイギリスの力が後退を余儀なくされるまでは、効果をあげるにはいたらなかった」(p396) とあるが、カーは「英国の軍事力が他に向けられたので、力を背景にして変革の要求を突きつけることが可能になった」こと(The demand for change did not become effective until, owing to the diversion of British military strength elsewhere, force could be placed behind it.) を重視し、力の要素がその要求を効果的にしたといっているのである。
英国やドイツの「政治的意見の大多数が長年合致していたのは、正しいこと不正なことの基準を、ヴェルサイユ条約の中に照合することで適切に判断できるということであった」(p397)という。だが実際には、一致していたのは「正義、不正義の基準をヴェルサイユ条約にうまく当てはめることができるということ」( a criterion of justice and injustice could properly be applied to the Versailles treaty)であって、「基準を判断すること」ではなかった。「これらの諸国はヴェルサイユ条約の不公正な点を前に是認したことをしだいに忘れるようになり」(p397) も、「ヴェルサイユ条約の不当さを以前に認めていたこと」を忘れるようになった(became more and more inclined to forget earlier admissions of the injustices of Versailles Treaty) のである。「是認」は同じ岩波書店の『広辞苑』にも「よしと認めること」との説明がある。The devil is in the details.とはこのことかもしれない。
▽自由すぎるパラフレーズ
そして最後に、最も重要な問題を指摘すれば、訳者が原文のいい回しから、あまりにも自由に離れすぎていることである。これは読者に不親切であり、原著者に失礼である。ウィルソンの発言を間違えた原因も元を質せばここにある。この傾向は訳書全体にみられるので、第一章にかぎって若干の例を挙げる。
「その研究の進展とともに、多数の人びとに等しく持たれるものとなるなら、願望は実現されることになる」(p24) はthis desire ...may be extended, as the result of his investigation, to a sufficient number of other human beings to make it effective. (この願望は、彼の研究の結果、他の多数の人びとにも広がって、有効なものになるかもしれない)であり、「実現されることになる」といいきっていない。「もし目的が思考に先行して、思考の道筋をきめることになるなら、人間の心が新しい分野で働きはじめる場合に願望とか目標がつよく前面に出て、そこでの事実や手続きを分析しようとするゆき方を抑えこみ、この方向に伸びる芽さえ摘みとる形で事がはこばれることになろう」(p26) の原文は if therefore purpose precedes and conditions thought, it is not surprising to find that, when human mind begins to exercise itself in some fresh field, an initial stage occurs in which the element of wish or purpose is overwhelmingly strong, and the inclination to analyse facts and means weak or non-existent.であって、「この方向に伸びる芽さえ摘みとる形で事がはこばれることになろう」とはどこにも書いてない。「願望や目的の要素が圧倒的に強く、事実や手段を分析する傾向が弱かったり、皆無だったりする初期段階がみられる」といっているだけである。
「そこでの孔子にせよプラトンにせよ、それぞれの時と処での政治の在り方に強く深く動かされるところがあったのは事実である。(中略)かれらは、それぞれに政治の弊害について慨嘆をしているけれども、その根本原因を解明しようとはしなかった」(p28) は訳文だけ読むと問題はない。だが But neither Confucius nor Plato, though they were of course profoundly influenced by the political institutions under which they lived, really tried to analyse the nature of those institutions or to seek the underlying causes of the evils which they deplored.という原文であれば、なぜ「彼らはこれらの(政治)制度の性質を分析したり、あるいは彼らが慨嘆する諸悪の潜在的な原因を追究したりしようとしなかった」としないのだろうか。「現に活動している諸勢力の抵抗しがたい強さとか実際の諸動向の必然性」(p34) はthe irresistible strength of existing forces and the inevitable character of existing tendencies の訳であるが、カーが「現在の諸勢力」と「現在の諸動向」と並べているのを無視する必要があるだろうか。「未成年の思考は、どうしても目的にむかって走りがちとなり、いきおい際立ってユートピア的となる」(p35) はImmature thought is predominantly purposive and utopian.の翻訳である。「未熟な思想は優れて合目的的かつユートピア的である」では日本の読者には分からないというのだろうか。
▽翻訳は不可能か
ワルター・ベンヤミンによると、ある書物を外国語に翻訳する場合のtranslatability は、原著そのものが他言語への翻訳を許すかどうか、読者のなかに適切な翻訳者がいるかどうか、の二つの要素によって決まるという。もちろん、ベンヤミンの念頭にあるのは、ボードレールのような文学作品である。その意味では、カーの著作は最も翻訳しやすい部類に属する。そもそも国際関係は、他の言語に移し換えても変わらない実質内容の存在を前提としているからである。堀口大学でも鈴木信太郎でも、同じものを伝えられるはずだということである。読者のなかに訳者をみつけるという点でも、この分野の外国語との関わりの深さを考えると、それこそnever far to seekである。しかも出版社は岩波書店である。翻訳書を出すのに、これ以上の条件があるだろうか。表紙に葵の紋ならぬ種播く人のマークのある訳書を手にすれば、だれしも、これぞカーの『危機の二十年』だと思うだろう。
商品の場合は、表示と中身が違うと大きな問題になり、品物を交換したり、回収したりしなければならない。書籍は商品ではないのだろうか。確かに、落丁、乱丁は取り替えるとある。だがそれでは、包装には責任を負うが、内容には関知しないという意味になりかねない。岩波文庫版の発刊以来、大学のゼミで難解な訳文と奮闘してきた学生たちの努力は報われただろうか。一般読者が第一章の難解さに辟易して、先へ進むことを諦めたとしたら、カーは日本で正当に理解されずに終わってしまうのではないか。「その編集に万全の用意をなしたるか。千古の典籍の翻訳企図に敬虔の態度を欠かざりしか」と、自らに問うことも忘れないで欲しい、と思う読書子もいるはずである。
[追記]
文庫版は現代叢書版の訳者が訳し直したという文庫版「訳者あとがき」を額面通り受け取って、旧訳は不問に付して以上のメモを書いた。だがやはり気がかりだったので、1952年初版、1977年第24刷の現代叢書版をのぞいてみた。そしてまたもや驚いた。「慣用句の無視」として取り上げた「背丈があわない」や「まったく平板な」は文庫版で初めて登場しているのである。旧訳は「それが政治的現実から生れ出ないかぎり、最低限度の成功すらおぼつかない」としている。さらに「不自然な日本語」として指摘した「世論とのかかわり……」、「確実な情報価値」、「訝る人はまれであったのであり、まして抗議ができるなどと考える人」も、旧訳は「世論が簡単によびおこされる」、「たしかにニュース・ヴァリュをもっていた」、「関心をもつこともなく、異議を唱えてもだめだ」(後半は誤訳だが)となっていた。そしてセシル卿の発言の後半部分は「存在するものはいかなることであれ、正しいのだと考える傾向」と間違いなく訳している。「政治的単位の人格化に代わる擬制」についても、旧訳は「人間社会が実質的な変革に遭遇するまでは……見つけ出すことはできない」とある。「改訳」の意図はますます分からなくなる。
こうした状況証拠からすれば、文庫版は、国際関係にも英語にもあまり縁がなく、日本語に鈍感な人が、旧訳に手を入れて、誤訳を引き継ぐばかりか、それを一段と増幅させ、旧訳になかった誤訳を追加し、さらに悪いことには、文章の品位を下げただけである、という結論に達せざるをえない。では、本作りを指揮する編集者はどこにいたのだろうか。編集者が英語や国際関係を知らなくても、日本語に愛着のある人であれば、文庫版の間違いの大半は事前に防ぐことができたはずである。
現代叢書版は文庫版に比べると、まだましだった。わざわざ手間ひまをかけて質の悪いものを世に出したことになるが、これも「近代日本文学の鑑賞が若い読者にとって少しでも容易となるよう」にとの配慮で機械的に行われている旧字・旧仮名追放の延長線上にあるような気がしてならない。
蛮勇を振るって、岩波の出版物として半世紀を経た翻訳に自分なりの読み方をぶっつけてみたが、意外な誤りを犯しているのではないかと心配である。人の誤訳をみつけるには、訳者の半分の語学力で十分だというので、敢えて行った試みなので、未熟な読み間違いを指摘して戴ければ幸甚である。