
空気が重い。
別に、二酸化炭素の濃度が上がっているとか言うわけではない。雰囲気が悪いということだ。
「おはよう」
合宿三日目。朝食の席に向かう俺たち二人は、階段までの長い廊下をゆっくり歩いていた。
「……おはよ」
返って来る答えにも元気がない。昨日からこの調子だ。俺が何かしたのか。
「ユカ……」
「……なに」
ユカは怒っているわけでは無さそうだった。しかし、俯いていて俺の方を正視してくれない。
もともと俺たちの会話は、快活なユカの性格があって初めて成り立つ。ユカがこの調子では、会話が成立しないのは仕方がない。
ちなみに今日の朝は、ユカに蹴り起こされることはなかった。なぜなら、朝起きた時にユカはベッドから落ちていたからだ。それだけ俺から離れて端に寝ていたということだが、何か理由があるのだろうか。
「元気なさそうだな」
「べつに……そんなことないよ」
そんなことないと言われても、俺にはそういう風に見える。だが、ユカがそういうのなら、俺が何を言っても口を割ることはないだろう。俺は諦めて、顔を前に戻した。
一階に下りると、キッチンから水が流れる音や金属がぶつかり合う音が聞こえた。焼ける音が聞こえないあたり、朝食の準備も佳境らしい。今日ユカは休みとなっていた。
「今日は早いじゃない」
キッチンからエプロン姿のマリが出てきた。マリは俺を見、次いでユカを見た。
今日はポニーテールだが、料理していたようだから今日の髪型かは分からない。利き手である左手に三角巾を握っていることからしても、朝食はもう出来上がっているようだ。
「昨日は色々あったからな」
「ふうん? まあいいけど」
それだけ言って、マリはあくびをしながらキッチンへ戻っていった。ユカの元気がなさそうなのは気付いているはずだが、眠いからか追求はしてこなかった。
朝食の席でも、ユカは元気がなかった。朝食は当然のように美味だったが、それといった感想も漏らさず、そんなことは上の空といった具合に黙り込んでいた。
朝食後はそれぞれ思い思いに散っていったが、俺はダイニングに残ってマリと話していた。話題は当然、今日のユカの様子のことだ。当人のユカは、部屋に戻ると言って今ここにはいない。
「どう思う」
「そうねぇ。節操のない恋人に嫌気が差したんじゃないの?」
マリの髪型はツインテールだった。中の上、といったところか、機嫌は結構良いらしい。
「言っている意味がわからない」
「浮気すんなってことでしょ? ここ女の子多いし」
確かに、俺の周りにはユカを除き八人の女性が居るわけだが……俺が浮気した覚えは全くない。
「ま、ユカは独占欲強いからねぇ。ソウはさながらユカのおもちゃなワケよ」
「そうなのか?」
「違うわよ。冗談でしょ冗談。分かりなさいよ幼馴染なら」
「お前の俺に対するブラックジョークはジョークに聞こえないからな。……まあ、独占欲が強いのは認めるが」
こいつが俺を貶すような言い方をするのはいつものことだ。刺々しいったらないが、慣れてきたせいか最近は苦に感じなくなってきた。マゾヒズムに目覚めたわけではないハズだが。
「ユカは良く言えば純真無垢なのよね。悪く言えばガキっぽい」
「まあ……否定はしないけどな」
俺は深く溜め息を吐いた。ガキっぽい、か。確かにユカはそうだ。無邪気で言動もやわらかいし、何より放っておけないような、ふわふわしたオーラを纏っている。
まあ、そのうち直るでしょ、とマリは話を切り、ダイニングを去っていった。
それから間もなく、来訪者はやってきた。
俺がマリに倣ってダイニングを出て行こうとすると、インターホンの呼び出し音のような音が鳴った。ような、というよりはそのものだが、この別荘にそんなものがあったか?
どうやらそれはあったらしく、現時点でこの別荘の責任者であるヒナが、玄関に小走りで向かうのが見えた。ヒナが両開きの片方を開けると、そこには一人の女性が立っていた。
薄い茶色の、ウェーブがかかったロングヘアに、透き通るような碧眼。顔立ちは欧米白人のそれであり、間違いなく日本の生まれではない。
俺はこの人を知っている。名前は広瀬恵。間違いなく、ユカの母親だった。
「あら。ソウくんじゃない。久しぶりね」
恵さんは、俺に気付くなり挨拶をしてきた。この人は相変わらず日本語の発音が完璧すぎる。流暢さはアル以上と言えるし、彼女自身の名前も日本人そのものだ。
これは、彼女の日本好きな性格が由来しているという。恐らく日本語の勉強と練習は相当しているらしいし、この名前は日本に移住してから改名している。元の名前は「マーガレット」といい、今の「メグミ」は旧名の愛称「メグ」からとったものだとか。
「お久しぶりです」
俺も挨拶を返した。恵さんは次いで怪訝な顔をしているヒナに挨拶と自己紹介をし、ヒナが納得したのを見てから最後に要件を言った。
「ユカを呼んでくれる?」
「かしこまりました」
ヒナは玄関のすぐ側にあった電話を取った。携帯に電話でもするのかと思ったが、プッシュが異常に少なかったようだから、恐らく内線にかけたのだろう。まあ、家の中で携帯電話というもの変な話ではあるけどな。
ヒナは電話で二言三言交わした後電話を切り、恵さんに「少々お待ちください」と伝えて、「後はあなたにまかせましたわ」とでも言いたげに俺に目をやってから階段に消えていった。
「どうかしたんですか?」
沈黙は失礼だと思ったし、俺自身気になっていることだった。
「定期健診よ。丁度この合宿と重なっちゃってね」
「なるほど」
まあ、そこそこ長い合宿ではあるし、重なるのも致し方ないのかもな。それにしても……
「最近、ユカの健診の頻度が高くなってませんか?」
「鋭いわね。まあ、ちょっと気になることがあるらしくてね。病院側に」
「病気ですか?」
「そうらしいわ。詳しくは言えないけど」
詳しくは言えない。
病院が詳しくは言えない「みたい」、ではなく、恵さん自身が言えないということか。もっと言えば、俺には伝えられないこと、か? 深く追求する気はないが、気になるな。
「お待たせー」
俺が階段に振り向くと、ユカが下りてくるところだった。ユカは俺に気付くと咄嗟に目を伏せ、そそくさと俺を通り過ぎてしまった。
「それじゃ、俺はこれで」
「あ、うん。今日中には返すから」
恵さんはそう言って、ユカと一緒に扉をくぐり、閉めた。ユカの機嫌はまだ直ってないらしい。
――と。
「ん?」
扉が閉まるのを見計らったように、俺の携帯が鳴った。ポケットから取り出してみると、相手はあの人らしかった。何の用かとも思ったが、本人に聞くのが手っ取り早いだろうから、俺は通話ボタンを押した。
「はい」
『ソウくんさ。今から私の部屋に来てくれる?』
俺は伝わらないと分かっていても訝しげな顔をしてしまった。
「なぜ?」
『ユカちゃんがさっき出かけるみたいだったから、事情が知りたいのよ』
「電話でもいいんじゃ……」
『じゃ、そういうことだから。早く来てね』
切られた。……さて、どうするべきか。
部屋に来いというなら行くべきだろうが、相手があの人ではそれも揺らぐ。そもそも、ユカが居なくなったこのタイミングでわざわざ部屋に誘うというのは、明らかに別の目的があるからのことだろう。
だからこその放置プレイだったのだが、五分後に「早く来なさい」と二度目のコールがあったからには、仕方なくでも行くしかないだろう。俺はそれなりに律儀な正確ではある。
部屋の扉を軽くノックすると、「入ってー」と返事があったので、扉を開いて中に入った。そこにいたのは、ベッドの上でタオルケットを被って仰向けになっている蒼井優奈先輩だった。
「来てくれたのねぇ。嬉しいわあ」
喋り方を突っ込む前に、あんたが呼んだんだろと突っ込みたくもなったが、まずは確認することがある。
「それで、何の用でしたっけ?」
「おいで」
こっちに、と言いたいのだろう。俺は指示通りベッドに近付いた。
「ソウくん。大事な話があるの。こっちにきて」
といって、どうしてベッドを半分開けるのだろう。ここに寝ろと、そういうことなのか?
「それは、ユカがいると出来ない話ですか」
「いないほうがいいのは確かね。ソウくんも、詮索されるのは嫌でしょう」
「それは、まあ……」
確かに、何かあって言われるのは俺の方だ。だが、そう言うということは、ユカが聞けば怒り出す何かをするということか。
まあ、この部屋に足を踏み入れた瞬間、俺に逃げると言う選択肢は無くなっている。仕方がない。俺は、空けられたベッドの半分に腰掛けた。
「こっちを向いて」
彼女は体を起こして俺に言った。朝見たままのワンピース姿の先輩は、枕を前に抱きながら俺を見ている。俺は言われたとおりに向き直って、胡坐をかいた。
「余計な事をするつもりはないわ。単刀直入にね」
「どうぞ」
それじゃ……と一瞬溜めてから、先輩は静かに言い放った。
「ソウくんは、ユカちゃんのこと……好き?」
「なぜ、それを?」
何のことだろう。訊くまでもないと思うが。
「いいから答えて」
「それは好きですよ。訊く必要もないと思いますが」
「ふうん。それじゃあ……」
その時、俺は信じられないものを見て、我が目を疑いたくなった。
「えっとね、」
あの蒼井優奈が、照れている。
頬を紅潮させて、恥ずかしそうに俯く彼女には、あのいつも上に立っているような姉っ気が感じられない。
「私のことは、すき?」
「は?」
意味が分からないし笑えない。これじゃあまるで、先輩から告白されているみたいじゃないか。何を言っているんだこの人は。
「どうなの?」
「好きか嫌いかと訊かれれば、そりゃあ好きですよ。嫌う理由がないですから」
「ちがう。そういうことじゃなくて」
どういうことなんだ。俯く彼女の顔からは、恥じらいしか読み取れない。
「一人の女として……れ、恋愛対象としてってこと」
余計読めない。何を考えているんだこの人は。そんなことを訊いてどうしたい。答えは、分かってるじゃないか。
それとも、この人は……。
「俺は……貴女は女性として魅力的だと思います。ですけど……」
俺はあえて無表情で答える。つとめて冷静に、こちらを向く先輩と目を合わせて。
しかし、内心では真意に気付き始め、少し後ろめたい感情が沸いてきた。
「俺にとっての恋人は、ユカだけです」
「そう。まっすぐなのね」
再び俯いた先輩は少し笑ったように見えた。
どうやらそれは本当だったようで、また顔を上げた彼女は、今まで見せたことのない純真無垢な微笑みを浮かべていた。
「だから好きなのよ。ソウくん」
その微笑を見て、俺は確信した。この人は、本当に俺のことが好きだったんだな。でも、俺の側にはユカがいて……いや、そうじゃないな。違う。
「最初はからかってただけなの。でもね、そんなの気にしないで、ただただユカちゃんだけを愛してる。そんなソウくんが、好きになっちゃった」
それは、矛盾している。俺がユカのことを好きなのを好きになるなんていうのは、どうしようもないパラドックスだ。それでは俺が彼女を好きになったとき、彼女は俺を好きではなくなってしまう。
「どうしようもないのは分かってるの。でもね、私はソウくんが好き。それは、分かって欲しいの……ね?」
先輩は俺の肩を掴み、顔を――正確には唇――を近づけてきた。俺は雰囲気に飲まれることはせず、首を右に傾けて避けた。目標を失ったことで、先輩の顔が俺の左肩に掛かる形になる。
「やっぱり、ダメなんだ?」
「これは譲れません」
「ふふ。やっぱりソウくんのこと、好きみたい」
先輩はそのまま、俺の背中に手を回して抱きついてきた。俺は抱き返すことはしなかったが、抵抗もしなかった。
これぐらいならいい。慣れてるから。
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