こんな中途半端な時期に、どうして人事異動なのか、よく分からなかったけれど。
でも、幼年学校の元教官が、ぼくをこれからぼくの上司になる方へ案内する道すがら、教えてくれた。
突然、ローエングラム元帥府の幕僚侍医が、老衰で死去してしまったそうなのだ。
その後を継いだのは、ローエングラム元帥閣下の強い要望により、若い風。
そこで抜擢されたのが、これからぼくの上司になる、ドクター・ロークライナーなのだそうだ。
それは、彼女(女性だということも、この時知った)の性格と、容貌によるものだということならしい。
と、幼年学校の元教官とはおおよそ言わなそうな言葉を吐いて、彼はある部屋をノックした・・・。
その机の向こうで眼鏡を掛けて、そしてチョコレート色の髪を一つに縛ってペンを走らせる、
白衣の女性・・・しかも、相当若い・・・は、ぼくが見たことも無いほど美しい人だった。
「クラウス・ロレンツ。きみはこれから、彼女の侍官になる。ドクター・ロークライナーだ」
紹介された女性は、ぼくに気付くとふわりと柔らかい微笑を浮かべた。
驚くほど、短いスカートを履いていて・・・そしてそこから伸びる脚線美を惜しみなく晒している。
「初めまして。ローディムーン・ナリス・ロークライナーです。クラウスっていうのね。よろしくね」
とまどうぼくの手をぎゅっと握った、ドクター・ロークライナーは、ぼくを覗き込んで、そして悪戯っぽく笑った。
幼年学校で、鍛えられてきているから、家事全般といわれるものはこなす自信はある。
卒業したばかりで、まだ銃の腕や白兵戦にはさほど自信はないけれど・・・。
「一足先に、官舎に住んだのはいいんだけど・・・驚かないでね」
そう笑うドクターの言葉に、ぼくは1時間後理解することになる。
まるで泥棒でも入った後のような、散乱した部屋だった。
そして、この凄まじいことになっている部屋に、ありがたいことにぼくも同居することになる・・・。
「ごめんねえ、私家事って苦手なの。ここには、眠りに帰るだけだし、って思ったら・・・」
打って変わって綺麗なままのキッチンを見て、ぼくは何だか笑ってしまった。
「食事は、食堂があるじゃない?それに、たまにお兄ちゃん・・・ええと、叔父に作ってもらったり」
「ああ、聞いています。ビッテンフェルト大将閣下ですよね」
この美しい人の叔父が、あの猪突猛進な猛将、ビッテンフェルト閣下だというのも驚きだけれど・・・
「あとは・・・ミッターマイヤーのところで、奥様の手料理をご馳走になったり」
ミッターマイヤー閣下の愛妻家ぶりは有名だから。きっと喜んでドクターを招待するのだろう。
でも焼きもちを妬かれたりしないのかな、奥方に・・・。
「ロイエンタールがご馳走してくれるというのは、断ってるわよ。後で何を要求されるか分からないもんね」
ロイエンタール閣下ほどの漁色家が・・・このお美しいドクターを放っておくわけがない。
さて、どこから片付けるかと頭を悩ませていたら、部屋の呼び鈴が鳴る。
舌打ちをしながら、衣服の山を踏み越えて、ドクターが玄関に出る。
しばらくすると、ドクターと共に、灰色の髪の男性が部屋に入ってきた。
彼だけじゃない。幕僚の方、みんなと仲がいいという噂のドクター。
男女の関係ではなく、人間としてのその関係は、ぼくは尊敬に値すると思う。
「ぼくは、ドクター付きにさせて頂いたことを、誇りに思います!ただ、その、ちょっと驚きましたけど」
「はは、それはそうだろうね。さて、俺も手伝おうかな」
そう言って、ミュラー閣下は袖を捲り上げて、手近にあった衣服をまとめて抱え上げた。
ドクターは、さすがにミュラー閣下が手にされた衣服を引き取ろうとしている。
「まとめてするすると言って、どれくらい日数が経ってる?」
「今日は、俺は手伝いに来たんだから。気にしないで。ああ、ローディ、紅茶でも入れてくれるかな?」
ドクターは当然のように、偉そうに豊満な胸を逸らせて言い切った。
あまり役に立たないドクターには、テーブルの片隅に行ってもらって。
・・・しっかりとそこでグラスを傾けているあたり、相当神経が太いお方のようだ・・・。
ぼくとミュラー閣下の二人掛かりで、ドクターの官舎の大掃除をした。
ミュラー閣下はとても器用な方で、掃除も手際がとてもいい。
「すごい、床が見えたのはどれくらいぶりかしら。もしかして入居して以来かもね!」
他人事のように喜んでいるドクターに、ぼくとミュラー閣下は顔を見合わせて笑ってしまった。
全く、憎めないお方だ。このドクター・ロークライナーは。
「さて、じゃあお礼に奢るわね。クラウスの歓迎会も込めてね」
そう言って立ち上がり、クリーム色のジャケットを羽織ると、ミュラー閣下は穏やかな笑みを浮かべて、
「そうか、今日がクラウスの初日なのか。なら俺は辞退するよ」
ドクターは驚いたように目を開き、そしてミュラー閣下を真下から覗き込んだ。
「何、気を遣ってるの?お礼って言ったでしょ。それに運転手がいないで、私に歩いてレストランまで行けってこと?」
ドクターはそう悪戯っぽく笑い、ミュラー閣下の肩をこずいた。
お二人の年齢差は、5、6歳といったところだろうか。
立場を超えた関係だというのが、初対面のぼくにでも分かる。
「さあ、クラウス。今日からあんたに財布を預けるからね。我が家の全権をあんたに託すから、覚悟して」
そう言いうや、ドクターは黒い財布をぼくに放って投げて寄越した。
ミュラー閣下は抑えるような笑みを浮かべたまま、ぼくに囁いた。
ありがたいことに、ミュラー閣下の応援も得てしまった。
これから始まる、この美しく、元気な女性軍医殿との共同生活。
彼女を守るだけでなく・・・身の回りのお世話もさせて頂くことになろうとは。
ぼくの幕僚軍医侍官としての生活は、こうして華々しく、賑やかに始まった。