恐怖の、予防接種
先ほどまで、白衣姿で眼鏡を掛けて、カルテの整理をしていたドクターの姿がない。
おかしいな。いつもなら、医務室から出る時には、必ずぼくに声を掛けて下さるのに。
首を傾げていると、元帥府の館内放送の合図の、「ピンポンパンポーン」の音が。
何となく手を止めて、天井を見上げると、そこに備え付けられたスピーカーから、聞きなれた声が。
『えー、元帥府関係者全ての方に、重要なご連絡です。手を止めて、心してお聞き下さい』
さりげなく偉そうな、だけど柔らかなこの声は・・・ドクター・ロークライナーだ・・・。
『突然ですが、本日より3日間に限り、元帥府関係者全てを対象として、インフルエンザ予防接種を執り行うことになりました。
これは強制ですので、逃げることは出来ません。
注射という恐怖を先延ばしにして、何とか誤魔化そうという姑息な方がいらっしゃるようですので、
今日から一日経つ度に、注射針を太くしていく方針を決定致しました。つまり、一番細い針は今日限りです。
最終日の3日後は・・・ふふ・・・』
何という強引な!!
そう言えば、昨日夕食を召し上がりながら、ドクターが零してた。
「去年のインフルエンザの予防接種、接種率が悪かったらしいのよね・・・案の定、一部部署で流行ってしまったんだって」
「そうなんですか」
ぼくは何の気なしに返事をしたのだけれど。
その時、ワインを片手に、長い足を組んでブラブラさせていたドクターの脳裏には、もうこのことが計画されていたのだろうか。
『ワクチンは、きっちり人数分用意されていますので、皆様お誘いあわせの上、どうぞ医務室までいらしてくださいねー』
どこのイベントの宣伝だ。
ドクターの、どこか楽しげな声はまだ続く。
『なお、混乱を避けるため、軍曹以下の方は医務室1から3、少尉から大尉までの方は4から5・・・』
振り分けまで考えていたとは。絶対誰も逃がさないつもりだな。
ドクターのほくそ笑む顔が、目に浮かぶようだ。
『・・・大将以上の方は、軍医総監総括エリアの医務室にお越しください。ちなみにここは、極細の針は10本しかありません。
それでは、お待ちしていまーす』
軍医総監総括エリアの医務室・・・つまり、ここ。
ドクターは、立場的には軍医総監のすぐ下。軍部的に言えば、軍医少将殿だ。
普通で考えたら、ドクターの年齢からは有り得ないけど・・・でもローエングラム元帥は、20代で元帥なんだから、
全く可笑しな人事ではない。
それに、軍医総監殿は、気さくな優しそうな年配の方なんだけど、彼がドクターの医学校時代の校長先生だったそうだ。
その繋がりで、ドクターは幕僚軍医という抜擢をされたらしい。
「忙しくなりそうだなあ・・・」
ぼくはぽつりと呟いて、ドクターの愛用の万年筆に、インクを補充しようとしていたその時。
プシュー、と情けない音を立てて、この部屋の自動扉が開いた。
そこに血相を変えて立っているのは、ビッテンフェルト閣下。
「ローディは、ローディはどこにいる!?」
まるでぼくに食って掛かるかのような勢いで、ビッテンフェルト閣下はぼくの肩をがくがくと揺らした。
「ああああの、先ほどまで放送されていたので、まだ戻られていませんが・・・」
「ああ、そうか。そうだな。うん。俺が一番手か。細い針は手に入れたな、よし」
・・・こんなに勇猛な閣下でも、注射が怖いのか・・・。
細い針が、10本しかないなんて、嘘なのになぁ・・・ドクターの策略に、見事にはまってしまわれた。
ぼくの眼差しに気付いて、ビッテンフェルト閣下はふんと鼻を鳴らして、ドクターの椅子に腰掛けた。
腕を組んで、偉そうにしているけれど。いや、実際偉いんだけど。
でも、足が貧乏揺すりしている。
「ローディに、無駄に手間を掛けさせたくないのだ、俺は。どうせ強制なら、早く終わらせた方がいい」
「といいながら、本当は注射が苦手なだけだろう、卿は」
そう今にもくすくすと笑い出しそうな声で言うのは、ミッターマイヤー上級大将閣下。
体操選手を思わせるような、小柄で引き締まった体。
その隣に立って、大きな花束を抱えているのは、黒髪で青と黒の瞳を持つ、ぼくが見てもため息が出るような素敵な男性。
ロイエンタール上級大将閣下だ。
このお二人の上級大将閣下、双璧と呼ばれて、ローエングラム元帥府の至宝と言われているけれど。
確かにお二人並ばれると、圧巻だなあ。
ぼくはぽかんとした顔をしていたようで、ロイエンタール閣下から冷たい眼差しを向けられてしまった。
「馬鹿面をやめろ。せっかくの顔が台無しだ」
「おや、卿が顔のことを口にするなんて珍しいな」
「ローディが、クラウスは可愛い、可愛いと連発しているからだ」
ロイエンタール閣下の言葉に、ぼくは顔を赤らめてしまった。
ドクターったら、こんな雲の上の方々に、そんなことを仰っていたのか。
「ローディも失礼だな、男を捕まえて可愛いだなど」
憤慨してくれるビッテンフェルト閣下、嬉しいですが・・・ぼくの頭を、力任せに撫でるのは痛いです・・・。
しかも、「女みたいだなあ」と言われるほうが、ぼくは傷つきます・・・ビッテンフェルト閣下・・・。
ミッターマイヤー閣下は、今度こそ声を立てて笑い出した。
「クラウスも大変だな・・・おっと、俺たちの主治医殿がおいでだ」
その言葉通り、自動扉を開けて、軽快な様子でやってきたのは、ぼくの上司、ドクター・ロークライナーだった。
今日も短いタイトスカートに、キャミソールというスタイル抜群なのを見せ付ける衣装に、白衣といういでたちのドクターは、
揃った3人の閣下の姿に驚いたようだ。
「あらまあ、早かったのね。そんなに太い注射針は嫌?」
「そんなことはない。お前の手を患わせたくなかっただけだ」
ロイエンタール閣下はそう一番早く返事をし、そして颯爽とドクターに花束を向けた。
「今シーズン一番早く採れたらしい。お前によく合うと思って買い求めた」
ピンク色のその花は・・・フリージアかな?ぼくには良く分からない。
ドクターは、花束とロイエンタール閣下を見比べて・・・そしてにっこりと笑って受け取った。
「ありがとうございます、ロイエンタール閣下。ではこの花は、玄関受付に飾ってもらいましょう。
シーズンで一番早いなんて、縁起がいいものねえ」
そう言って、豪華な花束をぼくに無造作に手渡した。
「後で、受付のサビーネに渡してきて?ああ、ロイエンタール閣下からだと、ちゃんと伝えるのよ」
ぼくは困ってしまって、にっこり笑顔のドクターと、舌打ちをしているロイエンタール閣下を見比べてしまった。
だが、こういうやりとりに慣れているのか、ロイエンタール閣下も別に怒っている様子も無い。
さっさと患者用の椅子に腰掛け、上着を言われるまでもなく脱ぎ、男らしさをアピールするかのように袖を捲くっていた。
さあ、どこからでも掛かって来い!のその姿は、ぼくが見ても惚れ惚れするかのような潔さだった。
もちろん、ドクターにいいところを見せたいだからだろうけれど・・・
何だか可笑しくなって、ぼくは笑いを堪えながら花束を取り合えず置いて、ドクターのお手伝いをすることに。
ぼくは医学の心得が無いから、予防接種のお手伝いは出来ない。
だから、カルテを言われるまま広げたり、アルコール脱脂綿の瓶を差し出したり。
こんなことしか出来ないけれど、そのたびに、ドクターは笑顔で、
「ありがとう、助かるわ」
そう言ってくれるから、とても嬉しい。
極細針での犠牲者・・・じゃなく。今期の予防接種第一号が終わり、ぼくは思い出してドクターに袋を手渡した。
ドクターもそれを見て、思い出したようで。
「そうそう、クラウスに頼んでいたんだったわね。ありがとう。すぐ買えた?」
「ええ。大丈夫ですよ」
ぼくの返事を聞き、ドクターはにこりと笑って、その袋に手を突っ込んで、
一つ摘むと脱脂綿で腕を押さえているロイエンタール閣下に差し出した。
「はい、ご褒美」
首を傾げてそれを受け取るロイエンタール閣下。
ミッターマイヤー閣下も、ビッテンフェルト閣下も何だ何だと背後から覗き込む。
ロイエンタール閣下の手の中にあるのは、銀色の包みの、どこにでも売っている小さいチョコレート。
不思議そうな顔の閣下たちに、ドクターはくすりと微笑んだ。
「今日は、昔地球で、バレンタインという日だったんですって。女の子が、男の子にチョコをあげる日。
どうしてだかは分からないけど、でもまあ突然予防接種決めちゃったしね。
だから、注射を受けたみんなに、インフルエンザに掛かりませんようにって祈りを込めて、ご褒美よ」
そうなのだ。
今朝、ドクターから頼まれて、凄まじい数のチョコレートを買いに走ったぼく。
8つの店から、チョコレートが姿を消してしまうほどの量。
幕僚の方々の分を除いて、後は全ての医務室に分配した。
チョコを食べてない人は、予防接種を受けていない証拠だ。
「ご褒美・・・ならば心を込めたお返しをせねばならんな」
そう目を光らせるロイエンタール閣下に、ドクターは無碍に手を振った。
「いらない、いらない。どうせ私のポケットマネーじゃないもの。
ちゃんと元帥閣下から経費で落としてもらうから気にしないで」
・・・元帥閣下から!?
許可が下りるのか、少し心配になったぼくだった。
だが、続々と現れる幕僚閣下達に紛れて、その元帥閣下がいたのに驚いた。
ドクターも、少し呆れ顔で。
「閣下は、軍医総監から接種を受けて頂くことになってましたのに」
そう言うと、若いローエングラム元帥閣下は、輝く金髪を揺らし、蒼氷色の瞳に悪戯っぽい色を浮かべた。
「一人で寂しく注射されるより、こうして賑やかな場所で接種を受けた方がずっといい」
まあ・・・注射って、あんまり好んでする人いないだろうし。
それでも、元帥閣下ともあろうお人も、やっぱり注射は苦手なんだな。
アルコール綿で腕を押さえる元帥閣下に、ドクターは他の閣下同様、チョコを手渡した。
量も同じ。
小さいチョコ、一つだけ。
「はい、ご褒美です」
言うセリフも、おんなじ。
元帥閣下は、少し驚いたようだけど、じきに嬉しそうに笑った。
「そうか。今朝提示した経費は、これか」
「そうです。糖分は、脳を活性化させますしね」
そう何だか分からない理屈を言い、ドクターはやがて耐え切れなくなったかのように、声を上げて笑い出した。
「やっぱり、ご褒美は誰でも嬉しいものなんですね」
「・・・ああ、そうだな」
応えた元帥閣下の声が遅れたのは、早くもチョコを口に入れたからだった。
甘党だったのか、知らなかった。
そう言えば、元帥閣下の姉上、グリューネワルト夫人は、とってもお料理やお菓子を作るのが上手だと聞いたことがある。
・・・ドクターと正反対のお方なんだろうな・・・。
経費で落とせることにもなったし、幕僚の方々ほとんどが、初日に接種を終えて、
・・・ということは、皆さん太い注射針は怖いということなのかな・・・?
とにかく、ドクターは大満足のようだった。
だけど、誰か足りないような・・・?
そろそろ定時になろうかという頃、砂色の短い髪の男性が、息せき切って駆け込んできた。
「ローディ!すまない、遅くなった!」
穏やかな顔立ちに、汗を滲ませているのは、ミュラー閣下だった。
ドクターはすでに用意してあった、最後の注射を手にして椅子を指し示した。
そして、腕をまくるミュラー閣下に、素早く注射をして。
「はい、今日は営業終了」
そう笑い、ミュラー閣下にも、ご褒美のチョコレートを。
嬉しそうに笑うミュラー閣下・・・あれ?
どうして、ミュラー閣下がこの時間に来ることが、ドクターには分かっていたのかな。
首を傾げていると、ドクターはぼくの肩を掴み、今ミュラー閣下が座っていた椅子に、ぼくを座らせた。
そして問答無用に、ぼくの服の袖をめくり上げ、アルコールで拭き始めた。
「さあ、最後の極細の針よ。クラウス、あんたに倒れられたら、我が家は破滅なんだからね。
健康管理は万全にしてね」
そうくすくすと笑い、ドクターは全く痛みを感じさせない注射を、ぼくにしてくれた。
そして、針を抜き、綿を腕に押し当てて、テープで止めてくれる。
「ありがとうございます」
そうぼくが言い切らないうちに、ぽんと口の中に何かが放り込まれた。
驚いて口を閉じると・・・甘い。
チョコレートだ。
ドクター、手ずから。
しかも、営業終了って・・・仕事終わりって言ってから、ぼくに注射をしてくれた。
ぼくは感激してしまって、立ち上がって伸びをしているドクターを見上げると、
彼女はミュラー閣下と夕食の話をしていた。
ミュラー閣下も、今仕事を全て終えたそうで。
「喜んで、クラウス。今日は夕飯の準備はしなくて済むわよ」
そしてこっそりと、ぼくに耳打ちをした。
ドクターの、チョコとは違うけど、甘い香りが鼻をくすぐる。
「ミュラーがね、ご馳走してくれるって。店で一番高いメニュー頼んじゃおうね」
そう悪戯っぽく笑うドクターの笑顔が、失礼ながら可愛くて。
ぼくは一緒になって笑って頷いた。
ぼくたちの様子に、不思議そうなミュラー閣下だけど。
でも、ぼくはこの3人の空気が大好きで・・・
ぼくが、邪魔になる日までは、こうして3人で時間を過ごしたいな。
もう、今すでに、ぼくはお邪魔虫なのかな?
ドクターも、ミュラー閣下も、とってもお優しくして下さるけど・・・
そう思ったら、何だか少しだけ寂しくなってしまった夜だった。