最近、ドクター・ロークライナーの様子がおかしい。
もちろん仕事で失敗をするはずもないけれど、でも時折ペンを片手にボーっとしていたり、
食事をするのを忘れていたり。
実に、明るく元気なドクターらしくなかった。
ぼくは、心配になってしまって、ミュラー大将閣下に僭越ながら相談してみた。
すると、ミュラー閣下は、困ったような寂しそうな、そんな複雑な笑みを浮かべて教えてくれた。
「自覚したんだろうな」
「自覚・・・?」
「ああ。他の者は気付いていないから、それなりにローディも努力はしているんだろうけどね。
でも見るものが見れば、すぐ分かってしまう。ほら、きみのように」
うーん・・・ぼくが気付いたのは、ドクターの様子がおかしい、ということだけなのだけど。
その答えは教えてくれないようだ。
そしてそのドクターの異変に気付いたのは、ぼくとミュラー閣下だけじゃなく。
この日、昼過ぎにロイエンタール閣下が医務室に訪れた。
「あら、どこか具合が悪いの?」
そう聞いたドクターの目の前に座り、ロイエンタール閣下はちらりとぼくを見た。
・・・いちゃ、まずいのかな。
でも、ぼくはドクターの侍官だし。
取り合えず、背中を向けて医務室の端っこで適当に作業をすることにした。
脱脂綿を切ったり、ええと、あと、何をすればいいかな・・・。
ロイエンタール閣下は、ぼくをいない者だとみなすことにしたらしい。
少し声を低くして、ドクターに囁いた。
「ローディ、分かっているのだろう。止めておけ。いくらお前でも、無理なものは無理だ」
無理なものは無理だ?
どういうことなんだろう。
ドクターは、笑い声を立てて、「何のことを言っているの?」と言っていたけれど。
でも、取ってつけたようなその言葉に、ロイエンタール閣下は食い下がっている。
「辛い思いをするのは分かりきっているではないか。どうして・・・」
「本当に、何のことか分からないわ。さあ、用がないなら、昼休みはもう終わりよ。
早く自分の執務室に戻ったら?」
追い出すように、ロイエンタール閣下に言ったドクターは、その後何も変わらぬ様子を見せていたけれど。
でも、時折小さな溜息をついていた。
どうしたんだろう・・・。
ぼくに、何か出来ることはないのかな。
でも、出しゃばって余計なまねをすることは出来ないから、ぼくはただ、そんなお辛そうなドクターを密かに見守っていた。
一日の執務がもう、終わりになろうとした時。
灰色の髪の男性が、穏やかな表情で入ってきた。
ミュラー閣下だ。
「ローディ、今日の夕食は、もう誰か予約入っている?」
「いいえ、私はそんなにモテないわよ?」
そう笑ったドクターに、ミュラーは「失礼」と彼女のPCを操りだした。
「ほら、この店。最近出来たばかりだそうだ。行ってみないか」
「へえ・・・どれどれ」
ドクターも立ち上がって、画面を二人で見ている。
いい・・・雰囲気。
ドクターも、少し元気が出たみたいだ。よかった。
「クラウス、着替えたい?なら待つけど」
そう言って下さったドクターに、ぼくは笑って手を振った。
「いえ、ぼくはご遠慮します。やりたいことがあるので」
「ええー?どうして?」
不満そうなドクターに頭を下げ、そしてミュラー閣下にも頭を下げたぼく。
「すみません。ドクターの侍官として失格ですけど、今日は閣下にドクターをお願いしてもいいですか?」
ミュラー閣下は苦笑して、そしてぼくの頭をぽん、と撫でてくれた。
さすが、ミュラー閣下。ぼくの思いに気付いてくれたらしい。
そこまで、ぼくは野暮じゃない・・・というか、もう少し、気が利いた人間になりたいな。
今日は、その第一歩だ。
ドクターはきっと、今日は帰りが遅いだろう。
だから、帰ってこられたときに、寒い思いをしないように、部屋を暖めておいて。
ああ、暖かいスープも作っておこう。
飲みすぎた朝は、喉が渇くだろうから、冷たいレモネードも用意しておこうかな。
そしてドクターのいない家で、珍しく一人きりになったぼくは、久しぶりに集中して勉強なんてしてしまった。
まだまだ半人前のぼくだけど、早く周りの素晴らしい閣下達の様になりたいから。
そして、ぼくも閣下達のように、実力でドクターを守っていけるような立場になればいいな。
日付が変わって、更に数時間後。
静かに家の扉が開いた。
ぼくが自分の部屋のドアを開けて、顔を出すと。
ほんのりと頬を赤らめたドクターと、続いてミュラー閣下が帰宅なさった。
「お帰りなさい、ドクター」
「あら、まだ起きていたの?駄目じゃない、もう寝なきゃ」
そう言いながら、ドクターはハイヒールを脱いで家に上がり、そしてぼくの頬を両手で掴んだ。
「・・・もしかして、私を待っていた?」
正直、待っていたんだけど。
ミュラー閣下がご一緒だから、心配はないだろうけど、それでもちゃんと帰ってくるまでは気になって仕方が無い。
だけど、それを言うと、ドクターが悲しむような気がしたから。
だから、ぼくは笑顔で首を振った。
「いえ、思わずゲームに夢中になってしまったんです。ごめんなさい、すぐに寝ます」
「ふふ、いい子ね。お休み」
ドクターはそう言って、いつものようにぼくの額に、お休みのキスをくれたんだけど・・・。
ミュラー閣下がいるのに!
でも、さすが大人。
ミュラー閣下は玄関でぼく達を見て、くすりと笑って、ぼくにドクターのバックを渡してくれた。
「じゃあ、俺はこれで」
「・・・駄目。もう少し、私の相手をしてよ」
ドクターの手が、ミュラー閣下の腕を掴んだ。
そして、ぐいぐいと引っ張って、慌てて靴を脱ぐミュラー閣下と共にリビングへ行ってしまった。
「まだ、飲むんだから。最後まで付き合って、それから帰るのよ」
「分かった分かった。・・・ああ、クラウスは、寝ていいよ。俺は適当に帰るから、気にしないで」
そうぼくを気にかけて下さったけれど、でも何かつまみくらいは・・・
台所へ向かおうとしたぼくを止め、ドクターは吊り棚からナッツとかサラミとか、
ああ、塩分ばかり高いものを・・・
そんなつまみを引っ張り出して、グラスを持ってにっこりと笑った。
「大丈夫よ。適当にやるから。ああ、あんたはちゃんと、ご飯食べたわね?」
「ええ、ドクターが配達を頼んで下さったので」
そう。ドクターは、自分だけが外食をするのが嫌だったようで。
今日行ったレストランから、食事の配達を頼んで下さったのだった。
久しぶりに一人で食べる夕飯は、少し寂しいけど。
でも、ドクター達と同じものを食べているんだと思ったら、何だか嬉しかった。
「美味しかったです。閣下、ご馳走様でした」
もちろん、支払いはミュラー閣下だったろうから。
そうぼくがお礼を言うと、閣下はくすくすと笑って頷いた。
じゃあ、もう邪魔をしないように・・・。
部屋へ帰って、一旦ベッドへ潜り込んだぼくだけど。
でも、何だか気になる。
ドクターが、無駄にはしゃいでいたような気がする。
全然酔った風には見えない。
見えない、だけだったのかな。
ロイエンタール閣下の言葉が、脳裏を過ぎった。
『ローディ、分かっているのだろう。止めておけ。いくらお前でも、無理なものは無理だ』
何のことなんだろう・・・。
考えまいとすればするほど、気になってしまって、目も冴えてしまった。
トイレにでも行こうかと部屋を出ると、驚くほどリビングが静かだ。
いないのかな・・・?
そう思って、明かりを少し落としたリビングを覗くと、ミュラー閣下がグラスを傾けていた。
ドクターは・・・その肩に寄りかかっている。
しまった。
いい雰囲気のところを、見てしまった。
ぼくは、足音を立てないように部屋へ戻ろうとしたら、閣下にばっちりと見つかってしまった。
「クラウス、そこにある、ローディの上着を持ってきてくれないか」
小声で言う閣下。ぼくは首を傾げてカウンターの椅子に引っ掛けてあった、ドクターのガウンを手にして、
二人の傍へ近づいた。
よく見ると、ドクターはミュラー閣下の肩に頭をもたらせて、すっかり寝てしまっている。
ぼくからガウンを受け取り、ミュラー閣下はそっとドクターの肩にそれを掛けようと、体を動かした瞬間。
ドクターの身体がずれ落ちてしまった。
「あっ・・・!」
ミュラー閣下に、膝枕の状態になってしまったドクター。だけど、寝息は定期的なまま。
「すみません、ドクター、起きてください・・・!」
慌てて起こそうとしたぼくを、ミュラー閣下は静かに止めた。
そして、ドクターの顔に掛かったチョコレート色の髪をそっと払い、見つめる眼差しは暖かくて穏やかだった。
「いいんだ。もう少し、このまま寝かせておこう」
・・・ミュラー閣下の気持ちは、ぼくでなくても分かるだろう。
きっと気付いていないのは、ドクター本人と、ビッテンフェルト閣下の、鈍い叔父姪コンビだけだろうな。
ぼくは、やっぱりドクターの最近の異変が気になって仕方なくて。
話を聞いたら、すぐに立ち去ろう。邪魔は、なるべくしないように。
そう心に決めて、ミュラー閣下に頭を下げた。
「少しだけ、教えていただけますか?」
「・・・多少だったら、飲めるかな」
ミュラー閣下は、ドクターの飲んでいたグラスをぼくに押しやり、ワインをグラスの底に少しだけ注いでくださった。
そして、ぼくに眼差しを向けている。促している。
いいのかな・・・。でも、今聞かないと、後悔するような気がする。
ぼくは、小さく深呼吸して、そしてグラスに入ったほんの少しのワインを飲んだ。景気づけだ。
「あの・・・ミュラー閣下は、ドクターが何に悩んでいるのか、ご存知ですよね」
「ああ、分かっているよ」
「それは・・・ぼくは聞いてはいけないことですよね」
ずるいな、ぼくも。
質問という形で、逃げようとしている。聞きたいくせに。
ミュラー閣下はしばらく無言でいたけれど、でも眼差しが柔らかいまま、膝の上で眠るドクターを見下ろした。
「・・・ローディは、苦しんでいるんだ。気付いてしまって、そして苦しんでいる。
自覚がない前からも、俺は彼女の思いを知っていたけれど、でも今は、その苦しみを誤魔化すことしか手伝えない」
「苦しんでいるって・・・一体、何にですか?」
地位も名誉も、そして頭脳も美貌も兼ね備えたドクター。
人間関係も、すこぶる良くて。
明るいし、幕僚達からも信頼厚くて。
そんな誰もが羨むような・・・ぼくの尊敬するドクターが、一体何に苦しんでいるのか。
全然思い至らない。
ミュラー閣下は、静かに答えを教えてくれた。
ぼくの想像を遥かに超える、答えを。
「ローディは、禁断の恋に堕ちたんだ。決して、報われない恋にね」
禁断の・・・恋。
てっきり、ドクターのお相手はミュラー閣下に決まっていると思っていた。
一番、信用しているのは彼だということは、間違いないから。
報われない、恋。
・・・ローエングラム元帥閣下か・・・?
身分違いの恋に悩んだ、ドクター・・・見た目はお似合いだけど、ドクターは平民。元帥閣下は貴族。
その壁は、厚いだろう。
でも・・・でも。
「ミュラー閣下は・・・」
言いかけたぼくを、ミュラー閣下はくすりと笑って止めた。
「クラウス、俺はね、愛する女性が心を痛めているときに、一番傍にいたいんだ。そして、俺がその心を癒したい。
それが出来るということは、俺にとって誇りであり、喜びなんだよ」
・・・凄い。
言い切ったミュラー閣下を、ぼくは尊敬の眼差しで見つめてしまった。
ある意味、閣下も報われない恋に堕ちている。
別の男を愛した女性の、一番傍にいることで満足するなんて・・・
切な過ぎる。
「まだ、きみには分からないかな。でも、じきに理解できるようになるさ」
そうかな・・・
ぼくだったら、やっぱり好きな女性には、自分だけを見てもらいたいけどな・・・。
「じきに、分かるよ・・・」
そう呟いたミュラー閣下は、再びドクターの寝顔に向けられていた。
その表情は、いつものように穏やかだけど。
でも、眼差しは本当に愛おしそうで、暖かで。
早く、気付いてあげてください、ドクター。
あなたの傍に、こんなにもあなたを想っている人がいることを。
ロイエンタール閣下には申し訳ないけれど、やっぱりぼくはドクターとミュラー閣下が一番お似合いだなと思った。
そしてその後、ぼくはリビングを後にして、再びベッドに潜り込んだ。
眠れない。
興奮してしまっているようだ。
あんまり、恋愛に興味のなかったぼくだけど、ミュラー閣下のあんなに熱い想いを聞かされて、
ちょっとぼくも恋をしてみたくなった。
もっとも、相手がいないと始まらない。
いつか・・・ぼくにもあんな風に、傍にいるだけで満足だって思える女性が現れるのかな。
現れるといいな・・・。
次の日の朝、部屋から出てきたドクターは、さすがに二日酔いだったようで。
「頭痛い。サボろうかな。風邪引いたとか言って」
そう言うけど、ぼくはわざとしかめ面を作った。
「いけません、お医者様が仮病したら示しがつきませんよ」
「・・・そうよね、そりゃそうだ。ああ、かったるいなあ」
素直に頷いてくれたドクターの前に、夕べ作っておいたスープとレモネードを差し出した。
スープの柔らかい香りに、嬉しそうに笑うドクター。
きっと、昨日のことは覚えておいででないだろう。
でも、それできっといいんだろうな。
ミュラー閣下は、知らない間にドクターを部屋へ連れて行き、そのまま帰ってしまわれたようだった。
早く、二人の思いが一つになるといいな。
その日の夕方、思いがけないことが起きてしまった。
いつものように、奥様の手作りお菓子を手土産に、医務室へ遊びに来たミッターマイヤー閣下。
散々奥様自慢をしておいでだ。
本当に、愛妻家なんだな・・・この光景も、何度となく見てきた。
「・・・で、今日もその、例のことを相談したいのだが・・・」
タイミングを見計らい、ミッターマイヤー閣下が言った相談とは。
奥様との間に、なかなか子供が出来ないことを悩まれていて。
時折こうして、ドクターに不妊対策の相談をされていたのだった。
いつもは、定時を過ぎても話を聞いていたドクターだけど。
この日は、時計を見上げ、そして困ったように笑みを浮かべた。
「ごめんなさい、申し訳ないけど、今日は大事な予定が入っているの。また今度でもいいかしら?」
「あ・・・、そうか、それは済まなかった。ああ、いつでも構わない。忙しいところ、悪かったな」
ミッターマイヤー閣下は慌てて立ち上がり、そしてぼくにも手を挙げて挨拶をしてくれて、
医務室を軽やかに後にした。
小柄な身体だけど、柔軟なバネのような閣下はいつも爽やかで好感が持てる。
ミッターマイヤー閣下を見送ったぼくが、何の気なしにドクターに目線を向けると。
小さな手を膝の上で握り締め、眉を寄せて口を引き締めて。
一点をじっと見つめていた。
ああ・・・・そうか。そうだったのか。
この時、ぼくは全てを悟った。
ドクターの報われない、禁断の恋の相手。
その相手に、今まで散々相談をされていたのか。
お辛かっただろう。自覚したなら、なお。
そして、それを全て知っている、ミュラー閣下も。
何か、不吉な・・・何かが吹き荒れないことを祈ったぼくだった。