夢の、あとさき 

             

             

             

            ドクター・ロークライナーは、今までとずっと変わらない。

             

            今までだって、変わらないよう努力されていた。

            だけどそれを更に硬化して、以前のような彼女になるよう振舞っている。

             

            ドクターの想い人が、愛妻家ミッターマイヤー閣下。

            それを、彼女が望まないのに少しずつ想いが周囲に漏れ出している。

             

            そのことに気付いたドクターは、まるで仮面を被ったかのように、感情を消し去った。

             

            だから、もう誰も彼女の想いに気付かない。

             

            それで良かった。

             

            ドクターが、これ以上苦しまないためにも。

            ドクターが、これ以上壊れてしまわないためにも。

             

            ぼくに出来るのは、ただ、ドクターのお傍にいることだけだった。

             

             

             

             

            夜、夕食を済ませた後、リビングでドクターは氷を満たしたグラスに褐色の酒を注ぎいれたものを傾けていた。

             

            音楽も映像も無い、しん、と静まり返った中、ただドクターのグラスの音だけが鳴り響く。

             

            あらかた洗い物を片付けたぼくだけど、ソファに座って考え込むドクターに声を掛けられなかった。

             

             

            ドクターには、もっとふさわしい人がいます。

            ほら、すぐ傍に。

            どうして気付いて差し上げられないんですか?

            あんなにも、貴女を想っている人が傍にいるのに。

             

             

            ・・・・・・そんなこと、言えるはずがない。

             

            ぼくの入り込める範疇は、余りにも狭い。

             

            だって、ぼくはドクター付きの侍官ではあるけれど、友人ではない。

            だから、挟める言葉を持つことを許されない。

             

            ただぼくに出来ることは、ドクターを心配することだけだ。

            それが、とても歯がゆい。

             

             

            台所から出たぼくは、どれ位立ち尽くしていたんだろうか。

            そのぼくに気付いたドクターは、ふいにお美しい顔に笑みを浮かべて手招いた。

            それに釣られて傍に寄ると、ドクターは手を伸ばしてぼくの頬に両手を当てた。

             

            「クラウス、お疲れ様。もう眠りなさい。あなたに今必要なのは、たくさんの勉強とたくさんの好奇心と、それからたくさんの睡眠よ」

             

            「・・・・・はい」

             

            「いい子ね。おやすみ」

             

            そしてドクターは、いつものようにぼくの額にキスをくれた。

            普段だったら嬉しいキスも、今日はとても寂しく思った。

             

            これで、今日はぼくはドクターに話しかけるチャンスを失ってしまった。

             

            寝ろと言われれば、与えられた自室に戻るしかない。

             

            だけど、・・・・・・こんなにお寂しそうなドクターを、一人にしておくのは、とても辛くて。

             

            ぼくみたいな、幼年学校を出たばかりの小僧が、出しゃばったことをと分かっている。

            だけど、ぼくは行動に出るのを自分で止められなかった。

             

            もうこれ以上、苦しむドクターを見たくなかった。

             

            彼女には、もっと華やいだ笑みが似合うし、暖かい雰囲気が一番の魅力なのに。

             

            それを全て失った、表面上のドクターの明るさを見るのが辛かった。

             

            だからぼくは、真っ暗な自室に備え付けられた電話を手にして、通信を始めた―――・・・

             

             

             

             

             

            数十分後、バタバタとぼくの部屋の外で騒がしい音が聞こえるけど、ぼくは布団を頭から被って寝た振りを続けた。

             

            きっと、大慌てで来たんだろうな、ミュラー閣下。

            だって、「ドクターが大変です」ってお知らせしたんだもの。

             

            お叱りなら、明日以降に受けるから。

             

            だから、今日はドクターをミュラー閣下の優しさで癒して差し上げることが出来たなら・・・・・・それだけで、ぼくはどんな罰も受ける覚悟が出来る。

            あんな姿のドクターを見るよりも、ずっとずっと遥かにマシだ。

             

            ドクターの小さな声が聞こえる。

            少しばかり刺々しいその声が、すぐにくぐもり、そして・・・・・・ドクターの部屋への扉が開き、二つの足音が吸い込まれて、静かに扉が閉ざされた。

             

             

             

            幸せになるといいな。

             

            ・・・・・幸せになって貰いたい。

             

            明日の朝は、冷たいレモネードと暖かいスープとどちらが必要なのかな。

            両方用意した方がいいのかな。

             

            そんなことを思いながら、ドクターと二人きりでいたこの家が、ミュラー閣下が来て下さったことによって、とても温度が上がって暖かくなったように感じたぼくは、

            布団を頭から被って、緩やかな・・・・・・久し振りに、安心した眠りについた。

             

             

             

             

            次の朝、ぼくが部屋から出ると、リビングに明るい日差しの中、ソファに座って立体新聞を目にしている男性に気付いた。

            少しだけ、片方の肩が落ちているのは武勲だ。

            今はもう、痛くないのかな。

            そんなことを心配しながら、ぼくはそっと声を掛けた。

             

            「おはようございます、ミュラー閣下」

             

            ぼくの声を聞くよりもきっと早く、ぼくに気付いていただろうミュラー閣下はゆっくりと振り返り、少しだけ照れくさそうに笑った。

             

            「おはよう、クラウス。昨日は嘘をついたな? 悪い子だ」

             

            「嘘はついていません。ドクターは、ずっとずっと、大変な状態でした」

             

            ドキドキしながらもそう反論すると、ミュラー閣下は僅かに目を見開き、そして苦笑した。

             

            「そう・・・・・だな。だけどもう、心配しなくていい。ローディはもう、大丈夫だよ。・・・・・・ああ、そろそろ起さないと」

             

            そう言って半腰を上げかけたミュラー閣下だったけど、それよりも数瞬早く、ふわりといい香りが漂った。

             

            「ふぁぁ・・・・・・あらまあ、みんな早起きだこと。あー、眠い。すんごい眠い。ねえクラウス、今日さぼっちゃおうかなあ? 風邪引いたって言って」

             

            そう言うドクターに、ぼくはわざとしかめツラをして見せた。だけど内心は、嬉しくて仕方ない。

            前のドクターに、戻った。それを実感出来たから。

             

            「いけません、そんなことをしたら、示しがつきませんよ」

             

            「ちぇ、そうだよねー・・・・・・」

             

            「おはよう、ローディ。疲れてしまった? すまない、もっと手加減をすればよかった」

             

            「・・・・・・」

             

            何かぼくがいちゃいけない雰囲気になりそうで、そっと台所に逃げたぼくをよそに、ミュラー閣下は嬉しそうにドクターの腰にがっちりと手を回した。

             

            「あれから色々考えたんだけど、このうちの家事をクラウス一人に押し付けるのはかわいそうだと思ったんだ」

             

            「・・・・・・」

             

            「きみは破壊的なほど家事が苦手だろう? 幸いなことに、俺は掃除も洗濯も嫌いじゃない。だから、来週から俺もここに住むことにする。そうすれば、人間らしい生活が出

            来る上に、クラウスの負担が減らせる。いいアイデアだろう?」

             

            「・・・・・・はい?」

             

            「部屋、空いているそこを貰ってもいいかな? ああ、ローディ、大丈夫。何も心配しなくていいから」

             

            にっこりと笑ったミュラー閣下は、穏やかな表情のクセに、有無を言わさない強さがあって。

             

            あまりの急展開に、口をパクパクさせるドクターに、ぼくは失礼ながら噴出してしまった。

             

             

             

             

            悩み苦しんだドクターを救うには、やっぱり荒療治が必要なんだと思う。

            それはミュラー閣下も同じ思いだったようだ。

             

            くすくすと笑うぼくに目を向けた閣下は、一瞬だけにこりと笑ってぼくに合図した。

             

            それが特別なことのように思えて、とても嬉しくなる。

             

            だけど、この城のお姫様のご機嫌は麗しくないようで。

             

            「・・・・・・私の意見を一切聞かずに決めるっていうのは、どういう了見よ」

             

            「聞くよ? じゃあローディは月曜日と水曜日、どちらがいい?」

             

            「は?」

             

            「月曜日と水曜日」

             

            「・・・・・水曜日・・・・・?」

             

            「分かった。それでは、毎週水曜日に掃除を決行することにする。ほら、ちゃんとローディの意見を聞いているだろう?」

             

             

            さすがだと思った。

            笑顔でゴリ押し。

             

            帝国軍大将、『鉄壁ミュラー』の名は伊達じゃないって思った。

             

            感嘆しているぼくに、軽く睨み付けたドクターは、だけど軽い溜息をついて両手を挙げた。

             

            「分かった、分かった。分かりました。全くもう・・・・・・クラウス、いいの? お世話しなくちゃなんないのが一人増えるけど」

             

             

            内心、ドクターとミュラー閣下が一緒に住まわれるのなら、ぼくはお邪魔虫な訳だし、出て行かなくてはならないかなと思っていたんだけど。

             

            そんなことを微塵も思っていないらしいドクターのお言葉に、ぼくは大きく頷いた。

             

             

             

             

            こうして、少しずつではあるけれど。

             

            ドクターは、心の傷を癒し、やがて普通にミッターマイヤー閣下ともお話が出来るようになって。

             

            そして、日に日にミュラー閣下と親睦を深めていって・・・・・・というか、ミュラー閣下の押しが、日に日に強くなっていって。

             

            「クラウス、俺とローディが結婚しても、お前は出て行く必要なんてないんだからな」

             

            なんて、プロポーズする前から嬉しいお言葉を貰う有様だった。

             

             

             

             

            やがて、諦めモードのドクターがミュラー閣下に落とされて、二人が人生最大の喜びを分かち合った夜。

             

            純白のドレスを身にまとったドクターを見れて、大満足だったぼくは、一人こっそり荷物をまとめた。

             

             

             

             

            なのに。

             

             

             

             

             

            次の朝、ぼくの綺麗にまとめた荷物は、綺麗に解かれていた。

             

            何が起きたのか、内心パニックになっていたぼくに、コーヒーを飲みながら涼しげな顔でミュラー閣下は言う。

             

            「言っただろう、俺は掃除も洗濯も得意なんだ」

             

            「はっ、はい・・・・・・」

             

            「だからお前の荷解きなど、他愛も無い」

             

            「・・・・・・」

             

            「クラウス、お前がいなくなって困る理由が二つある」

             

            「・・・・・・はい」

             

            「一つは、俺は料理が得意じゃない。無論、ローディに求めるのは愚者の行いだ。ゆえに、お前がいなくなると困る」

             

             

             

            噴出しそうになった。

             

             

             

            「もう一つは・・・・・・お前は、俺たちの家族だから。いて、当たり前なんだ。いないのは、不自然だ」

             

            「・・・・・閣下・・・・・・」

             

            じんわりと涙が浮かび上がったぼくに微笑んだミュラー閣下は、ぼくの頭にぽんと手を載せた。

             

            「これからも、ローディを護ってやってくれ」

             

            「・・・・・・はい!」

             

             

             

             

            突然言われた異動命令。

             

            若くして、抜擢された軍医殿のお守りなんて、大変だろうと思っていたけど。

             

            確かに、大変だけど。

             

            でもそれよりも、ずっとずっと楽しくて幸せで、普段じゃ学べないことをたくさん教えてもらえる。

             

            そして、何より。

             

            ドクターの傍は、とても暖かい。もう少しだけ、ここにいさせて貰えるのがとても嬉しかった。

             

            まだまだ半人前だけど。

            だけど、全身全霊を掛けて、この仕事を全うしていきたいと思った。

             

            だから。

             

            「ドクター!! 寝坊にもほどがあります。今何時だとお思いですか!?」

             

            部屋の扉を開けて、ドクターを揺さぶって。

             

            リビングから漏れる小さな笑い声に苦笑して、寝ぼけるドクターを揺さぶったぼくは、今、一生で一番貴重で大切で、幸せな時間を過ごしていることに気付いた。

             

             

            願わくば。

             

             

            ドクターも、そう思っていてくださいますように。

             

            そして一日も長く、こんな日が続きますように。

             

             

             

             

            オーディーンは、今日も晴天だ。

             

             

            今日も一日、頑張ろう。

             

             

             

             

             

            END