Cold night ...
まどかちゃんと待ち合わせしたのは、十九時。定時を回って一時間も経った時間だ。
今日は何だか忙しく、そんな時間まで待たせているのにも関わらず、全然仕事が終わらない。
気持ちは焦るのに、先に進まずにいた俺に、隣の席の石橋がPCを立ち下げて目を向けた。
「んだよ、まだやってんのか。いい加減きりのいいところで終わりにしろよ。まどか、待ってんだろ?」
分かってる。そんなこと、言われなくても。だけど、なかなかキリのいいところにならないから焦っているんだ。
そう口に出来ればいいのに、考えすぎて、思いをすぐに言葉に出来ない俺は、咄嗟に返答できず。
結果、相手に無視をしたと捉えらえれ、不機嫌にさせてしまう。
石橋は、低く舌打ちをして、
「何でこんな辛気臭い男がいいのか、まどかの気持ち、分かんね!」
と、俺に聞こえよがしに言いながら帰っていった。
俺だって、分からない。
どうしてまどかちゃんが、俺を選んでくれたのか。
ずっとずっと、好きだった。あの、入社式で出逢った日から、ずっと。
泣きそうになっている、とても綺麗な女の子。
真新しいスーツに身を包んでいる。俺と同じ、新入社員だ。
入社式の会場が変更になったせいで、迷子になっているんだと、すぐに気付いた。
それが、まどかちゃん・・・・・・山岸まどかだった。
一目惚れだった。人生初の、一目惚れ。
好きだと自覚しても、言葉に出来る訳もなく。
人と付き合うのが苦手な俺は、山岸さんと同じ部署に配属されたという幸運に恵まれたにも関わらず、
彼女に声を掛けることさえ出来なかった。
段々周りから浮いていくのが分かる。仕方ない。話しかけられても、まともに返事も出来ないんだから。
情けないけど、仕方ない。それに、俺にとっては今の状態は結構気楽だった。
誰とも無駄な話をせずに、この会社に入社した意味・・・・・・社長に恩返しをすべく、仕事に打ち込む毎日。
それなのに。誰も俺には必要最低限しか話しかけないのに、山岸さんだけは違った。
いつもにっこりと笑って、俺に挨拶してくれた。
「おはようございます、不破さん」
その笑顔は、他の社員に向けるものと変わらずに、眩しいもので。
俺はいつも、心臓がバクバクなりながら、ぺこりと頭を下げるだけだった。
返事くらい、すればいいのに。
そう周りの声が聞こえる。俺だって、挨拶を返したい。だけど、出来ない。
あまりにも恥ずかしすぎて。山岸さんの顔を、まともに見れない。
いつも、後悔していた。朝目覚めた時は、
「今日はちゃんと挨拶しよう」
と心に決めて出社するのに、結局挨拶出来ないまま、一日が過ぎていく。
そして定時になり、背後の席の山岸さんが帰りの支度を始めた頃に、俺の緊張がまた一気に高まってくる。
「お疲れ様でした」
そう言って頭を下げる山岸さんに、一言、いつも言いたかった。
「お疲れ様」
ただ、それだけでいいのに。
今日も一日、お疲れ様。俺たちのサポートをしてくれて、ありがとう。
その思いを込めて、たった一言、言うだけでいいのに。それが、出来ない。
これじゃ、山岸さんに好かれるはずもない。
諦めに似た感情で、そう思っていた俺に、合コンの誘いが掛かった。
理由は、分かっていた。石橋の引き立て役だ。
それでも、もしかしたら、山岸さんも出席するのかも。少しでも彼女の素の顔を見れたら。
それでいい。
そう思った俺は、出席をすることを決めた。
そして、合コンには願いどおり、彼女も参加していた。
にこにこと、いつものように輝く笑顔で営業の連中と話をする山岸さんを見れた。
今日は、これだけで充分だと思っていたのに。
突然立ち上がった山岸さんは、俺の隣へやってきた。
「ちょっと、そこ詰めて詰めて」
そう、言いながら。
俺は、絶句しながらも、嬉しそうに笑う山岸さんに目を奪われ続けていた。
こんな至近距離で、彼女を見れるなんて。まるで、夢の中にでもいるかのような幸福感。
なのに。
石橋が、王様ゲームで無茶なことを言い出すと、眦を上げた山岸さんは、自分のグラスに入っていたビールを一気に飲み干し、
そればかりか、俺のグラスを取り上げて、それもグイッと飲み干すと。
俺の眼鏡を、彼女のしなやかな指先が触れ、フレームを摘んでそっと外し。言葉に出来ないほど、魅惑的な微笑を浮かべて、
俺に、その綺麗な顔を寄せた。
信じられなかった。
何度も夢に見た、山岸さんとのキス。絶対に、叶わない夢だと思っていた。
その後、彼女は一気に酔いが回ったらしく、俺にべったりと抱きついて、甘えたように身体を密着させてくる。
どうしていいか分からない俺。硬直したまま、時間だけが過ぎていった。
だけど、決して無駄な時間なんかじゃない。
「好き。好きなのー。不破さん、大好きー」
酔っているから、だろう。そんな言葉を口にするのは。
そう思うようにしていた。
じゃなければ、その言葉を鵜呑みにしてしまう。誤解をしてしまう。俺は、鈍いから・・・・・・傷つくのは、きっと俺だ。
彼女が、俺なんかに惚れるはずもない。
それでも、この瞬間は俺の人生で一番幸せな時かもしれないと思っていた。
どうあっても離れてくれない山岸さんを伴って、仕方なく近くのホテルに入った。
仕方なく?本当は、嬉しいくせに。
だけど、酔っている彼女に手を出すなんてことは、俺には到底出来なかった。
皺になっては困るだろうと思い、スーツの上着だけは何とか脱がせて、布団を掛けてあげると、山岸さんは何が楽しいのか。
くすくすと笑いながら、俺の手を握って。そのまま、眠りについていった。
それを最後まで見守り、軽く息をついた俺の心の中は、満たされた思いと幸福感でいっぱいだった。
もしかしたら。
本当に、俺の想いが通じるかもしれない。
駄目だったら、潔く諦めよう。
そう決意して、眠れぬ夜を明かした・・・・・・。
慌しくPCを立ち下げた俺は、上着を着る時間も惜しくて、それを手にしたまま廊下を駆け抜けた。
走りながら、腕時計を見ると、もう十九時を半分も過ぎている。
待ち合わせしていた喫茶店に向かうと、店の入り口の横に人影がある。
まどかちゃんだ。
「ごめん・・・・・・!」
息せき切って、そう言うと、まどかちゃんはあの眩しい笑顔を浮かべて首を振った。
「ううん。お疲れ様。大変だったね」
こんな長い間待たせたのに。定時で仕事が終わった彼女にとって、一時間半は決して短い時間では無かっただろうに。
ふと、鞄を握り締めたまどかちゃんの手に触れた。
すごく、冷たい。
「まどかちゃん・・・・・・どれくらい、ここにいたの?」
そう聞くと、まどかちゃんは一瞬目線を彷徨わせ、そして照れたように俺を見上げた。
「仕事終わってから、ずっと」
「どうして・・・・・・店の中で、待っていてくれれば良かったのに」
何で仕事がもっと早く終わらなかったんだ。俺は自身を責めながら、せめてもの償いのように、両手でまどかちゃんの手を包み込んだ。
それを嬉しそうに見つめながら、まどかちゃんはぽつりと言った。
「だって・・・・・・直人さん、お仕事してるし。私、そのお手伝い出来ないから。
でも、バカね。そんなことをしても、直人さんには何の助けにもならないのにね」
胸が、締め付けられる。
まどかちゃんは、明るい笑顔を浮かべながらもよく気を回してくれるし、深く周りを考えてくれている。
その中でも、誰よりも一番俺のことを・・・・・・そう思ったら、堪らなかった。
「ごめん・・・・・・」
その他に、言葉が出なかった俺に、まどかちゃんは一瞬不思議そうに首を傾げ、そして花開いたような笑みを浮かべて。
俺にぎゅっと抱きついた。
「ま、まどかちゃん!?」
驚きすぎて、彼女の名を呼ぶ以外に言葉が出ない俺に囁く、まどかちゃんの甘い声。
「謝らないで。でも、寒い」
「う、うん。早く、店に入って温まろう?」
もう今からすぐに居酒屋にでも入ろう。そして、熱燗か何かで、身体の芯から温まろう。そう言おうとした俺に、
「ううん」
まどかちゃんは、首を振って、俺を見上げた。その眼差しは、切なげにも儚げにも見えて、俺の心臓を鷲掴みにして離さない。
「直人さんが、暖めて。少しの間でいいの。私を直人さんの熱で、暖めて・・・・・・」
どこまでも、まどかちゃんは俺を追い詰めてくる。
にこりと微笑んで、俺を限界まで追い詰めて、そして幸せな意識の混沌に落としてくれる。
俺はぎゅっとまどかちゃんを抱き締めた。通り過ぎる人々が、俺たちを見ている。
でも、構わない。
今、俺の中にはまどかちゃんと俺しか存在しないから。
「あったかい・・・・・」
腕の中で、嬉しそうに微笑むまどかちゃん。
もっともっと、暖めてあげたい。
心も身体も。
こんなに人を好きになったことなんて、今まで無かった。
その幸福を与えてくれる山岸さんに、心から感謝しながら。
俺はただ、冬の足音が聞こえるこの寒空の下で、まどかちゃんを抱き締め続けた。