第2部:資本の流通過程
第1篇:資本の諸変態とそれらの循環

第3章
商品資本の循環

W'が、貨幣資本および生産資本の循環の「産物としてばかりでなく、それらの前提としても現われる」とは?

W'が、貨幣資本および生産資本の循環の「産物としてばかりでなく、それらの前提としても現われる」とは、どういう意味か?文章はつぎのように続く。

というのは、少なくとも生産諸手段そのものの一部分が、循環している他の個別諸資本の商品生産物である限り、一資本にとってG―Wであるものは、すでに他の資本にとってのW'―G'を含むからである。[U138][91]

ある事業主が買い入れた生産手段は、同時に、その生産手段を生産している別の事業主が売り出した商品でもある。たとえば、マルクスが典型例としてあげているように、「石炭や機械など」がそれ。蒸気タービンによって稼働させられる紡績機によって糸をつむぎだしている紡績工場の事業主は、原料となる糸とその糸をつむぐ紡績機械を買い入れなければならないし、紡績機を動かす蒸気タービンの燃料である石炭を買い入れなければならないが、その「石炭や機械などは、採炭業者や資本主義的機械製造業者などの商品資本である」。

また、このあと、第2部第1章第4節における産業資本の総循環の考察を引いて、「すでにG…G'の最初の反復のさいに、すでに貨幣資本のこの第二の循環が完了するまえに、循環P…Pばかりでなく、循環W'…W'も前提されている」と続く。

第2部第1章第4節の該当部分では、つぎのようにのべられている。

G―W…P…W'―G'・G―W…P…W'―G'・G―W…P…等々

すでに循環の第二の反復にさいして、Gの第二の循環が完了するまえに、P…W'―G'・G―W…Pという循環が現われ、……他方では、Pの第二の循環が完了するまえに、最初のW'―G'・G―W…P…W'(簡略にすればW'…W')という循環……が進行している。[U99-100][67]

前半部分で指摘されているのは、貨幣資本や生産資本の循環は、その外部に商品資本の定在が前提されていなければ開始されないということ。後半部分で指摘されているのは、貨幣資本や生産資本の循環において、その反復過程のなかでは、必ず商品資本とその循環がつぎの反復の前提として現われるということ。

商品資本の循環の特徴

商品資本の循環(形態V)が他の二つの循環――貨幣資本の循環(形態T)、生産資本の循環(形態U)と区別される点とは?

流通で循環が開始されている

第一に指摘されている点は、流通W―G―Wで循環が開始されているか、そうでないかということ。

この第三の形態〔形態V〕では、対立する二つの局面をもつ総流通が循環を開始するが、他方、形態Tでは、流通が生産過程によって中断され、形態Uでは、互いに補足し合う二つの局面をもつ総流通が、再生産過程の媒介としてのみ現われ……る。[U138-139][91]

このなかでマルクスは、形態としては同形である、形態V(商品資本の循環)における流通と形態U(生産資本の循環)における流通について、それぞれ、販売と購買という二つの局面が「対立する」流通、「互いに補足し合う」流通、というように特徴をのべているのだが……。どういう意味だろうか?

出発点がつねに価値増殖された資本として現われる

第二に指摘されている点。商品資本の循環においては、その出発点がつねに価値増殖された資本として現われるということ。貨幣資本の循環や生産資本の循環では、それぞれの出発点G、Pは、第二の循環の反復以降、G'やP'というように、剰余価値をふくんだ資本としてはもはや現われず、つねに「これから剰余価値を生産すべき資本価値」GおよびP「として、機能し続け、循環を更新し」ていく([U139][92])。

これにたいして、商品資本の循環は、〔単なる〕資本価値で開始されるのではなく、商品形態において増加された資本価値で開始されるのであり、したがって、最初から、商品形態で現存する資本価値の循環だけでなく、剰余価値の循環をも含む。[U139-140][92]

つづく叙述部分はつぎのとおり。

WとしてのW'は、個々の一産業資本の循環においては、この資本の形態としてではなく、他の一産業資本――生産諸手段がこの資本の生産物である限りで――の形態として現われる。[U140][92]

ここから[97]の半ばまでの叙述部分がなぜこのような展開なのだろうか?[97]の半ばにつぎの叙述がある。

第三形態をはじめの両形態から区別するものは、この循環においてのみ、これから増殖されるべき最初の資本価値ではなく、すでに増殖された資本価値が、価値増殖の出発点として現われる、ということである。[U149][97]

この叙述まで、数ページにわたる考察・分析は、[92]で述べられた特徴づけを検証するための叙述部分なのだろうか……。いまのところその展開の意図が読解できていない叙述部分だが、とりあえずノートをすすめることにする。

「WとしてのW'」

第一の資本のG―W(すなわちG―Pm)という行為は、この第二の〔すなわち、他の〕資本にとってはW'―G'である。[U140][92]

ここで「第一の資本」というのは、「個々の一産業資本」のことだろう。ある産業資本の循環において、生産手段の買い入れという行為を分析してみると、ここで買い入れられた生産手段は、別の産業資本にとっての生産物であり、生産手段の買い入れは、この生産手段を生産した産業資本にとっては、生産物の販売である。ある産業資本にとってのG―WにおけるWは、別の産業資本にとってのW'―G'におけるW'である。「WとしてのW'」とは、このことを言っているのかもしれない。

「第一の資本」のG―Wという行為は、G―Pmであると同時にG―Aでもある。つづく叙述部分では、流通G―W<A,PmにおけるW(A,Pm)の機能が分析されている。ここでW(A,Pm)は、買い手にとっては資本価値としてではなく商品として相対している。一方、Pmの売り手にとってPmは、“買うために売るべき”生産物として売り手の手元にある資本――「資本の商品形態」([92])であり、Aの売り手にとってAは、資本ではなく「つねに商品であるだけ」([93])だ。

「第一の資本」にとってたんに商品として相対していたW(A,Pm)は、買い手が売り手から実際に買い入れ、生産資本Pの構成部分となってはじめて資本として機能する。「第一の資本」の循環においては、この経過はG―W…P…W'と表せる。

商品資本の二重性

つづけて「商品資本の二重性」がのべられる。商品資本は、第一に、使用価値という側面からみると、AとPmが生産過程を経ることによってつくりだされた生産物であり、第二に、価値という側面からみると、資本価値W(A,Pm)に生産過程で生みだされた剰余価値mがつけくわえられたものである。なお、この段落は、つぎの文からはじまっている。

それゆえ、W'は、単なるWとしては、資本価値の単なる商品形態としては、決して循環を開始することはできない。[U141][93]

「それゆえ」とは?なにゆえ?

W'―G'の逐次的実現によって分離されうる資本価値部分

これにつづけて、W'―G'の逐次的実現によって「総商品生産物が、……自立的な同質の諸部分生産物に分離できる」という分析的考察が展開されている([U141-145][93-95])が、この一連の展開は、すでに第2章でも同様の考察が行なわれていた([U105-107][71-72])。ただし、第2章の該当部分では、分離されうる剰余価値部分が分析対象となっていたが、第3章のこの一連の分析では、分離されうる資本価値部分が分析対象となっている。

W'―G'という行為がつぎつぎに行なわれる諸販売の総計で表わすことができる場合には、商品形態にある資本価値は、剰余価値が実現されるまえに、したがってW'が全体として実現されるまえに、Wとして機能することができ、W'からみずからを引き離すことができる。……資本家は、W―G―W<A,Pmを、剰余生産物の流通w―g―wのまえに遂行しうるであろう。[U141-142][93]

「価格と価値との背離」の可能性

このように、販売W'―G'の実現――総商品生産物を売り切ることで、W'を構成する不変資本、可変資本、剰余価値それぞれの生産物価値が実現されるわけだが、一方で、その販売量は買い手側の必要に依存しており、買い手側の必要は、買い手の資本構成――不変資本、可変資本、剰余価値がどのように構成されているかということに依存している。

彼が購入する分量は、彼の必要に依存する。たとえば、彼が織物工場主だとすれば、彼が購入する分量は、織物工場で機能している彼自身の資本の構成に依存するのであって、彼の糸を売る紡績業者の資本の構成に依存するのではない。[U146][95]

このような「価格と価値との背離」の可能性は当然存在するわけで、循環の進行においてはかなり決定的な問題なのだが、とりあえず、考察の現段階では、すべての商品生産物がその価値どおりに販売されることが前提されているので、マルクスはここでは、それを指摘するだけにとどめている。

生産過程にも注目した循環過程の比較分析

つづいて、今度は、総流通にくわえ生産過程にも注目して、循環過程の比較分析が行なわれている。([U147-149][96-97])

形態T、貨幣資本の循環では、生産過程は、販売局面が始まる前に終了している。「貨幣からより多くの貨幣へ」というこの循環運動は「まったく完結した事業循環であり、その結果はなににでも使える貨幣である。……G…P…G'は、一つの個別資本が事業からしりぞくときにその機能を終結させる最後の循環でもありうるし、新たに機能しはじめる一資本の最初の循環でもありうる」([96])。

形態U、生産資本の循環では、生産過程につづいて総流通過程が現われる。循環の終わりに現れるPは、生産過程ではなく、生産過程を遂行することが前提とされる生産資本形態として定在している。この循環形態Uをめぐっては、さきに第2章の最終行でつぎのような指摘があった。

生産資本の循環は、古典派経済学が産業資本の循環過程を考察する場合の形態である。[90]

第3章のこの段落で、その指摘がより詳しく展開されている。すなわち、貨幣資本の循環が価値増殖をその過程の目的にしていることを形態の上からもはっきりしめしているのにたいして、この生産資本の循環は、その形態からみて再生産過程をしめしており、その意味では必ずしも資本主義的形態に特有なものではない。したがって、

生産過程の特定の資本主義的形態を無視し、生産そのものを過程の目的として表わし、その結果、一部は生産の更新(G―W)のために、一部は消費(g―w)のために、できるだけ多量をできるだけ安く生産すべきであり、生産物をできるだけ多面的な他の諸生産物と交換すべきであるとすることを、ますます容易にする。[96]

形態V、商品資本の循環では、総流通から循環が始まり、生産過程を経て、終りにはふたたび商品資本W'が現われる。この循環もまた、形態Uと同様、再生産をしめしている。形態Uの両極が、その一般的組み合わせ(生産手段と労働力)としては必ずしも資本主義に特有のものとして現われないのと同様、形態Vの両極に現れる商品資本は「全体としての生産循環が問題になるやいなや、商品資本は商品の役をつとめるのみである」([96])。ただし、生産資本循環の両極に現れるのが、これからまさに剰余価値を生みだすべく機能する、あるいはその機能そのものをしめすPであるのにたいして、商品資本循環の両極に現れるW'は、すでに生産過程をへて生みだされた剰余生産物=剰余価値部分をふくむ商品資本である。したがって、

第三形態をはじめの両形態から区別するものは、この循環においてのみ、これから増殖されるべき最初の資本価値ではなく、すでに増殖された資本価値が、価値増殖の出発点として現われる、ということである。[U149][97]

[92]で指摘されていた商品資本循環形態の特徴が、再度確認されている。

資本関係をしめすW'が循環の出発点になっていることから導き出される循環の特徴

この価値増殖の結果としてのW'が循環の出発点になっていることでしめされる循環の特徴が、つぎに分析される。

循環の第一局面がすでに資本価値の循環と剰余価値の循環を含んでいる

第一に、W'―G'という商品資本循環の第一局面がすでに「資本価値の循環をも剰余価値の循環をも含んで」いる([97])ということ。

総生産物の消費が前提されており、最初から生産的消費と個人的消費を含んでいる

第二に、「W'…W'という形態では、総商品生産物の消費が、資本そのものの循環の正常な進行の条件として前提されて」([97])おり、「剰余生産物の蓄積されない部分の個人的消費」も「労働者の個人的消費」を含む生産的消費も、それらの全体が循環のなかにはいり込むこと。

この形態では、一方では個人的消費元本への、他方では再生産元本への社会的総生産物の配分も、この二つの元本への各個別商品資本にとっての生産物の特殊な配分も、資本の循環のなかに含まれている。[U150][98]

循環はW'がW'の生産諸要素をなす諸商品に転換されることで開始される

第三に、この「循環は、W’……が、W’の生産諸要素をなす諸商品に転換されることによって、開始される」([100])ということ。

W'…W'では、商品形態にある資本が生産の前提となっている。それは、第二のWにおいて、この環境の内部に前提としてふたたび現われる。もしこのWがまだ生産または再生産されていなければ、循環は阻止されている。このWは、大部分は他の産業資本のW'として再生産されなければならない。[U150][98]

総商品生産物が運動の出発点、通過点、終結点として実存する

このことは、すでに[92]でつぎのように指摘されていたことと重なる。

WとしてのW'は、個々の一産業資本の循環においては、この資本の形態としてではなく、他の一産業資本――生産諸手段がこの資本の生産物である限りで――の形態として現われる。[U140][92]

W'―G'・G―W…P…W'において、Wは、他の産業資本の商品生産物W'が当の産業資本、ここでは紡績業者にとっての生産諸手段商品Wとして循環にはいり込んだものである。すなわち、この循環形態では、「再生産過程の恒常的条件」として、総商品生産物が、「運動の出発点、通過点、終結点として実存し、それゆえ、つねにその場に存在」([98])している。

貨幣資本循環G…G’も、生産資本循環P…Pも、商品資本循環W’…W’も、始めの形態は終結する形態と同じであり、終結形態G’、P、W’は、それぞれの循環のなかで先行する、各循環に特有な機能的形態の転化された形態であるが、商品資本循環W’…W’においては「循環のなかでそれに先行する……機能的形態」として、始めと終わりに現れる形態と同じ形態が現われる。三つの循環系列のなかで、開始形態や終結形態と同形態の変態局面が現われるのは、商品資本循環のみである。

最終局面における転化内容のちがい

貨幣資本循環における終点のG’はW’の転化形態(W’―G’)、生産資本循環における終点のPはG’の転化形態(G’…P)であり、この転化は、どちらも「商品流通の単純な一過程……、商品と貨幣との形式的な場所変換によ」るものである([U151][99])が、商品資本循環の終点W’への転化、P…W’は、第一に、生産資本P――AとPmそれぞれの絶対的相対的大きさによって変化しうるし、第二に、「商品と貨幣との形式的な場所変換によ」るものではなく、現実に生産過程を通じて行われた価値創造、価値増殖過程の結果である。

商品生産物が循環の外部だけに前提されているか、そうでないか

また、貨幣資本循環における終点G’へのW’からの転化(W’―G’)も、生産資本循環における終点PへのG’からの転化(G’…P)も、それぞれ、循環の外部に実存するG、AおよびPm(W)が、それぞれの循環に引き入れられることで成立しているが、商品資本循環の最終局面P…W’において、W’の前提となっているP(生産過程)は流通には属さない。Pは、Pの前にすでに完了している総流通過程の結果を前提にしているが、循環の外部の商品市場に実存する商品Wが循環のなかに引き込まれるのは、その総流通過程においてである。

W'WGWPm,AW'
G'
wgw

一つは、W’―G’―W<A,PmにおけるW。二つめは、W’―G’が実現されて以降分岐する個人的消費の循環w―g―wに現われるw。これらのいずれも他の売り手の手中にある商品生産物が購買によって循環にとり入れられたものである。

このWは、Pmからなる限りでは、売り手の手中にある商品である。それが資本主義的生産過程の生産物である限りでは、それ自身商品資本である。また、そうでない場合にも、商人の手中では商品資本として現われる。[99]

さらに、支配的生産様式としての資本主義的生産様式の基礎上では、売り手の手中にある商品はすべて商品資本でなければならない。[100]

商品資本から開始された変態系列は、総流通過程を通じて、商品資本をふたたび、生産資本Pを構成する生産諸要素をなす諸商品に転換しなければならない(W―G―W(=A+Pm))が、W(=A+Pm)は終結点ではなく、これから生産過程に入るべき通過点である。この循環形態でのみ、循環の外部だけではなく内部にも、商品資本がその進行の前提として現われる。

「総資本の運動形態」としての考察

循環W’…W’は、その進行のなかでW(=A+Pm)の形態にある他の産業資本を前提しているからこそ……この循環そのものが、この循環を、次のように考察せざるをえなくする。すなわち、……すべての個別産業資本に共通な運動形態としてばかりでなく、同時に、個別諸資本の総和の運動形態すなわち資本家階級の総資本の運動形態として――個別の各産業資本の運動が、他の部分運動とからみ合い他の部分運動によって条件づけられる一つの部分運動としてのみ現われる運動として――考察するようにすることがそれである。[100-101]

ここからマルクスは、この「総資本の運動形態」という観点から、商品資本循環形態をめぐって具体的な考察をすすめている。[101]

その一。「一国の年々の総商品生産物を考察」する場合。ある部分が国内の個別事業の生産諸手段に補填され、他の部分が国民の個人消費にはいり込む運動を分析すれば、それは、その国全体の「社会的資本の、ならびに社会的資本によって生み出される剰余価値または剰余生産物の、運動形態」を考察することになる、ということ。

その二。「社会的資本は個別諸資本……の総和に等し」く、その「総運動は個別諸資本の諸運動の代数的総和に等しい」。同時に、個別資本の個々の運動を考察する場合、同じ考察対象の資本運動が、社会的資本の総運動の一部分という観点から考察した場合には異なる諸現象を呈すること。また、そのことで、個別資本の運動を個々に考察するときには、解決済みの前提としておかなければならない問題が、解決されるということ。

商品資本の循環形態がもつ独自性

つづいて、マルクスは、商品資本の循環形態がもつ独自性を指摘している。すなわち、商品資本の循環W’…W’が、「生産資本を補填する生産物部分ばかりでなく、剰余生産物を形成して平均的には一部分は収入として支出され一部分は蓄積の要素として役立つべき生産物部分も含め」た産業資本全体の運動をしめす唯一の循環形態である([101])ということ。また、商品資本循環においてW’の運動は「生産物の一般的総量の運動」であり、その運動の部分として資本価値の運動が現われるが、逆に、貨幣資本循環、生産資本循環においては、W’の運動は個々の資本の運動のなかの一契機として現われるということ。これらの独自性を確認したうえで、マルクスは、資本の運動を考察するさいには、個々の資本の変態系列が、他の個別資本の変態系列と、また、総生産物のうち個人的消費に充てられる部分と、どのように絡み合っているかを明らかにすることが必要だ、として、その「個別産業資本の循環を分析するにあたっては、主として最初の両形態〔TおよびU〕を基礎にする」([102])とのべている。

なお、マルクスは、「W’はなんらかの生産過程にふたたびはいり込みえない使用形態でも実存しうる」([102])として、「収穫ごとに計算が行なわれる農業」を例示している。マルクスの叙述から推察すると、重農主義は、市民社会の富の由来を考察するのに、農業における収支サイクルを重視したが、そのサイクルの図式が、マルクスのいう「商品資本の循環」形態に対応するということか。

図式Uでは播種が、図式Vでは収穫が出発点となる――または重農主義者たちの言うように、前者では“前貸し(アヴァンス)”が、後者では“回収(ルプリーズ)”が出発点となる。[102]

つぎに、マルクスは、商品資本の循環形態を固定化してとらえたときにおちいりがちな傾向を指摘している。すなわち、この循環形態では、市場の商品が生産過程、再生産過程の恒常的前提となっているため、生産過程の要素がすべて諸商品だけであるかのようにとらえられがちであること。このような見方は、産業資本の「生産過程の諸要素のうち、商品諸要素とはかかわりのない諸要素を見落と」してしまうこと。ここで言われる「商品諸要素とはかかわりのない諸要素」とは、たぶん、産業資本の商品生産物ではないが労働市場に属する労働力や、土地などのことを指しているのではないかと思われる。

社会的規模での再生産について

さらにマルクスは、商品資本循環形態の特徴から導き出される“再生産をめぐる命題”を提示している。一つは、生産性が不変である場合、

にもかかわらず、拡大された規模での再生産が行なわれうるのは、(外国貿易を度外視すれば)剰余生産物中の資本化されるべき部分のうちに、追加生産資本の素材的諸要素がすでに含まれている場合だけであること、したがって、ある年の生産が翌年の生産に前提として役立つ限りでは、またはこうした操作が単純再生産過程と同時に一年内に行なわれうる限りでは、剰余生産物が、追加資本として機能することができるような形態でただちに生産されること。[103]

二つは、生産性が増大する場合、

生産性の増大は、資本素材の価値を高めることなく、資本素材を増加しうるだけである。しかし、それは、そのことによって価値増殖のための追加材料をつくりあげる。[103]

三つの循環形態と経済学派

この章のさいごにマルクスは、つぎのような指摘を行なっている。

W’…W’はケネーの“経済表”の基礎になっており、彼がG…G’(重商主義が孤立させて固持した形態)と反対にこの形態を選び、P…Pを選ばなかったことは、偉大な真の見識を示すものである。[103]

これまでにも、循環形態と経済学派との“対応”に言及した箇所がいくつかあったが、ここですべてが出そろった。マルクスによると、循環形態と経済学派との対応は、つぎのとおり。

貨幣資本循環G…G’――重商主義。生産資本循環P…P――古典派経済学。商品資本循環W’…W’――重農主義。

重商主義と、それにたいする批判から生まれた重農主義、そして重農主義の影響を受けつつ発展した古典派経済学。とくに古典派経済学を批判的に継承したのがマルクスの経済学説と言われている。マルクスがしめした対応は、マルクスがしめした三つの循環形態をそれぞれ固定的にとらえた場合に対応しうる、ということだろうと思う。というのは、たとえば、ケネーら重農主義の分析ではサイクルの出発点を資本関係をふくむ生産物としては前提していないし、重商主義において貨幣の循環は、どうしてカネがカネを生むのかという要因的要素をぬきに前提とされていたし、古典派経済学における生産物循環においては、とくにこの章のなかで解説されていたとおり([96])、生産過程の資本主義的に独自な形態が見落とされ、「生産資本」とは認識されていないからだ。

逆にいうと、マルクスの三つの循環形態の考察は、価値増殖過程としての貨幣資本循環の決定的特徴をふまえ、その循環の反復あるいは総循環の有機的関連を概観しつつ、三つの循環形態それぞれを個別に分析するという、弁証法的手法につらぬかれていると言えるのではないだろうか。

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