総流通過程W'―G'―WをCkとすると、これまでみてきた三つの循環形態は、つぎのような図式に表される。
(I) G―W…P…W'―G
(II) P…Ck…P
(III) Ck…P(W')
ここでは、これらの図式――貨幣資本の循環、生産資本の循環、商品資本の循環――のすべてを総括して考察する。
すると、三つの循環過程の前提はすべて過程の結果として、過程の結果はすべて過程の前提として現われる。また、それぞれの契機が出発点、通過点、復帰点として現われる。総過程は、生産過程と流通過程との統一として現われ、生産過程が流通過程の媒介者となり、また流通過程が生産過程の媒介者となる。
三つの循環を規定する目的、推進する動機は、価値の増殖である。
資本の流通過程が、「W―Gが買い手にとってはG―Wであり、G―Wが売り手にとってはW―Gである限りでは」[104]、すなわち一般的な商品流通過程を表しているかぎりでは、「第一部 資本の生産過程、第三章 貨幣または商品流通、第二節 流通手段 b 貨幣の通流」で展開された流通する貨幣の総量にかんする諸法則があてはまる。「しかし、……社会的総資本の再生産過程における部分諸運動としての個別諸資本の循環の連関を考察するならば、この連関は、貨幣と商品との単なる形態変換からは説明されえない」[104]。
回転する円では、どの点も出発点であると同時に復帰点であるが、回転が中断されれば、どの出発点も復帰点であるとは限らない。このように、三つの循環のいずれもが他の循環を前提し、また、どの循環の反復も、他の諸形態での循環の進行を含み、「〔各循環の〕区別のすべては、単なる形態上の区別として、あるいはまた単なる主観的な、考察者にとってのみ存在する区別として、現われる」[105]。
現実には、……資本の三つの姿態の再生産形態である三つの循環は、連続的に相ならんで遂行される。たとえば、いま商品資本として機能している資本価値の一部分は貨幣資本に転化するが、それと同時に他の一部分は生産過程から新たな商品資本として流通にはいり込む。このようにしてW'…W'という循環形態が絶え間なく描かれる。他の両形態も同様である。どの形態またどの段階にある資本の再生産も、これらの形態の〔あいだの〕変態および三つの段階を通っての順次的推移と同様に、連続的である。したがってここでは、総循環は資本の三形態の現実的統一である。[105]
これまでの考察では、資本価値はその全部が貨幣資本として、生産資本として、商品資本として登場するものと想定し、最初は全部が貨幣資本であるとし、その次に全部が生産資本に転化し、最後に商品資本であるとした。この場合には、それぞれの段階の機能形態が他の機能形態を排除するので、貨幣形態にある資本がすべて生産資本に転化するまでは、総資本は貨幣資本としてのみ機能し、全部が生産資本に転化するやいなや、こんどは貨幣資本としても商品資本としても機能せず、総資本の総流通過程は中断される。一方で、総資本が流通過程で機能するやいなや、総生産過程は中断される。
実際には、このことは、運動している個々の資本部分のどれにもあてはまるのであり、資本のすべての部分は逐次この運動を経過する。……資本の循環過程は、絶え間ない中断、一段階からの離脱、次の段階への登場であり、一形態の脱ぎ捨て、他の一形態での定在である。これらのどの段階も、他の段階にとって条件となるばかりでなく、同時にまた他の段階を排除する。[106]
しかし、連続性は、資本主義的生産の特徴的標識であり、この生産の技術的基礎によって必要とされている――もっとも、この連続性は必ずしも無条件に達成しうるものではないとしても。……資本のすべての部分は、逐次、循環過程を経過し、同時に循環過程のさまざまな段階にある。このように、産業資本は、その循環の連続性において、同時に循環のすべての段階にあり、それらの段階に照応するさまざまな機能諸形態にある。[106]
すなわち、産業資本の現実の循環が三つの循環の統一であるというのは、「資本のさまざまな各部分が循環の相次ぐ諸局面を順次に通り抜けること」ができ、全体としての産業資本が「同時にさまざまな局面および機能のうちにあり」、「三つの循環のすべてを同時に経過する」ということである([107])。ここでは、資本の諸部分が次々にさまざまな段階を通ってゆく運動(資本諸部分の継起)は、資本諸部分の分割(資本諸部分の並立)によって条件付けられる。このことは、工場制度の現実の姿に対応している。
たとえば、〔分業によって〕編成された工場制度では、生産物は、絶えずその形成過程のさまざまな段階にあり、またある生産局面から他の生産局面に移行している。個別的産業資本は、ある一定の大きさ――それは資本家の資力に依存し、かつ各産業部門ごとにある一定の最小の大きさをもつ――を表すのであるから、資本の分割にあたっては一定の数的比例が存在しなければならない。現存資本の大きさは生産過程の規模を条件づけ、生産過程の規模は、商品資本および貨幣資本……の規模を条件づける。[107]
しかし、また、産業資本における生産の連続性を条件づける資本諸部分の分割(資本の「並立」)は、資本諸部分が諸局面を「継起」することで保障されている。「この並立自体は継起の結果にすぎない」。
たとえば、ある部分にとってW'―G'がとどこおり、商品が売れないならば、この部分の循環は中断されて、この部分の生産諸手段による補填は遂行されない。W'として生産過程から出てくる後続諸部分は、その先行諸部分によってその機能変換をはばまれている。こうしたことがしばらく続けば、生産は制限され、全過程は停止される。継起の停滞はいずれも並立を混乱させ、一段階での停滞はいずれも、総循環――単に停滞している資本部分のそれだけでなく、個別資本全体のそれ――における大なり小なりの停滞を引き起こす。[107]
総循環は、資本のどの機能形態にとってもそれの独自的循環として現われ、しかもこれらの循環のどれもが総過程の連続性の条件となる。……総生産過程が同時に再生産過程であり、それゆえ総生産過程の諸契機のおのおのの循環でもあるということは、総生産過程にとっての、とくに社会的資本にとっての、ひとつの必須条件である。……三つの形態のすべての絶え間ない現存は、まさにこれらの三局面を通る総資本の循環によって媒介されている。[108]
資本は全体として、同時に空間的に並立して、さまざまな局面にある。それらの形態は……流動的な諸形態であり、それらの同時性はそれらの継起〔関係〕によって媒介されている。……どの部分も絶えずそれ自身の循環を経過するが、しかしまさに資本の他の一部分がつねにこの〔所定の〕形態にあるのであって、これらの特殊的諸循環は総過程の同時的かつ順次的な諸契機をなすにすぎない。[108]
三循環の統一においてのみ、上述の中断に代わって総過程の連続性が実現される。社会的総資本はつねにこの連続性をもち、社会的総資本の過程はつねに三循環の統一をもつ。[108]
個別資本の場合は、再生産の連続性は多かれ少なかれ中断される。たとえば、価値総量が、異なる時期に、不均等に、さまざまな段階および機能形態に配分される場合。また、特殊な生産部面に応じても価値総量の配分が異なる場合。さらに、農業や漁業、季節労働など自然諸条件や慣習的事情に左右される生産諸部門において。
過程がもっとも規則的に、かつもっとも斉一的に進行するのは、工場および鉱山業においてである。しかし生産諸部門のこのような相違は、循環過程の一般的諸形態においてなんの相違をも引き起こさない。[109]
自己を増殖する価値としての資本は、……賃労働としての労働の定在にもとづく一定の社会的性格を、含むばかりではない。資本は一つの運動であり、さまざまな段階を通る一つの循環過程……である。それゆえ資本は、運動としてのみ把握されうるのであって、静止しているものとしては把握されえない。価値の自立化を単なる抽象とみなす人々は、産業資本の運動がこの抽象の“現実化”であることを忘れている。価値はここでは、さまざまな形態、さまざまな運動を経過し、そのなかで自己を維持すると同時に自己を増殖し増大する。[109]
あらゆる価値革命にもかかわらず資本主義的生産が実存しており、また実存し続けることができるのは、ただ資本価値が増殖される限りにおいて、すなわち自立的価値としてその循環過程を経過する限りにおいて、したがって、ただ価値革命がなんらかの方法で克服され調整される限りにおいてである……。
資本の諸運動は、個々の産業資本家の諸行動……として現われる。もし社会的資本価値がある価値革命をこうむれば、彼の個別資本は、この価値運動の諸条件を満たすことができないために、この革命に敗れて滅亡するということも起こりうる。
価値諸革命がいっそう急性になり頻繁になればなるほど、自立した価値の、不可抗力的な自然過程の暴力で作用する自動的な運動は、個々の資本家の予測や打算にますます打ち勝ち、正常な生産の進行がますます非正常な投機に従属し、個別諸資本の存続にとっての危険がますます大きくなる。したがって、これらの周期的価値革命は、それが反証すると称されるものを――すなわち価値が、資本として身につけ、かつ自己の運動を通して維持し強化していく自立化を、確認する。[109]
「価値の自立化を単なる抽象とみなす人々」のなかでとくに、ベイリーの主張が批判されている。ベイリーは「価値は同時に存在する諸商品のあいだの関係である。なぜなら、このような商品のみが相互に交換されうるからである」〔[110]〕、すなわち、価値は商品間の関係であって、独自の実体はない――と主張している。それにたいして、マルクスは、価値が、資本として、その循環のさまざまな局面を「同時的にではなく継起的に」機能し、それを通じて保存され、増殖することを指摘し、ベイリーの主張では、この資本の存在自体が説明できないと批判している。
価値諸関係が不変な場合にのみ、過程はまったく正常に進行する。循環の反復中に諸撹乱が相殺される限り、過程は実際に〔正常に〕進行する。諸撹乱が大きければ大きいほど、相殺を待つことができるために、産業資本家はますます大きな貨幣資本をもたなければならない。そして、資本主義的生産の進行のなかで各個別生産過程の規模が拡大され、またそれにつれて前貸しされるべき資本の最小限の大きさが拡大されるのであるから、右の事情は、産業資本家の機能をますます個々のまたは結合した大貨幣資本家たちの独占に転化させる他の諸事情に、合流する。[111]
循環の定式を純粋に考察するために、商品が価値どおりに販売され、価値諸関係が不変な場合を想定する。たとえば生産資本循環形態P…Pを考察するさい、生産資本を減価させうる技術革新を度外視し、また、商品資本在庫の価値の上昇または低下への作用を度外視する。そのうえで、原材料などの価値が上昇するとすれば、貨幣資本を追加しなければならなくなり「貨幣資本が拘束され」、また、他方、原材料などの価値が低下するとすれば、貨幣資本は過剰になり「貨幣資本は遊離される」。このように、原料、補助材料などの生産諸要素に価値変動が生じる場合の、形態G…G'と、形態P…PおよびW'…W'とのあいだの区別を考察してみる。
形態G…G'で、生産諸要素の価値が低下すれば、事業を開始するための資本投下額は、価値低下の前よりも少なくなる。その逆の場合、生産諸要素の価値が上昇すれば、事業を開始するための資本投下額は価値上昇の前よりも大きくなる。
どちらの場合にも、新たに投下されるべき貨幣資本の数量だけが影響を受ける。与えられた生産部門において、新たな個別産業資本の増加が通常の仕方で進行する限り、第一の場合には貨幣資本は過剰になり、第二の場合には貨幣資本は拘束される。[111]
形態P…PおよびW'…W'では、生産諸要素の価値変動は、最初の投資(新しい投資)にではなく、再生産過程中にある資本に影響を及ぼす。「すなわち、諸商品からなる限りでの生産諸要素への商品資本の再転換であるW'…W<Pm,A」が影響を受ける。[112]。
商品資本の補填諸要素の価値が低下する場合には、まず、「拡大された規模での生産」(現実の「蓄積」)や剰余価値の蓄積元本への転化は行なわれずにこれまでの貨幣資本の一部分の積み立てが行なわれ、再生産過程は同じ規模で続行される。または、技術革新による再生産過程の規模の拡大が、より大規模に行なわれる。あるいはまた、生産諸要素の在庫形成がよりいっそう行なわれる。
商品資本の補填諸要素の価値が上昇する場合には、まず、再生産過程は正常な規模では行なわれず、労働時間の短縮などに反映する。あるいは、もとの規模で再生産を続行するための追加資本が入り込む(貨幣資本の拘束)。または、蓄積用貨幣元本が存在する場合、その全部または一部分がもとの規模での再生産を続行させるために役立たされる。この場合は追加資本は貨幣市場からではなく、産業資本家自身の資金から出てくる。
形態P…PおよびW'…W'では、次の諸事情も起こりうる。すなわち、生産資本の大きな部分が、たとえば綿花在庫の形態で存在する場合、綿花価格の下落によって、生産資本の一部分は減価され、綿花価格が上がれば、生産資本の一部分の価値は上昇する。他方で、商品資本の大きな部分が、たとえば綿糸在庫の形態で存在する場合、綿花価格の下落によって商品資本の一部分が減価され、したがって商品資本の補填諸要素の一部分が減価される。綿花価格が騰貴する場合にはその逆が起こる。
商品資本が生産諸要素へ再転換する過程W'―G―W<Pm,Aにおいて、Wの諸要素の価値変動が、商品資本の実現W'―Gよりもあとに起こったならば、さきに見たように資本は第二の流通行為G―W<Pm,Aにおいてのみ影響される。他方、Wの諸要素の価値変動が、商品資本の実現W'―Gよりも前に起こったならば、生産資本価格の下落は商品資本価格の下落を引き起こし、生産資本価格の騰貴は商品資本価格の騰貴を引き起こす。
貨幣資本の遊離および拘束は、同じくまた、流通過程の継続時間の長さの相違、したがってまた流通速度の相違からも生じうる。[113]
ここでマルクスは、世界市場について、その形成の必然性、原理的根拠について言及している。
資本主義的生産様式が発展し、優勢な時代には、生産諸手段を構成する商品は、他人の商品資本として機能するから、流通過程において、売り手の立場からはW'―G'すなわち商品資本から貨幣資本への転化が行なわれる。しかし、このことがいつもあてはまるわけではない。むしろ、産業資本が貨幣として、商品として機能する流通過程と、「きわめてさまざまな社会的生産様式」(=非資本主義的生産様式)の商品生産物の流通とが交錯し、非資本主義的生産様式の商品生産物は、産業資本のとる貨幣形態、商品形態にたいして、商品、貨幣として相対し、商品資本の流通にはいり込む。産業資本の流通過程を特徴づけるのは、商品生産物の商品としての多方面的性格であり、商品市場の世界市場としてのあり方なのである。
産業資本の循環と非資本主義的生産様式の商品流通との交錯において、産業資本の再生産のためには、非資本主義的生産様式の商品の補填が不可欠であって、その限りでは資本主義的生産様式は非資本主義的生産様式に制約されているといえる。しかし、まさに、資本主義的生産様式は、非資本主義的生産様式の商品生産物を、みずからの流通過程に引き入れるのであり、そうすることで、非資本主義的生産様式の商品生産をますます発展した商品生産へ転化させて行き、資本主義的生産様式を支配的にしてゆく。
産業資本の流通過程にはいり込む商品は、それらがどのような社会的生産様式の生産過程由来のものであろうと、すでに商品資本、商品取引資本または商人資本の形態で、産業資本そのものに相対する。商品取引資本または商人資本は、その本性上、あらゆる社会的生産様式の商品を包括する。
資本主義的生産様式は、大規模生産を前提し、したがって大規模販売を前提している。「すなわち、個々の消費者への販売ではなく、商人へのそれを前提する」[114]。
この消費者が、生産的消費者である産業資本家であるとき、すなわち、ある生産部門の産業資本が他の生産部門に生産諸手段を供給するときには、直接販売も注文の形態などで行なわれる。
資本主義的生産様式のもとでは商人資本の機能としての商品取引は、資本主義的生産の発展につれてますます発展する。
ここでマルクスは、シスモンディの考察(彼の著作『新経済学原理』からの引用)を例証に、「商人の介在は運動のさまざまな契機を隠蔽する」[114]ため、資本主義的流通過程の一般的分析においては、商人の介在しない直接販売を仮定すると断っている。
マルクスはここで、資本の流通過程の考察にあたって、信用貨幣を除外し、金属貨幣を取り上げることを断っている。また、購買手段としても支払手段としても機能する金属貨幣ではあるが、簡単にするために、一般にこの第二部では、購買手段としての機能形態を取り上げることも断っている。
第一に、これが歴史の歩みである。信用貨幣は資本主義的生産の最初期にはなんの役割も演じないか、または取るに足りない役割を演じるだけである。第二に、この歩みの必然性は……理論的にも立証されている。すなわち、これまでトゥックその他の人々によって展開されてきた信用貨幣の流通にかんする批判的研究のすべては、単なる金属流通の基礎上では事態がどのように現われるであろうかという考察に幾度となく繰り返し立ち返ることを彼らに余儀なくした……。[116]
資本の流通過程が一連の単純な流通過程をなしている限りでは、「第一部 資本の生産過程、第三章 貨幣または商品流通、第二節 流通手段 b 貨幣の通流 および 第三節 貨幣 b 支払手段」で展開された一般的商品流通の諸法則によって規定されるが、資本の流通過程が、個別産業資本の循環の機能的に規定された諸部分をなしているかぎりでは、これらの一般的諸法則は妥当しない。
流通過程一般の系列としては、流通過程はW―GとG―Wという商品変態の二つの反対の系列を表すにすぎない。商品所有者の側のW―Gは、買い手の側のG―Wであり、W―Gでの商品の第一の変態は、Gとして登場する商品の第二の変態である。G―Wの場合ではその逆である。この商品変態のからみ合いは、資本家が商品の買い手および売り手として機能する限りでは資本流通にもあてはまるが、同時に、諸資本の諸変態のからみ合いの表現であるわけではない。
第一に、G―W(Pm)は、さまざまな生産部門に属する産業資本の反対の変態、資本の変態系列のからみ合いを表わしうるが、同時に、Gが転換されていくPmは、商品資本、すなわち産業資本の機能形態である必要はなく、資本家によって生産される必要はなく、必ずしも資本の諸変態のからみ合いであるとは限らない。さらに、G―A、労働力の購入では、労働力は最初から資本であるわけではなく資本家に販売されてはじめて資本になるのであって、資本の諸変態のからみ合いを表わしはしない。他方、W'―G'では、G'は、労働力という商品の貨幣化(労賃)であったり、非資本主義的生産様式によって生産された生産物の貨幣化であったりするわけで、必ずしも産業資本の機能形態としての商品資本であるわけではない。
第二に、個別資本の流通過程の内部で生じるそれぞれの変態が、他の資本の循環のなかでそれに対応する反対の変態を表わすものであるとは決して言えない。このことは「世界市場の総生産が資本主義的に営まれていると前提する場合にも」([118])言える。
たとえば、循環P…Pでは、W'を貨幣化するG'は、買い手の側では彼の剰余価値の貨幣化でしかないこともありうる(商品が消費物品である場合)。または、G'―W'<Pm,A(すなわち、ここへは資本は蓄積された資本としてはいり込む)では、G'は、Pmの売り手にとっては彼の前貸資本の補填としてのみ彼の資本流通にはいり込むこともありうるし、または、もはやまったくはいり込まないこともありうる――すなわち、このG'が収入の支出に分岐する場合にはそうである。[118]
したがって、社会的総資本の異なる構成諸部分――個別諸資本は、この総資本の、自立的に機能する構成諸部分であるにすぎない――が、資本にかんしても剰余価値にかんしても、どのようにして流通過程で相互に補填されるかは、資本流通の諸過程が他のすべての商品流通と共通にもつところの、商品流通の単なる諸変態のからみ合いからは、明らかにならない……。[118]
産業資本の循環過程の、したがってまた資本主義的生産の、もっとも明白な独自性の一つは、一方では、生産資本の形成諸要素が商品市場に由来し、また絶えず商品市場からあらためて商品として購買されなければならないという事情であり、他方では、労働過程の生産物が商品として労働過程から出て行き、絶えず新たに商品として販売されなければならないという事情である。……
そういう観点から、現物経済、貨幣経済、および信用経済が社会的生産の三つの特徴的な経済的運動形態として互いに対置されることになった。[118-119]
〔マルクスは、ここでドイツ旧歴史学派の代表者の一人、ブルーノ・ヒルデブラントの国民経済三発展段階説を批判している。……〕
第一に、「貨幣経済」と「信用経済」、これら二つの名称は「いずれも生産者たち自身のあいだの交易機能または交易様式を表わしている」のであるが([119])、そうであるならば、ここでいう「信用経済」は、これ自体が「貨幣経済」の一つの形態ということになる。さらに、発展した資本主義的生産では、貨幣経済は信用経済の基礎として現われるにすぎない。このように、貨幣経済と信用経済とは資本主義的生産の異なる発展段階に照応するものであって、「現物経済」に対立する異なる交易形態ではない。すなわち、この三つの形態は同格のカテゴリーではない。
第二に、「貨幣経済」と「信用経済」、これら二つのカテゴリーを区別する標識として強調されるのは、生産過程そのものではなくて、それに照応する交易様式である。したがって、いわゆる「現物経済」というカテゴリーの場合にもそれを適用するとすれば、むしろ、「交換経済」と呼称すべきだろう。そうなると、交易機能または交易様式の存在しない生産社会は、三つのいずれのカテゴリーにも当てはまらなくなってしまう。
第三。「貨幣経済」はすべての商品生産に共通である。資本主義的生産を特徴づけるのは、その商品生産が生産の一般的形態となるということなのであるが、しかし、資本主義的生産がますますそうなるのは、労働力が商品として現われ、労働者が自己の労働力をその再生産費によって規定される価値で販売するからである。「労働が賃労働になるのに応じて、生産者は産業資本家になる」([119])。資本家と賃労働者とは、生産そのものに内在する一関係として買い手と売り手との貨幣関係を形成するが、この関係は、生産の社会的性格にもとづくのであって、交易様式の社会的性格にもとづくのではない。「生産様式の性格のうちに生産様式に照応する交易様式の基礎を見る」([120])べきなのである。
資本家が貨幣の形態で流通に投げ入れる価値は、〔貨幣の形態で〕流通から引き出す価値よりも少ない。なぜなら、彼が商品の形態で流通に投げ入れる価値は、商品の形態で引き出した価値よりも多いからである。彼が、単に資本の人格化として、産業資本家として、機能する限りでは、商品価値の彼による供給は、商品価値にたいする彼の需要よりもつねに大きい。……実際、彼は「彼が買ったよりも高く売ら」なければならないが、彼がこれに成功するのは、まさに、資本主義的生産過程を媒介として、価値がより小さいためにより安い商品を買って、価値がより大きく、したがってより高い商品に、転化したからにほかならない。彼がより高く売るのは、彼の商品の価値以上に売るからではなく、彼の商品の生産諸成分の価値総額以上の価値をもつ商品を売るからである。
資本家が彼の資本を増殖する率は、彼の供給と彼の需要との差額が大きければ大きいほど、すなわち彼が供給した商品価値が、彼の需要する商品価値を超える超過が大きければ大きいほど、ますます大きい。両者の一致ではなく、できる限りの不一致が、彼の供給が彼の需要を超過することが、彼の目的である。[120-121]
資本家の需要は、生産諸手段と労働力にたいする需要である。生産諸手段にたいする彼の需要は、彼の前貸資本の価値よりも小さい。労働力にたいする需要は、彼の総資本に対する彼の可変資本の割合(v:C)によって規定されており、比率から見れば、労働力にたいする需要は生産諸手段にたいする需要よりもますます小さくなる。労働力にたいする資本家の需要は、間接的には、労働者の消費にはいり込む消費諸手段にたいする需要である。労働力にたいする資本家の需要は、生産の進歩につれて、生産諸手段にたいする彼の需要よりもだんだん小さくなる。
資本家の需要の最大限はC=c+vであるが、彼の供給はc+v+mである。したがって、もし彼の商品資本の構成が80c+20v+20mであれば、彼の需要は80c+20vであり、したがって価値の点から見れば彼の供給よりも1/6だけ小さい。彼によって生産されるmの総量の百分率(利潤率)が大きければ大きいほど、彼の需要は彼の供給に比べてますます小さくなる。[121]
Pmにたいする彼の需要は、日ごとに計算〔平均〕すれば、つねに彼の資本よりも小さい……。したがって、生産諸手段にたいする彼の需要は、彼にこの生産諸手段を供給するところの、同等の資本を使いまたそのほかの点でも同じ事情のもとで仕事をする資本家の商品生産物よりも、その価値の点でつねに小さいものとならざるをえない。たくさんの資本家がいて一人ではないということは、事態をなんら変えるものではない。彼の資本が1000ポンド・スターリングで、その不変部分は800ポンド・スターリングであるとしよう。そうすると、〔生産諸手段供給者である他の〕資本家たち全体にたいする彼の需要は、800ポンド・スターリングである。彼らは、1000ポンド・スターリングにつき……利潤率が等しい場合には、合計して1200ポンド・スターリングの価値をもつ生産諸手段を供給する。したがって、価値の大きさから見れば、彼の需要は彼らの供給の2/3にあたるにすぎず、他方、彼自身の総需要は彼自身の供給の5/6にすぎない。[122]
彼の総資本が5000ポンド・スターリングで、そのうち4000ポンド・スターリングが固定資本、1000ポンド・スターリングが流動資本であるとしよう。上述の仮定に従えば、この1000は800c+200vである。彼の総資本が年に1回回転するためには、彼の流動資本は年に5回回転しなければならない。そうすれば、彼の商品生産物は6000ポンド・スターリング〔4000c+(800c+200v)+(200m×5)〕であり、したがって彼の前貸資本よりも1000ポンド・スターリングだけ大きく、資本と剰余価値の比率はやはり前の場合と同じになる――すなわち、5000C:1000m=100(c:v):20mである。したがって、この回転は、彼の総需要の、彼の総供給にたいする比率を少しも変えず、前者は後者よりも依然として1/6小さい。[122]
彼の固定資本は10年で更新されなくてはならないとしよう。すなわち彼は、年々1/10すなわち400ポンド・スターリングを償却する。そのため、彼はいまではもう、固定資本での3600ポンド・スターリングの価値、プラス、貨幣での400ポンド・スターリングの価値、をもつにすぎない。修理が必要であり、そしてそれが平均程度を超えない限り、それは、彼があとになってはじめて行う資本投下でしかない。われわれは事態を次のように見ることもできる。すなわち、彼は、彼の投下資本――それが毎年の商品生産物にはいり込む限りで――の価値評価にあたって、修理費もあらかじめ計算に入れているので、修理費は1/10の償却のなかに含まれている、と。……いずれにしても、彼の総資本の回転が年1回ならば、彼の年需要は依然として5000ポンド・スターリングで、彼の最初の前貸資本価値に等しいとはいえ、この需要は、資本の流動部分にかんしては増加し、他方、資本の固定部分にかんしては絶えず減少する。[122]
さいごに、資本家は、剰余価値全部を消費して、最初の資本の大きさだけをふたたび生産資本に転換するものとする。彼の総需要は彼の総供給と価値の点で等しくなる。資本の運動としては、彼は、価値の大きさから見て彼の供給の5/6しか需要せず、1/6を彼の私的欲求のために消費することになる。上述されているように、資本の人格化としての産業資本家の目的は、供給が需要を超過することであるが、「致富そのものではなく享受が推進的動機として作用するという」この前提は「産業資本家そのものが実存しないという前提に等しい」。さらに、「この前提は技術的に不可能でもある」。資本家は、価格の変動にそなえ売買に有利な市況にそなえるため準備資本を形成しなければならないし、生産拡張のための技術革新のためにも資本を蓄積しなければならない。