これまで「第1節 純粋な流通費」で見てきた、価値の単なる形態変換から生じる流通費は、商品に価値を移転せず、価値を創造しない。「〔このような流通費〕に支出される資本部分は、資本家が考察される限りでは、生産的に支出される資本からの単なる控除をな」し、「社会全体が考察される限りでは、労働力の不生産的支出をなす」。([138,139])
これから考察される流通費は、このような流通費とは性格が違う。この流通費は、「流通の内部での生産過程から生じる」費用である。
この流通費は、生産過程――この生産過程は流通において持続されるにすぎず、したがってその生産的性格は流通形態によっておおい隠されているにすぎない――から生じうる。[138]
この費用は、社会的に考察すれば、労働の不生産的支出である。しかし、個別的資本家にとっては価値形成の要因として作用し、商品の販売価格へ追加され、その程度に応じて負担が配分される。同時に、「価値をつけ加える労働はすべて剰余価値をもつけ加えることができ」るから、「商品に使用価値をつけ加えることなしに商品を高くする費用、したがって社会にとっては生産の“空費”に属する」この流通費は、個別資本家にとっては致富の源泉となる。
生産物は、市場において商品資本として滞留するあいだ、商品在庫を形成する。「商品資本は各循環において二度現われる」。一度は、その循環過程中の商品生産物として、もう一度は、市場において他人の商品生産物として。あとのほうの商品資本は、注文をうけてからの生産という一定の中断が起こりうるが、一般的に生産過程は、市場における多量の生産諸手段商品の在庫を必要とする。
「過程進行中の資本価値の立場に立つならば」、形態変化W'―G'にとっては、この商品在庫が「売れるのが速ければ速いほど、再生産過程はそれだけ滞りなく進」み、滞留すれば、資本の機能続行をさまたげる「目的に反する非自発的な市場滞留」となる。他方、G―Wにとっては、商品在庫の存在は、「新資本または追加資本の投下の条件」、再生産過程の条件となる。
商品在庫は、それを保管するために必要な不変資本(「建物、倉庫、商品貯蔵所、商品保管所」)と可変資本(「貯蔵所に運び入れるため」、商品を腐朽から防ぐための労働力)の投下を必要とする。これらの費用は、生産部面には属さないために、流通費に数えられるが、「一定の範囲内で商品の価値にはいり込み、したがって商品を高価にするという点で、第一節で述べた流通費とは区別される」([140])。同時に、これら投下される不変資本と可変資本は、「社会的生産物のうちから補填されなければなら」ず、社会的には「労働の生産力の減少と同じように作用する」空費である。
商品在庫形成に必要とされる流通費は、単に形態転化の停滞、あるいは形態転化の必要から生じるのではあるが、それは、価値の形態転化のためではなく価値の維持のために費やされるということから、「純粋な流通費」と区別される。
使用価値はここでは高められも増加されもせず、逆にそれは減少する。しかし、その減少が制限され、使用価値は維持される。前貸しされて商品のなかに実存する価値も、ここでは高められない。しかし、新たな労働――対象化された労働および生きた労働――がつけ加えられる。[141]
さて、このような流通費はどの程度まで商品生産一般、および資本主義的商品生産の独自な性格から生じるのだろうか。また他方では、これらの流通費はどの程度まで社会的生産に共通なのだろうか。さらにまた、これらの流通費は資本主義的生産の内部で、どの程度まで特殊な形態をとるにすぎないだろうか。考察をすすめてみよう。ちなみに、
アダム・スミスは、在庫形成は資本主義的生産に特有な現象であるという荒唐無稽な見解を述べた。もっと最近の経済学者たち、たとえばレイラーは、逆に、在庫形成は資本主義的生産の発展につれて減少する、と主張する。シスモンディは、これを資本主義的生産の一つの暗い面とさえみなしている。[141]
いずれにしろ、まず、在庫はつぎの3つの形態で存在する。(1)生産資本、(2)個人的消費元本、(3)商品在庫または商品資本。これらは、一方の形態で増加すれば、他方の形態で相対的に減少するが、絶対的にはすべての形態において同時に増大することもありうる。
生産がもっぱら自家需要の充足に向けられていて、交換または販売のための生産が比較的わずかである場合は、生産物の圧倒的部分が、商品在庫を形成することなしに、生産諸手段または生活諸手段の在庫に転化される。アダム・スミスは、「在庫の形態を在庫そのものと混同し」、「在庫形成は生産物の商品への転化および消費用在庫の商品在庫への転化からはじめて生じる」と思い込んでいたために、このような、商品在庫としてではない、個人的消費元本の形態での在庫の存在を見すごしてしまったのである。
生産資本の形態での在庫は、すでに生産過程にある生産諸手段の形態で存在する。それ以前のどの生産様式にもまして労働の生産性を発展させる資本主義的生産様式の発展につれて、労働過程のなかで繰り返し機能する、建物、機械などの労働諸手段である生産諸手段の総量は絶えず増大する。また、労働の生産力の上昇につれて、再生産過程にはいり込む原料、補助材料などの生産諸手段の総量は増大する。すなわち、これら、原料のほか、種種さまざまな加工段階にある労働材料、補助材料などは、生産場所に準備されていなければならず、これらの在庫の規模は、絶対的に増大する。
生産資本の在庫の大きさを決めるのは、原料の必要総量が中断なしに常時供給される、速度と規則正しさと確実さであり、この条件が満たされるほど在庫量は相対的に小さくなる。すなわち、資本主義的生産が発展すればするほど、したがって社会的労働の生産力が発展すればするほど、生産資本の在庫は相対的に減少する。
生産資本の形態での在庫の減少として現われるものの一部は、商品資本の形態での在庫の増加、すなわち、同じ在庫の単なる形態変換でしかない場合がある。レイラーなどは、これを見誤った。
これまでみてきた、生産資本、個人的消費元本、商品資本の3つの形態の在庫は、生産物が流通過程のなかで経過する形態変化から生じる。在庫がこの3つの形態のいずれであろうと、その保管のためには費用がかかるが、これらの費用は、在庫が社会的に集中する度合いに応じて相対的に小さくなる。この支出は、社会的労働の一部分であり、社会的生産物からの控除をなす。また同時に、この支出は、社会的生産物の維持費であって、すべての社会に共通な必要経費である。
この保管費は、どの程度まで商品の価値にはいり込むのだろうか。
資本家にとっては、彼の前貸資本をふくむ商品資本の滞留は、彼の資本の自己増殖の停滞であるだけでなしに、この在庫の維持のために追加支出しなければならないリスクである。おまけに、滞留期間が長ければ長いほど、その在庫は競争相手より安値で売らざるを得ない。このことは、彼が商品所有者であれば、資本家であろうと商人であろうと関係なく、同じ条件下にある。このリスクは、彼の個人的負担に属す。なぜなら買い手が彼に、保管のために費やした代価を支払うわけではないからである。もしも、彼が価格変動を予測して、意図的に在庫を抱える期間をなしたとしても、リスクは彼自身の負担に帰す。「在庫形成が流通の停留である限り、それによって生じる費用は商品になんらの価値もつけ加えない」([147])。
一方では、商品が流通するための準備在庫がなければ流通自体が実存しえない。さらに、商品資本の停留が市場で生じていることが、再生産のための生産諸手段と労働力を(それゆえ、労働力の再生産のための生活諸手段とを)市場に求める資本家にとってはつねに必要である。
在庫形成が自発的であるか非自発的であるかということは、事態の本質にどうかかわるのだろうか。あるいは、自発的な在庫形成と非自発的な在庫形成とのちがいとは何か。在庫の非自発的な形成は、商品生産者の意志をさまたげる流通停滞から生じる。では、自発的な在庫形成を特徴づけるものはなにか。
生産者自身は、生産に直接左右されないように、そして恒常的な顧客の範囲を確保するために、自己〔の商品〕にたいする平均需要に照応する在庫高をもとうとつとめる。生産期間に照応して購入期限が形成され、そして商品は、同種の新品によって補填されうるまで、長かれ短かれの時間にわたって在庫を形成する。[148]
このような意識的自発的な在庫形成によってのみ、流通過程を含む再生産過程の恒常性と連続性が保障される。
商品在庫が、在庫……の商品形態にほかならない限りにおいては、在庫の維持に必要な費用、したがって在庫形成の費用……も、社会的生産元本のにせよ社会的消費元本のにせよ、それの維持費の単に変形されたものにすぎない。この費用が引き起こす商品価値の引き上げは、この費用をただ“案分して”さまざまな商品に配分するだけである。……在庫形成の費用は、たとえそれが社会的富の一つの実存条件であっても、依然として社会的富からの控除である。[149]
在庫形成の費用は、(1)生産物総量の量的減少〔目減りなど〕(たとえば穀粉在庫の場合)(2)品質の悪化(3)在庫の維持に必要とされる対象化された労働および生きた労働、からなる。[150]
商品在庫が商品流通の条件であり、しかも商品流通のなかで必然的に発生した一形態でさえある限り、したがって、貨幣準備金の形成が貨幣流通の条件であるのとまったく同様に、この外観上の停滞が流れそのものの形態である限り……においてのみ、この停滞は正常である。これに反して、流通貯水池に滞留する諸商品が、あとから追いかけてくる生産の波に席を譲らず、したがって、この貯水池があふれるようになるやいなや、貨幣流通が停滞すれば蓄蔵貨幣が増大するのとまったく同様に、商品在庫が流通停滞の結果、膨張する。……その場合には、商品在庫は中断のない販売の条件ではなく、商品の販売不可能の結果である。費用は同じままであるが、しかし、いまやこの費用は純粋に形態から……生じるのであるから、それは商品の価値にははいり込まず、控除を、価値の実現における価値損失をなす。[149]
ただし、正常な在庫と異常な在庫とは、形態上からは区別されず、同様に流通の停滞による現象として混同されうる。また、商品生産者にとっては、商人の手にある商品在庫の膨張いかんによらず、自己の資本の流通過程は進行しうるので、生産当事者自身も錯覚しうる。さらに、生産および消費の規模が膨張すれば、商品在庫の規模も膨張し、以前と同じ速さで更新され吸収されるとしても、在庫の規模はより大きくなるから、「流通停滞によって膨張する商品在庫の規模が、再生産過程の拡大の兆候であるかのように見誤られうる――信用制度の発展につれて現実の運動が神秘化されうるやいなや、とくにそうなりうる」([150])。