第2部:資本の流通過程
第2篇:資本の回転

第10章
固定資本と流動資本とにかんする諸学説。
重農主義者たちとアダム・スミス

重農主義者ケネーは、農業に使用される資本だけが生産的資本だとみなしていた。彼は、借地農場経営者の投下する資本を「原前貸し」と「年前貸し」とに区別したが、これは正確に、それぞれ、固定資本と流動資本との区別に対応している。まず、この区別は、生産資本の内部の区別として述べられている。また、これらの生産への前貸し(生産資本)は、貨幣(貨幣資本)にも諸商品(商品資本)にも対立するものとして規定されている。さらに、この区別は、それらの補填または更新の仕方のちがいに対応するものとされている。

たいして、アダム・スミスは、ケネーが借地農場経営者の投資の内部の区別として規定し、それゆえ農業由来の年ごとの回転と多年にわたる回転との区別とした規定を、それぞれ時間がちがう回転の一般的な区別とした。こうして、スミスは、農業的生産資本だけでなく、資本一般にカテゴリーを拡張し、「原前貸し」を「固定資本」、「年前貸し」を「流動資本」と言い換えた。

A・スミスが行なう唯一の進歩は、諸カテゴリーの一般化である。……その解明においてはケネーよりもはるかに後退している。スミスが研究を始めると、たちまちその粗雑な経験的方法が不明確さをもち込む[190]

これ以降、マルクスは、スミスの著作『諸国民の富』を引用して、「粗雑な経験的方法」によるスミスの混迷を指摘している。

「資本がその使用者に収入または利潤をもたらすように用いられるのには、二つの異なる仕方がある」『諸国民の富』〔岩波文庫、(二)、236ページ〕

スミスは、価値が資本として機能するように投下されうる仕方として、「固定資本」「流動資本」の2つのカテゴリーをあげたわけだが、そもそも、資本がその所有者に剰余価値をもたらすように投下されうる仕方というのは、たいへん多様である。それに、こういうふうに定式化すると、「では、その価値が生産資本として投下されない、利子生み資本や商人資本などは、どのようにして所有者にとって資本として機能しうるのか」という問題が新たに生まれてくる。いずれにしろ、「固定資本」と「流動資本」との区別はそれらの補填または更新の仕方のちがいに対応するという、ケネーが少なくとも正確に規定していた到達点にたった分析という点では、一歩も深まっていない。むしろ焦点は別の方へそれてしまっている。

「第一にそれ〔資本〕は、財貨を調達し、加工し、または購買し、ふたたびそれを売って利潤をあげるのに使用されうる」〔同前〕

スミスはここで、資本が生産資本として機能しない部面である商業をもふくめて、資本のさまざまな投下部面のことを述べている。このことで、すでに、スミスは、ケネーが生産資本内部の区別として規定したカテゴリーの基礎を放棄しており、この点でケネーよりも後退している。

「商人の財貨は、それを売って貨幣と引き換えるまでは、彼になんの収入または利潤ももたらさないし、またこの貨幣にしても、それがふたたび財貨と交換されるまでは右と同様に彼になんの収入ももたらさない。彼の資本は、つねにある一つの形で彼の手を離れ、もう一つ別の形でその手に帰ってくるのであり、それが彼にある利潤をもたらすことができるのは、このような流通〔流動〕、言い換えれば連続的交換のおかげによってだけなのである。そのために、このような資本は、きわめて適切に流動資本と呼ぶことができるであろう」〔同前〕

スミスはここで、流通部面で機能する資本のことを述べている。これを彼は流動資本と言っているのであるが、我々がマルクスから学んできたカテゴリーをあてはめれば、彼が流動資本と呼んでいるものは、いわゆる流通資本――貨幣資本および商品資本である。これらは、資本価値がその循環過程において身につけていく形態上の区別である。彼はそれを、生産資本の諸要素がそれらの価値を生産物に移転する様式のちがいから生じる形態上の区別と、混同している。すなわち、生産資本と流通部面にある資本(貨幣資本、商品資本)との区別と、固定資本と流動資本との区別の混同である。彼は固定資本について次のように述べる。

「第二にそれ」(資本)「は、土地の改良に使用されうるし、もろもろの有用な機械や職業上の用具の購入にも使用されうる。言い換えればそれは、主人を替えることなしに、すなわち、もうそれ以上流通することなしに収入または利潤をもたらすような諸物に使用されうる。それゆえ、このような資本は固定資本と呼ばれるのがまったく適切であろう。職業が違うと、それらに使用される固定資本と流動資本とのあいだの割合も非常に違ったものになる必要がある。……あらゆる手工業の親方または製造業者の資本のある部分は、彼の職業上の用具に固定されなければならない。とはいえこの部分は、ある職業では非常に小さく、他の職業では非常に大きい。……しかし、すべてのこのような手工業の親方たち」(裁縫師、靴屋、織物業者のような)「の資本のはるかに大きな部分は、彼らの職人たちの賃銀か、または彼らの材料の価格のいずれかとして流通し、製品の価格となって利潤とともに払いもどされる」〔同前〕

時にスミスは、たいへん適切に2つのカテゴリーを規定する。「職業が違うと、それらに使用される固定資本と流動資本とのあいだの割合も非常に違ったものになる必要がある」。ここでは、正確に、固定資本と流動資本は、同じ生産資本の異なる部分である。しかし、彼が銘々した「固定」資本というカテゴリーの名称にとらわれて、彼自身が混迷する。

スミスは、土地の改良、機械や「職業上の用具」に投下される資本を固定資本としている。その理由は「主人を替えることなしに」、「それ以上流通することなしに」、利潤をもたらすからである。「資本のある部分は、彼の職業上の用具に固定されなければならない」。構成部分がその持ち主を替えずに価値が生産物にはいり込む、すなわち、価値ははいり込むが素材的にはいり込まないという点では、労働力も、補助材料も、そう言える。労働者は生産物にたいして自立性を保っているし、補助材料は、全部が消費されてしまう。さらには、生産過程での「固定性」は、つねに、労働諸手段だけではなく、原料や補助材料、労働力を発揮する労働者などに求められる。労働者はもちろんのこと、生産諸手段は生産部面に一定期間滞留していなければ、その機能を果たせない。ちがうのは、生産過程におけるその構成諸部分の補填または更新のサイクルである。固定資本は流通部面にはいり込まない資本価値であるというスミスの定義の誤りは、彼の流動資本の定義にも影響している。スミスは固定資本に対比しながら、流動資本について次のように述べる。

「こういうふうに使用される資本は、それがその使用者の所有にとどまっているか、または同じ姿態をもち続けているあいだは、その使用者になんの収入または利潤ももたらさない」〔同前、(二)、236ページ〕

スミスはここで、流通内部で機能する商品資本の商品流通に属する形態変換(販売・購買)と、生産資本の諸要素が生産過程で通り抜ける物体的な変態とをごちゃまぜにする。生産過程で機能する資本が固定資本なら、流通過程で機能する資本は流動資本である、というわけである。

スミスは、生産諸手段の外見上の「固定性」にまどわされて固定資本をあやまって規定したが、少なくとも、生産諸手段の一部分が、現物形態を変えず、少しずつ消耗することで労働過程で役立つということを言わんとしていた。一方、もう一つの生産諸手段の部分である原料および補助材料は、それ自身の変化によって生産諸手段としての機能をはたすということは、彼がここで言わんとしていたことだ。だが、生産諸手段の諸要素が、労働過程において違った作用をするということは、労働過程一般において、すなわち資本主義的生産様式のもとでも非資本主義的な生産様式のもとでも見られることである。固定資本と流動資本の区別で決定的なことは、これらの素材的に異なった部分の作用に、生産物への価値移転が対応し、さらに生産物の販売による価値の補填が対応するということである。資本が固定資本であるのは、その資本価値が労働諸手段に固定されているからではない。むしろ労働諸手段に投下された価値の一部分が労働諸手段の現物形態とともに固定されたままになっている一方で、他の部分は生産物の価値構成部分として流通するからである。

「もし、それ」(資財)「が将来の利潤を得るために使用されるならば、それはこの人」(使用者)「のもとにとどまるか、または、この人のもとを離れるか、のいずれかによって、この利潤を得なければならない。一方の場合のそれは固定資本であり、他方の場合のそれは流動資本である」〔同前、(二)、247ページ〕

ここでスミスは、固定資本は生産部面において、流動資本は流通部面において利潤を生む、と言っている。マルクスは、このスミスの叙述にたいして、「これはA・スミスの比較的優れた奥義をつかんだ洞察とまったく矛盾する」([199])と批判している。利潤(剰余価値)は労働過程においてのみ生じるという労働価値説に立脚していたはずのスミスが、ここでは、「剰余価値は流通することによって実現されるのであるから、流通からのみ生じる」という「粗雑で経験的な観念」におちいっているからである。生産物の価格においては、流動資本(諸材料、労働力)の価格も、固定資本(労働諸用具)の摩滅部分も同様に補填されるが、この補填からは利潤は生じない。さらに、スミスは、労働力(可変資本)と原料など(不変資本の流動的構成部分)を流動資本としてまとめてしまうことで、価値を移転するだけの不変資本(生産諸手段)と剰余価値を生み出す可変資本との、「価値増殖過程および剰余価値形成における両者の本質的区別」の分析に足を踏み入れられずにいる。マルクスが初めて指摘した「可変資本と不変資本との対立」を知らないまま、「固定資本と流動資本との対立」が本質的で唯一の区別であるとしたスミスの混迷は、その後の経済学者たちによって深化させられ決定づけられることとなった。

スミスは上記のように、固定資本と流動資本とを規定する一方、別の場所では、つぎのように言う。

「どのような固定資本も、流動資本を用いないで収入をもたらすことは決してできない。もっとも有用な機械や職業上の用具でも、それらによって加工される材料と、それらを使用する労働者たちの生活維持費とを流動資本が供給しなければ、なに一つ生産しないであろう」〔同前、(二)、244-245ページ〕

結局、「収入をもたらす」とか「利潤をあげる」という言い方でスミスが説明していた内容は、「固定資本と流動資本は生産物形成者として役立つ」という程度のものでしかなくなる。

別の場所では、スミスは正確に、固定資本と流動資本とのちがいを、生産資本の異なった構成諸部分の回転のちがいに関連付けている。しかし、すぐその後につづけて、「固定資本によって利潤が得られるのはそれが生産過程にとどまるからであり、流動資本によって利潤が得られるのはそれが生産過程を去って流通するからである」というまったくまちがった立場から分析をすすめてしまう。

「借地農場経営者の資本といっても、農業用具に使用される部分は固定資本であり、労働使用人たちの賃銀や生活維持費に使用される部分は流動資本である」(同前、(二)、238ページ)

「彼は、前者を自分自身の所有として保持することによって利潤をあげ、また後者を手放すことによって利潤をあげる。彼の役畜の価格または価値は、固定資本であり、それは営農用具のそれと同じである。その維持費は、労働使用人のそれと同じように流動資本である。借地農場経営者は、役畜を保有することによって、またその維持費を手放すことによって、利潤をあげる」〔同前〕

「使役するためではなく、販売するために買い入れられたり肥育されたりする家畜の価格や維持費は、いずれも流動資本である。借地農場経営者は、これらを手放すことによって自分の利潤をあげる」〔同前〕

スミスは「役畜の維持費は流動資本であり、それを手放すことによって利潤がうまれる」という。役畜の維持に費やされる飼料はそれ自体が売られるのではなく、役畜を労働用具として使用するために消費されるのである。役畜とその維持費とのちがいは、生産過程において、維持費がつねに補填されるのにたいして、役畜そのものはその一頭一頭が働けなくなるのに応じて補填されるという点にある。

スミスは、「販売するために買い入れられたり肥育されたりする家畜の価格や維持費は、いずれも流動資本である」といい、役畜は「主人」のもとにとどまっているのにたいして、肥育家畜はその手をはなれるから流動資本であるとする。ここでもスミスは、流通過程において貨幣資本や商品資本として機能する構成部分を流動資本と呼んで混同している。肥育される家畜が流動資本であるのは、それが販売されるからではなく、役畜のように用具として機能せず、原料として生産過程で機能し、全価値が飼料の価値と同様に生産物にはいり込むからである。

「種子の全価値もまた、〔もともと〕固定資本である。種子は土地と穀倉とのあいだを行ったり来たりするが、決して主人を替えはしないし、したがってそれはもともと流通もしない。借地農場経営者が彼の利潤をあげるのは、その〔種子の〕販売によってではなく、その増殖によってなのである」〔同前、(二)、238-239ページ〕

穀倉の在庫の具合に応じて、種子はある一定期限を経て補填されなくてはならない。すなわち、主人のちがう他の種子が、流通過程を経て新たに補填されなくてはならない場合が生じうる。あるいは、種子が年々の生産物から直接補填される場合がある。スミスの論理で言うと、前者の場合には、種子が流動資本となり、後者の場合には固定資本となる。「主人の変更」なるもの、あるいは、「種子はもともと流通しない」というような、表面的な分析からは、固定資本・流動資本の本質的区別には到達できない。いずれの場合にも、補填が行われるだけであり、この補填からはなんの利潤も生じない。そして、どちらの場合にも、種子は生産資本の流動的構成部分である。なぜなら、種子は、生産物を完成するためにその全部が消費されなければならず、再生産のためにはその全部を補填しなければならないからである。

A・スミスは、社会的富全体を、(1)直接的消費元本、(2)固定資本、(3)流動資本に分類し([209])、固定資本の素材的諸要素と流動資本の素材的諸要素とを逐一紹介する。彼は、固定資本・流動資本という性格が物にそなわっている性格であるかのように解している。ただし、一方で、スミスは家屋に関しては、「所有者にたいしては資本としての機能をはたすとしても、公共社会に対しては資本としての機能を果たさない」などと述べ、資本という属性は、ある物が事情に応じて身につけたりつけなかったりする一機能であるという見解を表したりする。固定資本・流動資本は、生産過程において果たす機能の違いであるから、同じ物でも、その違いに応じて、流動的構成部分であったり、固定的構成部分であったりする。家畜は、借地農場経営者にとって、役畜(労働手段)としては固定資本であり、肥育家畜(原料)としては流動資本である。また一方、同じ物が、ときには生産資本の構成部分として機能し、ときには消費元本に属することがある。家屋は、労働場所として機能する場合は固定資本の構成部分であり、住宅として機能する場合には資本の形態ではなく消費手段である。したがって、スミスの社会的富の3分類はまったく誤ったものであり、もしこのように分類を試みるなら、消費元本と資本とに分類可能ではあるだろう。

「流動資本は……それぞれの商人の手もとにあるすべての種類の食料品、材料、および完成品と、それらのものを流通させ……分配するために必要な貨幣とから成り立っている。」

「……社会の総資材が自然に分かれる3つの部分〔(1)直接的消費元本、(2)固定資本、(3)流動資本〕のうち第三の最後のものは、流動資本であり、その特徴は、それが流通することまたは主人を替えることによってのみ収入をもたらすということである。これもまた四部分から成り立つ。第一は貨幣からなり……」

「第二は、食肉処理業者、牧畜業者、借地農場経営者……が所有し、しかも彼らがその販売から利潤を引き出そうと期待している食料品の貯えからなっている。……第四で最後のものは、仕上げられ完成されてはいるが、なお商品または製造業者の手もとにある……製品からなっている」

「第三は、衣服、家具、および建物の、全然未加工か、または多少とも加工した材料のうち、まだこの三つの姿態のいずれにも仕上げられず、その栽培者、製造業者、絹織物商および服地商、材木商、大工、指物師、煉瓦製造業者などの手もとに残っているものからなっている」〔前出、(二)、243‐244ページ〕

スミスはここでも、流動資本の諸要素を数えあげるときに、生産資本だけにあてはまる固定資本と流動資本の区別を、生産資本と商品資本および貨幣資本との区別と混同している。彼が流動資本の第一にあげている貨幣は、決して生産過程で機能する資本の形態ではありえない。第二と第四で列挙されているものは商品資本として機能するものばかりである。それらは、個人的か生産的かにかかわらず最終的には消費に向けられるだろうし、それらが販売されて、買い手の手中で生産的消費が行なわれる場合、それらは固定資本であれ流動資本であれ生産資本の構成部分となるだろうが、売り手の手元にあるあいだは生産資本の要素とはなりえない。第三であげられた材料は、一方では生産者(栽培者、製造業者、煉瓦製造業者)の手のなかで機能するものとされ、他方では商人(絹織物商、服地商、材木商)の手の中で機能するものとされる。これは、生産者の手にある生産資本の諸要素と、単なる商品資本との混同・混乱である。

本来の流動資本の構成部分である労働力は、スミスの場合どこに分類されているのだろうか。労働力は商品として市場に流通するが、決して資本ではないから、商品資本という形態をとることはない。それは購買されて生産過程に合体されたときにはじめて生産資本の構成部分となる。しかし、可変資本と不変資本との区別を知らず、流動資本を商品資本と混同しているスミスにとって、労賃に投下される資本価値は、労働者がその賃金で購入する生活諸手段の形態で現われることになる。本来の剰余価値の源泉である商品、労働力は、スミスの分類では固定資本の項目の一つ(“習得された有用な諸能力”〔同前、(二)、242ページ〕)とされる。

さて、資本主義的生産のもとでは、基本的にすべての生産物が商品資本の形態として市場に流通するから、固定資本にしろ流動資本にしろ、生産資本として機能する構成部分である諸生産物も、また、直接的消費元本も、市場から、まず商品資本形態にある生産物から引きあげられる。この事情を、固定資本と流動資本の区別を、生産資本と商品資本および貨幣資本との区別と混同しているスミスは次のように述べる。

「これら四部分のなかの三者、すなわち食料品、材料、および完成品は、年々かまたはそれよりも長短いずれかの期間のうちに、流動資本のなかから規則正しく引きあげられ、固定資本か、または直接の消費用に留保される資材かのいずれかのなかに繰り入れられる。あらゆる固定資本は、もとはといえば流動資本から引き出されたものなので、また絶えずそれによって維持される必要がある。いっさいの有用な機械や職業上の用具は、本来これらの物をつくるための材料と、これらの物をつくる労働者の生活維持費とを提供する流動資本から引き出される。そのうえこれらの物は不断の修理をしておくためにも同種の資本を必要としているのである」〔同前、(二)、244ページ〕

生産的消費および個人的消費のすべての要素は、購買により商品として市場から引きあげられなければならないからといって、どの固定資本ももとは流動資本から出ているという結論にはならない。たとえば、機械はスミス的分類によれば、第四の完成品ということになるのだが、機械が労働手段すなわち固定資本として機能する前には商品資本として機能したということを意味するだけであるし、機械を製作するには、労働と原料のほかに、さらに労働諸手段、すなわち固定資本が必要なのであって、固定資本をすべて流動資本から導き出すのは明らかな誤りである。

他の産業部門のための原料や補助材料を生産する産業部門においても、それらの生産物をつくるにはやはり機械設備など固定資本が必要である。スミスは、原料の生産には流動資本だけでなく固定資本も必要なことを認め、つぎのように述べる。

「土地、鉱山、および漁場を経営するには、いずれも固定資本と流動資本との両方が必要である。そして、これらの生産物は、これらの資本ばかりでなく、その社会における他のすべての資本をも、その利潤とともにつぐなう」〔同前、(二)、246ページ〕

原料や補助材料などの生産物は、他の産業部門に供給されるが、これらの生産物の価値はそれ自身の資本価値と剰余価値を補填するにすぎず、社会的諸資本の価値を補填しはしない。スミスが後半で述べていることは明らかな誤りである。

ある商品(資本)が、労働手段としてのみ役立つように生産されたものであるならば、市場から引きあげられて、固定資本として役立たされるだろうが、ここに、その生産物の現物形態からの区別が生じる。すなわち、土地に固定されその所在地でしか利用できない形態か、そうでないか、のちがいに応じた区別である。

後者の場合、たとえば、紡績機械などの場合には、それは移動できるので、生産された国から輸出されうるし、その場合、生産された国でも輸出先の国でも、商品資本としてのみ機能したことになる。前者の場合、たとえば、工場の建物、鉄道、橋梁、トンネル、ドッグ、改良された土地などは、そのままの姿では移動できず、輸出もできない。ただし、これらの所有権原は移動できるし、輸出できる。いずれにしろ、生産者にとっては商品資本として機能するだろうが、いずれそれらが生産された国で固定資本として機能せざるをえない。

ただし、すでに指摘されていたように、固定資本は、それが動かせないということで規定されるわけではない。たとえば、船舶や機関車などは、それらの運動によってのみ役立つ。それらは生産者にとっては商品資本として機能し、その運用者にとっては固定資本として機能する。一方、生産過程にその“一生”を固定され役立たされる、運転用石炭や照明用ガスなどは、流動資本である。これらの補助材料は、商品資本として流通するだけでなく、これらの価値が生産物の価値に全部はいり込み、その生産物の販売によってこれらの価値が全部補填されなければならないからである。

さて、重農主義者たちにおいて、労賃に投下された資本部分は、“原前貸し(農業にたいする固定的投資)”に対立する“年前貸し(農業労働維持のために年々行われる支出)”のなかに入れられている。彼らの場合、いわゆる可変資本部分は、「年前貸し」の一部分として、農業労働者に与えられる生活諸手段として現われる。なぜなら、彼らにとって、労働が生産物につけ加える価値部分は、原料や労働用具などが生産物につけ加える価値部分と同様に、労働者たちに支払われ、彼らの機能を維持するために消費される生活諸手段の価値に等しいからである。重農主義者の学説の体系によれば、利潤は労働一般から生じるのではなく、農業という生産部門における“活動”からのみ生じる。

さきに見たように、A・スミスは、労働者たちの生活諸手段を流動資本として規定する。それは、まず、彼が、固定資本に対立する流動資本を、流通部面に属する資本の形態、すなわち商品資本と混同するからである。そして、次に、彼が、重農主義者たちにならい、労働者の生活諸手段を役畜の「生活諸手段」(飼料)と同列におくからである。可変資本に投下された部分は、価値形成および増殖過程における役割の点からでなく、生産資本の素材的要素からのみ区別されることになる。すなわち、「労働力に投下された価値」ではなく、「労働者の生活諸手段に投下された価値」が流動資本であると規定されることで、可変資本と不変資本の区別の把握が不可能となるのである。

対象的な生産物形成者に投下された不変資本に対立する可変資本であるというこの資本部分の規定が、労働力に投下された資本部分は回転にかんしては生産資本の流動的部分に属するという規定のもとに葬り去られる。この埋葬は、労働力の代わりに労働者の生活諸手段が生産資本の要素として数え上げられることによって完成される。[215]

このようにA・スミスが流動資本という規定を労働力に投下された資本価値にとって決定的なものとして固定したこと――重農主義者たちの前提を欠い〔て借用し〕たこの重農主義的規定――によって、スミスは、首尾よく、彼の後継者たちが労働力に投下された資本部分を可変資本として認識することを不可能にした。[216]

このスミス的混同は、後継者たちによって本質的規定として決定的なものとされ、労働者の必要生活諸手段が社会的生産物のなかで与えられた固定的制限的なものとする「労働元本」の学説の誕生に結びついた。

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