一般的に、彼〔リカードウ〕が固定資本と流動資本との区別を考察するのは、両者の割合の相違が――資本の大きさは同じとして――種々の事業部門において価値法則に影響をおよぼす限りでのことにすぎず、しかもこの事情の結果として労賃の騰落がどの程度まで物価に影響するかを、考察しているのである。しかし、この限られた研究の内部ででさえも、彼は、固定資本および流動資本を不変資本および可変資本と混同することによってきわめて大きな誤りを犯し、事実上まったく誤った研究の基礎から出発している。[226]
「固定資本の耐久度のこの差異、および二種類の資本が組み合わされる割合のこの多様性」。
「労働を維持すべき資本と、道具、機械、および建物に投下される資本とが組み合わされる割合もさまざまでありうる」。〔『リカードウ全集』I、雄松堂書店、34ページ〕
「二種類の資本」とは、固定資本・流動資本をさす。「労働を維持すべき資本」という表現に流動資本と商品資本および貨幣資本とを混同したスミスの継承が反映されているが、ここでリカードウは、労働に投下される資本を流動資本、労働諸手段に投下される資本を固定資本とする。リカードウは、スミスから受け継いだ混同により、この部分を流通過程の立場からのみ考察し、可変資本部分を流動資本と混同する。
A・スミスが、労賃に投下された資本部分とともに、流動資本としてひとくくりにしていた、労働材料に投下された資本部分は、リカードウの場合、流動資本の側にも固定資本の側にも表われない。なぜなら、第一に、流通過程から見た場合、労働材料に投下された資本部分は、労賃に投下された資本部分と同じ軌跡をたどる(価値の全部がその商品にはいり込み、その販売によって全部が補填される)ので、固定資本とは規定できないからであるし、第二に、流動資本に加えてしまうと、スミス以来、固定資本対流動資本という対立が事実上不変資本対可変資本という対立と同一視されていることと、論理的に矛盾するからである。すなわち、リカードウは、スミス的混同を彼なりに突き詰めたわけである。
しかし、労賃に投下された資本部分(可変資本)において本質的なことは、資本家が一定の与えられた価値の大きさを、価値創造的な力(労働力)と交換するということである。資本家が労賃を貨幣で支払うか生活諸手段で支払うかは、この本質的規定を変えるものではない。価値および剰余価値の発見に接近していたリカードウも、可変資本部分を流通過程からのみ考察し、固定資本と対立させるという、スミス的混同の呪縛から抜け出せなかった。このような流動資本対固定資本の対立という観点からは、投下された資本価値が生産物に移転し、生産物の販売によって再補填される、その補填の仕方のちがい、前貸価値の再現だけが問題となり、投下される価値額を資本に転化する事情はまったく度外視される。
労賃に投下された資本の現実的素材は、生きた労働――自己を発現し価値を創造しつつある労働力であり、それを購買し、資本家の資本に合体することによってはじめて、その価値は自分自身を増殖する価値に転化する。この自己増殖力は、資本家によって売られるのではない。この自己増殖力はつねに、資本家の生産資本の構成部分であって、彼が販売するはずの完成生産物のような商品資本の構成部分ではない。生産過程の内部では、労働過程の立場から見れば、労働諸手段と労働材料・補助材料は物的要因であり、労働力は人的要因としてこれに対立する。価値増殖過程の立場から見れば、労働諸手段と労働材料・補助材料は不変資本として、可変資本である労働力に対立する。労働力が作用し終われば、労働力に投下された資本価値は、剰余価値をプラスされて生産物につけ加えられた価値である。生産過程を反復するためには、生産物は販売され、それで得た貨幣でつねに新たに労働力が購買され、生産資本に合体されなければならない。すなわち、このことから、労働力に投下された資本部分にたいして、固定資本に対立する流動資本という性格が与えられる。この第二義的な流動資本という規定が逆に第一義的な規定とされるから、労賃に投下された資本部分が、素材的には、生きた労働から成り立つのではなく、労働者が自分の賃銀で買う素材的な諸要素から、すなわち社会的商品資本のうち労働者の消費にはいり込む部分(生活諸手段)から成り立つことになる。「そうなれば、固定資本は、より緩慢に朽ちていき、それゆえより緩慢に補填されなければならない労働諸手段から成り立ち、労働力に投下された資本は、より急速に補填されなければならない生活諸手段から成り立つことになる」([224])。
ところが、「固定資本・流動資本の耐久度の差異」が実はあいまいであることを、リカードウはすぐに認めている。
「労働者が消費する食物と衣服、彼が仕事をするさいの建物、彼の労働の助けとなる道具は、すべて朽ちやすい性質をもっている。しかし、これらさまざまな資本が長もちする時間には大きな差異がある。蒸気機関は船舶よりも長もちし、船舶は労働者の衣服よりも、労働者の衣服は彼が消費する食物よりも、長もちするであろう」〔同前、34-35ページ〕
「資本が急速に朽ちやすくたびたび再生産されなければならないか、あるいは緩慢に消費されるものであるかに応じて、それは流動資本の項目かあるいは固定資本の項目かに分類される」〔同前、35ページ〕
「これは本質的区分ではなく、そこに正確に境界線を引くことはできない」〔同前〕
「労働を維持すべき資本」〔前出〕について。リカードウはここで明らかに流動資本と商品資本とを混同しており、労働者が彼の賃銀で購入する生活諸手段に投下される資本として理解している。実際には、生活諸手段は商品資本の構成部分として、すなわち他人の労働生産物として、労働者を維持し、資本の再生産を維持する。
生活諸手段それ自体が流動資本であるとすれば――この流動資本が労賃に転化したあと――、さらに、労賃の大きさは流動資本の与えられた量にたいする労働者数の比率に依存する……――ということになるが、しかし実際には、労働者が市場から引きあげる生活諸手段の量も、資本家が自分の消費のために利用できる生活諸手段の量も、労働の価格にたいする剰余価値の比率に依存する。[228]
さらに、リカードウは、別の原因から生じる回転上の区別を固定資本と流動資本との区別と同一視する。
「流動資本が流通する時間、すなわちその使用者のもとに回収される時間は、きわめて違ったものでありうるということも注目されるべきである。借地農場経営者によって播種のために買われる小麦は、製パン業者によってパンを焼くために買われる小麦と比較すれば、一つの固定資本である。前者はそれを地中に放置して、一年間はなんの収益もあげえない。後者はそれを粉に挽かせ、パンとして自分の顧客に売り、そして一週間以内に自分の資本を自由にして同じ仕事を繰り返すか、またはなにか他の仕事を始めることができる」。〔同前、35ページ〕
いずれの場合にも小麦は原料であり流動資本である。リカードウは、ここで、回収のサイクルの長短のみをもって、一方を固定資本、他方を流動資本と規定しているのであるが、固定資本・流動資本を規定するのは、そればかりではなく、むしろ、価値が生産物に引き渡されるさいの様式のちがいである。