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鉛筆だよ♪
・:*:・゜☆,。・:*:・゜♪「華麗な恋の標的」♪・:*:・゜☆,。・:*:・゜
削除した原稿のご紹介


 

 突入したSWATと機動隊員によって救出された三十一人の生徒は、ほどなく、救急車で病院へ向かった喘息の一年生一人をのぞき、残りの三十人は警視庁が手配したバスで、同じ港区内にある超一流ホテルへ移動した。
 警視庁がある千代田区霞が関からもほど近いそのホテルには、事件発生直後から、人質となった生徒たちの保護者の待機室が設けられ、バンケットルームには学校関係者と解放を待ちわびる家族が集まっていた。
 厳重な警戒態勢のなか、ホテルの地下駐車場に入ったバスから降りた生徒たちは、報道陣や一般客の目を避け、警察官とホテル関係者にガードされたVIP専用の出入り口から館内へ入った。建物内にも専用の通路が設けてあり、外部の目に触れることなく、生徒たちは用意された別室に移動した。
 その部屋で、一人一人、簡単な事情聴取と問診による医師の健康診断ならびに精神面のチェックを受けたのち、家族の待つバンケットルームへ移った。
 黒岩や翠川を含めほとんどの生徒は親が来ており、そこここで我が子を涙で抱き締める光景が繰り広げられたが、紅士だけは家族の姿はなかった。紅士の迎えは、スーツ姿の見知らぬ男が二人だった。来るとは最初から思っていなかったから、驚くことも落胆することもなく、紅士は彼らにともなわれてバンケットルームをあとにした。
 部屋を出る直前、白瀬の姿を捜したが、大勢の人のなかに、その目立つ長身を見つけることはできなかった。
父の会社が差し向けた車で、紅士は豪仁寺の本宅に戻った。
そこでも義理の親兄弟の出迎えは誰一人なかった。代わりに村田と春江が門のところで待っていた。車が門の前に到着するのも待ちきれず二人は駆け寄ってきて、降りるが早いか紅士は春江の温かい腕に抱き締められた。
「ご無事でよかった、よかった……」
 春江はそう言って泣きながら紅士を抱き締め、背中をさすってまた泣いた。
「きっと大丈夫だと言ったんですがね、春江のやつ、今朝からもう、奥様の見てないところでは泣き通しで」
 そう言う村田の目にも光るものか浮かんでいる。それを隠そうと、老人はわざと陽気に言ってみせた。
 紅士は苦笑を浮かべ、小柄な春江の身体をそっと抱き返した。
「心配かけてごめん。大丈夫だよ」
 春江は咽び泣きながら何度も首を縦に振った。
「ほら、こんな門の外でみっともない」
村田が春江に言った。
「匡巳さんも困惑していらっしゃるじゃないか」
ねえ、と紅士を見上げる。
「なかに入りましょう」
 紅士は頷いた。そして、春江の肩を抱きかかえて門のなかに入った。
 男たちと車は紅士を送り届けると帰っていった。
 春江は離れに着くまで泣いていた。
 車を見送った村田が門を閉めて離れに戻ってきたとき、紅士は玄関の三和土にいて、春江はまた紅士の腕のなかでエプロンに顔を押しつけて泣いていた。
「おやまあ、まだ泣いているのかい」
 呆れたように言う村田に、
「だってね」
 そう言ったきり春江はあとが続かなかった。村田は苦笑を浮かべ、
「しょうがねえなあ。匡巳さん、お疲れになっていなさるのに。おめえがそんなにさめざめ泣いてひっついていたら、二階に上がれねえじゃねえか」
 紅士は苦笑を深めた。
「いいよ」
 ほかの生徒たちがみな、家族の愛情あふれる出迎えを受けているのを目の当たりにしたあとだけに、村田と春江の涙が嬉しかった。
 紅士は改めて春江をそっと抱き締めた。
「ありがと、春江さん」
 その優しさがまた春江の新たな涙を誘った。
「ご無事でなによりでした……」
 細い声でなんとかそれだけを言うと、春江はまたエプロンに顔を押しつけて咽び泣いた。紅士は震えているその肩を叩き、村田に顔を向けた。
男同士、春江のように泣きはしないが、村田も安堵している表情で深く頷いた。紅士も、ありがとう、と感謝をこめて、首を縦に振った。
「さあ」
 村田が春江に声をかけて、その身体を紅士から抱き取った。そして紅士に向かい、
「お腹、空かれたでしょう」
 学校から出るのと事情聴取やメディカルチェックに時間がかかって、時刻は五時を回っている。
「春江が、お昼、召しあがっていらっしゃらないかもしれないから、お戻りになられたら消化にいいものをって、オムライスの用意をしているんですがね」
「やった」
 紅士は笑顔で親指を立てた。春江のオムライスは、鶏肉やマッシュルームやグリーンピースなどの具がいっぱい入ったケチャップライスに、ふわふわとろとろの半熟オムレツが乗っていて、京都にいたときに置き屋の女将に何度か連れて行ってもらった、祇園の老舗の洋食屋も顔負けのデキである。
「あ、じゃあ、おれ、できるまで、先に風呂入ってきていい?」
「ええ、どうぞ。お疲れになられたでしょうからごゆっくりお入りなさいやし。あがられたら持ってまいりますから」
「サンキュ。じゃ、風呂いってきまーす」
 村田と春江を残し、紅士は二階にあがった。



 部屋に入ると線香の匂いがした。
 母の写真の前に、短くなった蝋燭が燈っていた。線香立てのなかでは、赤い焔が二つ、灰のなかで燃えている。その周りには、折れた線香の灰がうずたかく積もっていた。事件を知ってから、村田と春江が、無事を祈って、蝋燭と線香をあげ続けていた様子がうかがえる。
 改めて二人の温かさが心に沁みた。
 紅士は新しい線香に火をつけ、灰のなかに消えていきそうな焔の横にさした。
「ただいま」
 声をかけたが、返事は、ない。
 迎えてくれる大切な人は、もういない。
 村田と春江は優しくしてくれるが、この世に家族と呼べる人は、もう誰もいない。
 鼻の奥が痛くなり、目頭が熱くなった。
 紅士は急いで腰をあげ、バスルームに向った。
 泣き顔は見せたくない。心配するから。
それ以前に、憶えている限りで、母に泣いているところを見せたこともない。生まれたときから母一人子一人の暮らしで、父親のいる家庭がどういうものか、逆にわからないけれど、物心ついたころには、自分の家にはなにかが欠けているということは感じていた。それを埋めるために、女の人である母が毎晩座敷に出て、夜遅くまで一生懸命働いているということも、子供心に理解していた。
 実子の紅士の目から見ても、若くて、綺麗で、とても優しい女性だった母。センスがよくて、家事も得意で、家のなかはいつも綺麗だったし、小学生のころから弁当はいつもクラス一オシャレだった。そんな母が紅士にはとても自慢だった。
 だから護りたかった。男として。まだ子供で、なにもできなかったけど、それでも男として、護りたかった。そのためには強い男であらねば。強い男は泣かない。
 だが。
 バスルームのなかで、真っ二つに切り裂かれたTシャツを目にしたとたん、涙が溢れた。
 今日のできごとを含めて、この数か月間に起こったあらゆることが、脳裏を駆け巡った。
 張りつめていた気が切れた。それとともに、堰を切ったように涙が溢れる。
 紅士は顔を覆って、強化プラスチックでできたバスルームの、冷たく無機質な床にしゃがみこんだ。
「……ちくしょう…、なんでだよ……」
 世のなかの人間の大多数は普通の生活を送っているのに、なぜ自分だけが、こうも次々と不幸に遭わねばならないのか。
 たった一人の家族である母を失い、転校させられ、住む場所も生まれ育った京都のマンションから見知らぬ東京の見知らぬ人々が暮らしているなかへ。転校先での理不尽なイジメ――。
『匡巳』
 唐突に母の声が聞こえた。
『大丈夫やよ、匡巳』
 やせ細った手がやんわりと紅士の頬に触れる。
 それは末期の痛みに対する最後の手段としてモルヒネの投与で意識を失う数日前のことだった。学校帰り、いつものように見舞った紅士に向かって、そのころにはもう呼吸器が外せず、ほとんど声も出なくなっていたはずの母が、その日は穏やかに微笑み、
『お母さん、亡うなっても大丈夫や』
 なにが大丈夫なのか。そう思う紅士の頬を、母は愛しむように撫でながら、
『お母さんもね、失くしてしもうた。お父さんも、お母さんも、生まれ育った家も……。みんなみんな、失くなった……。そやけど、代わりにお母さんは、あんたを授かった。一人ぼっちのお母さんのところに、匡巳がきてくれた。大事な大事な宝物ができた……』
 宝物――。
『だからね、匡巳、お母さんが亡うなっても大丈夫。あんたにもきっと見つかる。人生の大事な大事な宝物。きっと、見つかる』
 不意に白瀬の顔が浮かんだ。
 紅士は苦笑した。
(なんであいつなんか)
 だが。
 その白瀬にむちゃくちゃな行為を強いられたというのに、不思議と嫌悪感はなかった。もちろん男同士という世間的にはまだ異端の関係に、戸惑いはあったが、なぜか嫌悪感はなかった。
 逆に感じたのは闘争心だ。
 悔しいが、今日の自分は完敗だった。勉強面でも、知能でも、ケンカでも。白瀬のほうがずっと優れている。あっけなくテロリストに縛られた自分に対して、武器の有無の差はあれど、白瀬は二人を倒した。紅士が繰り出したストレートもあっけなくかわされた。腕力でも。
 黒岩が言ったとおり、白瀬は完璧だ。
 紅士は伏せていた顔をあげた。
「……そうだよな」
 負けたくない――強く思った。このまま一方的に負け続けるのは癪だ。
 萎えていた気力が沸いてきた。
なにがあっても、負けない。
 床に座り込んでいた紅士はゆっくりと腰をあげた。

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