2000年05月07日 「ひほうかん」
それは八人で一泊旅行に出かけたときのことだった。
八人乗りのステーションワゴンは曲がりくねった海沿いの道を疾走していた。
ハンドルを握っているのは京平。途中のサービスエリアで交替した悟は助手席に座っている。瑞紀と進は進哉を真ん中にして中央のシートに座り、お兄ちゃんたちは後列。どこの家庭にも、それぞれの定位置があるだろう。彼らの場合はこの配列が暗黙の決まりだった。
オープンにしたサンルーフから五月の眩しい陽射しとさわやかな海風が車内に流れこんでくる。車窓に目を転じれば、松林のはるか下に紺碧の海原が広がっている。ドライブには絶好の日和と景色だった。
久しぶりの遠出とあいまって、子供たちは上機嫌ではしゃいでいた。
最初にそれに気付いたのは京介だった。ガードレール脇に黒いのぼりが延々と続いている。
「おい、あれ」
彼は二人の『兄弟』に声をかけて、車外を指差した。
「ひほうかん?」
のぼりに書かれていた文字を読んだ奎悟が首をかしげながら呟いた。京介は驚いた。
「奎悟、おまえあの漢字が読めるの!?」
彼らはともに小学三年生。そこにしるされていた字はどれもまだ習っていないものだった。
「だって、この前買ってもらった『インカの秘宝』のひほうだろ?」
兄弟一の優等生、奎悟はさらっと応えた。
「よく覚えていたね、奎悟」
聞いていた進が振り返って言った。奎悟は恥ずかしそうに微笑った。京介はすげえと目を見張る。
「あ、じゃあさ、そこってお宝とか飾ってンの!?」
「え・・・」
身を乗り出した京介に進は言葉に詰まった。
突然、残りの父親たちが笑い出した。
「何笑ってンの?」
京介はキョトンと尋ねた。写真集のタイトルの字は覚えていた奎悟も同じだった。
「ん・・・、うーん、お宝といえばそうなんだろうけど・・・」
何かまずいことでもあるのか、進の応えは妙に歯切れが悪い。その時、
「ちげーよ、京介」
突然、瑞波が声をあげた。
「オレ、知ってる。『ひほーかん』って京パパがいつも見てるようなエッチな写真とか飾ってンだろ?」
「え!? そーなの!?」
「瑞波!?」
進は悲鳴を上げた。
「どうして!? どこでそんなこと聞いたの!?」
「こないだ。伊豆にロケに行った時。カメラマンやディレクターが教えてくれた。あれと似たような旗がいっぱい立ってたもん」
瑞波はけろっと応えた。瀬尾瑞波くん、八才。モデルをしている。
進は頭を抱えた。一人で行かすんじゃなかったと後悔する。ディレクターもカメラマンも八才の子供に何を教えるんだ。
「エッチなしゃしんってなーに?」
進哉が隣に座っている瑞紀にこっそりと訊いた。瑞紀はニヤッと笑った。
「京平に訊いてみな」
進哉はよいしょとシートから降りた。
「シン、車が走っている時は危ないから立っちゃダメって言ってるだろ。座りなさい」
進が怖い顔で睨んだ。
「・・・・」
進哉はすごすごとまたシートに戻った。そしてボソリと一言。
「・・・鬼ばば」
これは最近保育園で覚えてきた言葉だ。気に入ってるらしい。
「シン!」
進は泣きたくなった。まったく瑞波といい、進哉といい、子供たちはどうしてこうロクでもないことばかり覚えるのだろう。それというのも、残りの三人がもっとしっかりしてくれないからだ。思わずバックミラー越しに前の二人を睨んでしまう。気配に気付いた京平と悟は顔を見合わせて苦笑いをもらしている。瑞紀はそんな二人を見て面白がっていた。彼には最初から子供を教育しようという気はない。親がなくても子は育つが彼の持論だ。おかげで進の杞憂はますます深くなる。
進のご機嫌が斜めだと察して、入ってみたいと言おうとしていた子供たちは、互いに目を見合わせあって口をつぐんだ。親の顔色をうかがって行動するのも何かと大変なのである。
かくして、その旅行中『秘宝館』の話題はタブーとなった。
ただし、お兄ちゃんたちにはあとからこっそりと京平と瑞紀による館内の説明会が開かれたとのウワサもあるが・・・・その真偽のほどは定かではない。
誰か『秘宝館』に入ったヤツ、いる?(by京介、奎悟、瑞波)
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2000年05月11日 「無題」
忙しかった日々の中、久しぶりに訪れた休日。
のんびりしようと目論んでいたら、突然の進のダウンで、子供の面倒を押し付けられそうになった瑞紀は、きれたミルクを買ってくると口実を作ってペントハウスを出た。
外苑西通りの坂を上がりながら、さて、これからどこに行こうかと思案する。とりあえず逃げ出すことが第一目標だったので、行き先は決めてない。
外はまだ少し肌寒い季節だった。通りを歩く女性たちは薄手のコートやこの春流行の色鮮やかなカシミアのストールをまとっている。
こんな日は陽射しのいっぱい入る暖かい部屋でのんびりするに限る。
性悪なオス猫はニッと笑うと、地下鉄の駅へと足を向けた。
「呆れた。それで子供を放って出てきたの?」
話を聞いた祥子は信じられないと首を振った。
「伊達くん、一人で三人も抱えたら大変よ」
「一人じゃねーよ。京もいる」
ソファに寝そべった瑞紀が平然と答える。ちっとも悪びれた様子のないオス猫に祥子は処置なしと苦笑した。
「なあ、それより」
瑞紀は片手を伸ばした。
「オレも腹へった。朝からまだ何にも食ってねーんだ」
言いながら、腕をつかんで引き寄せる。互いに向かい合う格好になった。
「おなかすいてるんじゃなかったの?」
「うん。だからミルク出ねーかなァ」
瑞紀は甘い香りのする胸に顔を埋めた。
ペチ。
「イテ」
「出ないわよ」
祥子は睨んでさっさと起き上がり、キッチンに歩いていった。
残された瑞紀は叩かれた頭を押さえながら、ニッと笑っていた。
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2000年05月26日 「木登り編」
その木は少年たちの冒険心を煽るように、少し斜めになってそそり立っていた。
「そんな危ないことしないの!」
小学生の男の子たちが一本ポプラの大木によじ登ろうとするたび、母親たちはきつい声でとがめた。
公園の真ん中に生えたポプラは、どういうわけか幹が少し傾いていた。最初の枝は地上から2メートルあまり。長身の大人の男性なら手を伸ばせば、指先が枝に触れる。冒険心の強い男の子たちには、まさに登ってみたい枝振りだった。実際、少し傾いだその幹をよじ登れば、できそうな気がした。何人もの男の子たちが、チャレンジした。だが、両手と両足を幹に回した途端、心配性の母親たちからきつい一言が飛んだ。
「ケガをしたらどうするのっ!」
その言葉の前には、彼らは何も言い返せなかった。
(・・・よし!)
高い梢を見上げていた京介は、決心した。登ってやろう。京介はまだ木登りをしたことがなかった。家の周りには緑がたくさんあったが、それは景観のための街路樹だった。それを見て、登りたいと思ったことはなかった。だが、今、目の前に生えている大木は、なぜか彼に挑戦する気を起こさせた。
京介は幹に手をかけた。葉が生い茂って影になっているせいか、幹はひんやりとしていた。両腕に力をこめ、足がかりを探した。だが、幾人もの少年たちの挑戦のせいか、幹は京介の胸の辺りまですっかり表面の皮がとれて、つるつるしていた。それでもめげずに片足を幹に当ててふんばったが、手も足もすぐにつるっと滑り落ちてしまう。
京介は何か方法はないかと幹を見上げた。手を伸ばして届くところよりほんの少し上に瘤があった。それさえつかめたら、何とか登れる。だが、ジャンプをしたが、あとわずかで届かなかった。何度挑戦しても同じだった。
京介は悔しい思いで瘤を睨んだ。
そこに奎悟と瑞波が駆けてきた。
「京介、なにやってンの?」
「いいところに来た! 奎悟、馬になってくれ!」
「は?」
「これに登るんだよ!」
ポカンとする奎悟に京介は木を指差した。奎悟と瑞波は並んで大木を見上げた。茶色い一本柱を中心にして、細い枝がまるで螺旋階段のように四方八方に広がっている。空は緑で、葉と葉の間にダイヤモンドのような光がきらきらと輝いていた。
「あそこの出っ張りをつかめたら登れそうだろ!」
京介は瘤を指差しながら言葉を重ねた。奎悟と瑞波は顔を見合わせた。京介の顔と瞳は今まで見たこともないほど生き生きと輝いていた。
冒険心は二人の少年にも伝わった。
「よし!」
二人は顔を輝かせて頷いた。
「これでいいか?」
奎悟が地面に四つん這いになった。京介はその背に靴のまま上がった。Tシャツにくっきりと跡がついた。あとで進に怒られるだろうが、この際、それは覚悟の上だ。
「大丈夫か!? 奎悟!」
「うん!」
奎悟は顔を真っ赤にしてふんばっている。京介はなるべく足に力を入れないように気をつけながら腕を伸ばした。瑞波が奎悟の負担を軽くするべく、脇から京介を支える。
だが、馬を使っても、あとほんの少しというところで、届かなかった。
「ゴメン、奎悟」
「それはいいけど・・・もうちょっとなのにな」
奎悟も起き上がって、瘤を見上げた。京介は悔しそうに拳を握り締めた。その時、瑞波が別の方法を思いついた。
「この前、オヤジたちがやってたヤツ。あれならもっと上まで届くかも」
瑞波が思い出したのは、二人が互いに向き合って、片手を相手の肩に置き、もう一方の手は自分の肘をつかんで、H型の騎馬になる方法だった。この方法で悟と京平が瑞紀を持ち上げて、天井に器具を固定していた。
「それなら一番デカイ奎悟を先にあげよーぜ」
京介が言った。
「オレが登ってどうすンの?」
「だから、奎悟が先に登って、上から瑞波を引っ張りあげるんだよ。オレも下から押すからさ。で、最後に二人でオレを引っ張ってもらう」
「できるか?」
「でもさ、奎悟が最後に残ったら、引っ張りあげれねえじゃん」
瑞波の一言で意見がまとまった。
「よし、じゃ、行くぞ」
京介の掛け声で、瑞波と京介は騎馬を作った。
子供たちの奮闘の様子を、大人たちは少し離れたところで見ていた。
「考えたな」
京平が笑いながら言った。
「京、止めてきてよ。危ないよ」
進は心配顔だった。
「大丈夫だよ。まあ見てなって」
「でも、ケガでもしたら」
言ってるうちに、子供たちは力を合わせて、全員枝によじ登った。
「やったな」
「ああ」
京平と悟は顔を見合わせて微笑った。進は枝が折れないかとはらはらしている。その時、瑞紀にまとわりついていた進哉が突然声を上げた。
「シンくんも、のぼるぅ」
「進哉はダメ!」
進は厳しい声で言った。
「どうしてぇ? シンくんものぼるの!」
「登れないだろ! 進哉はダメ!」
「イヤ! のぼる!」
「進哉!」
「まあまあ、進」
ヒステリックに叫ぶ進に、悟が苦笑しながら進哉を抱き上げた。
「頑張れるか?」
「うん! シンくん、のぼれるよ!」
進哉は得意気に応えた。
「よし!」
悟は進哉を抱いて、ポプラの大木に歩いていった。
「伊達!」
進は慌ててあとを追った。悟は大木の下に着くと、枝にまたがっている子供たちに声をかけた。
「奎悟、京介、瑞波。進哉を上げるから、頼むぞ」
「えー!? シンも登るの!?」
子供たちは驚いて声をあげた。
「ああ。ほら、奎悟、引っ張り上げろ」
悟は両手で進哉の身体を差し出した。進哉の身体は一番下の枝に届いた。
「進哉、枝をしっかり持って。離すんじゃないぞ」
「う、うん・・・」
「うわっ! ちょっと待って、お父さん!」
「瑞波、手伝え! そっち押さえて!」
「うん! ほら、来い、シン!」
三人がかりで、まだ四才の進哉を引っ張り上げる。そして、落ちないように瑞波と奎悟が左右からしっかり抱きとめた。
「進哉、大丈夫!?」
進はたまらず叫んだ。そこに、
「上がったかァ?」
のんびりと京平と瑞紀がやってきた。
「おー、シン、登れたじゃねえか。どうだ? 上は?」
「・・・こわいィ・・・」
進哉は半べそで応えた。
「だから言ったじゃないか!」
進が叫んだ。その声が聞こえたのか、周囲にいた母親たちも眉をひそめた。
「まったく、あんな小さな子を上げるなんて」
「怖がって当然よね」
「これだから男の人って。まったくどういう神経してるのかしら」
あからさまな非難は四人の耳にも届いた。だが、悟と京平と瑞紀は飄々としていた。
「大丈夫だよ、進哉。お父さんたちが下にいるから」
「さとるパパァ・・・」
落ち着いた悟の声に、進哉は下ろしてと言いかけた言葉を飲み込んだ。わかってる、と悟は頷いた。
「大丈夫だ。お兄ちゃんたちもそばにいるから。絶対落ちないから」
「おまえらしっかりシンをつかんどけよ」
京平が言った。子供たちは一層手に力を込めた。
「進哉、何が見える?」
悟に言われて、進哉は恐る恐る視線を前に向けた。次の瞬間、その目から恐怖が消えた。
「ふんすい!」
嬉しそうに叫んだ。
「おみずがあがってるの!」
大人たちは振り返った。花壇の向こうから青い空に向かって勢い欲水の柱が上がっていた。水は白いしぶきとなってきらきら光りながら四方に落ちていった。
「すげえ! 上から見たほうが綺麗だよ!」
京介も叫んだ。
悟と京平は微笑んだ。
「よかったな、進哉。綺麗な噴水が見れて」
「うん!」
進哉は満面の笑みで頷いた。
進は苦笑した。
「・・・ありがとう、伊達、京平」
彼は小さな声で言った。
「ん?」
「そうだよね。何でも危ない危ないって止めてばかりじゃ、ケガはしないかもしれないけど、感動は得られないよね。子供たち、今、本当に嬉しそうな顔をしている。オレたちの助けを借りず、自分たちの力だけで登って・・・。オレはそんな子供たちを誇りに思うよ」
そう言って、進は照れくさそうに微笑んだ。悟と京平は口元を緩めた。
だが、そんな彼らの表情は、次の瑞紀の一言で固まった。
「んで、どうやってあいつらを下ろすわけ?」
・・・腕白でもいい、逞しく育って欲しい by御木
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2000年06月15日 「入院」
奎悟が入院した。放課後、校庭のジャングルジムで遊んでいて、足を滑らし、舗装された運動場に落ちて、額を切った。眉間を5針縫うケガだった。
知らせを受けて、悟と進が病院に駆けつけた時は、治療は終っていた。頭に包帯を巻いた奎悟は二人の姿を見て、緊張の糸が切れたように大声で泣き出した。普段は滅多に泣かない子だが、いかんせん彼はまだ小学二年生だった。治療中、泣かずに耐えただけでも立派だった。
「よく我慢したね、えらいえらい」
ショックと痛みで真っ青になっている彼を抱きかかえて救急車に乗った担任が誉めた。
奎悟は進の腕の中でしゃくりあげるように泣いていた。その様子を見て、悟に抱かれた進哉が、
「おにいちゃん、いたいたなの?」
悟の顔を見ながら囁いた。悟は頷くと、
「ここのところ怪我したんだ」
進哉の小さな額を指で押した。進哉は確かめるように両手で自分の額を押さえた。
「エコーでは異常はなかったそうですが、傷が頭なので一日入院して様子を見たほうがいいと・・・」
担任が悟に告げた。
「お手数をおかけしましてすみません」
悟は進哉を抱いたまま頭を下げた。
「いいえ」
四十代中盤のふっくらとした女性教諭は急いで手を振った。
「大切なお子さんがこんなことになってしまって・・・。我々のほうこそ本当に申し訳ございません」
付き添ってきた校長も一緒に頭を下げた。放課後とはいえ、学校内で起きた事故だ。
「あの、もしなんでしたら、お仕事が終るまで私が看ていましょうか?」
奎悟の家庭の事情をよく知る担任は、遠慮がちに申し出た。だが悟は首を振った。
「これ以上、先生にご迷惑をおかけするのはなんですし。僕たちだけで何とかしますので」
進も頷いた。金曜日で二人ともまだ仕事中だったが、男ばかりの所帯だからと言って、そこまで甘えるのはさすがに気が引けた。
「そうですか・・・? あ、でも、もしお困りのことがありましたら、遠慮なく申し付けてくださいね」
自身も二人の子供を育て上げた女性教諭は心を残しながらそう言と、帰っていった。
玄関まで見送った悟は処置室に戻ると、さて、と進と顔を見合わせた。
「伊達、帰っていいよ。オレが残るから」
「だが」
奎悟に気付かれないように、おまえも仕事があるだろうと目で問い掛ける。進は曖昧に笑った。
「奎悟、お父さん帰るけど、オレでいいよね?」
顔を覗き込んで問うと、枕に頭をつけた奎悟は大きく頷いた。
「進がいい!」
悟は苦笑した。血が繋がっていても、いざという時、頼りにされるのは他人の進のほうか。しかし、無理もなかった。進は奎悟たちとって母親の代わりなのだから。父か母かと問われたら、子供の大半は母親を選択するだろう。幼い子ならなおさら。
「じゃ、夜また来るから。おとなしく寝てるんだぞ」
ベッドに寝ている我が子の顔を覗き込んで、悟は預けていた進哉を進の手から抱き取った。と、その時、
「イヤ! シンくん、ママといるの!」
進哉は進にしがみついた。
「進哉? どうしたの? オレは奎悟お兄ちゃんのそばにいなきゃいけないから、悟パパと帰りなさい」
「イヤ! ママはシンくんのママなの! おにいちゃんのパパはパパでしょ! ママはシンくんとかえるの!」
悟と進は顔を見合わせた。進哉は離されまいと進の首筋にぎゅっとしがみついた。その様子を見て、悟が言った。
「やっぱりオレが残ろうか」
「え・・・?」
その言葉を聞いた瞬間、奎悟の顔が不安そうに歪んだ。
「進・・・、帰っちゃうの・・・?」
「お父さんでもいいだろ?」
悟が言った。奎悟は応えなかった。枕に頭をつけたまま進を見上げ、しがみついている進哉を見つめ、それから悲しそうな顔で小さく、うん、と頷いた。
「奎悟・・・」
進の表情が歪んだ。兄弟の中で一番身体の大きな奎悟。自分たちは知らぬ間に彼に長男の気質を求めていないだうろか。そして求められた彼は、それに応えようといつも我慢をしている。進哉が来てからは特に・・・。
「伊達」
進はそっと進哉を差し出した。
「連れて帰って」
「進・・・」
悟はいいのかと目で訊いた。進は頷いた。
「イヤ!」
進と離されると察した進哉は悟の腕の中で激しく暴れた。
「シンくん、ママといるの! ママはシンくんのママなの!」
「シン! 言うことをききなさい!」
進は怖い顔で命令した。次の瞬間、進哉は火がついたように泣き出した。
他の患者の迷惑になるから早く連れて帰ってと進は目で合図した。悟は黙って頷いた。
「進・・・いいの・・・?」
進哉の泣き声が聞こえなくなってから、奎悟が遠慮がちに問うた。進は微笑みながら顔を寄せた。
「奎悟はそんな心配しなくていいの。今夜はずっとついてるから」
その言葉を聞いた瞬間、奎悟の顔が喜びに輝いた。
「二人っきりってはじめてだよね」
「そうだね」
微笑みながら、進は兄弟の中で一番しっかりした我が子の髪をそっと透いた。
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2000年06月18日 「すすっちと京ちゃんファンの皆様へ」
「くそー」
慣れない手つきで京平が竹竿を操っている。蜻蛉に似せたフライはふわりと水面に舞い落ち、たゆとうように下流へと流れる。最初の頃と比べたら、かなり上達したと思うのだが、目のいい川魚から見れば、まだまだ嘘臭い動きらしい。四時間粘って、まだ一匹も釣れない。
パステル鉛筆を握っていた進は孤軍奮闘している恋人の様子に微笑んだ。
梅雨空の休日。二人はまだ世の明けきらぬ前にペントハウスを抜け出て、奥多摩にやってきた。奥多摩湖から国道411号線をさらにさかのぼること1時間。そこはフライ愛好者の間では知られたポイントだった。朝早くから渓流士たちが清らかな流れに糸のように細い竿をしならせている。
京平もさっそく手に入れたばかりの竹竿に毛ばりをつけて清流に放った。バス釣り歴は8年の彼も、本格的な渓流釣りは初めてだった。前からやってみたいと思っていたところ、顔見知りの広告代理店のディレクターが使わなくなった竿があるので譲ってやろうと言ってくれた。こうして道具だけは手に入れた彼は、進を連れて、初陣に挑んだ。
だが、ルアーと毛ばりではやはり勝手が違ったようだ。澄み切った流れの中には進にも魚の姿が見えるのに、当たりどころか彼らは京平の操る毛ばりに見向きもしない。
「くそー。何が、どう違うんだよっ」
懸命に水面に落ちた虫を演じて見せる。そのすぐ真下を一匹の岩魚が体を銀色にきらめかせながら優雅に泳ぎ去った。
「あーっ!」
京平はがっくりと頭を垂れた。
進はクスクスと笑った。声を聞きつけて、京平が世にも情けない顔で振り返った。
「気にするなよ、京。深沢さんも言ってたじゃないか。『オレなんか初めて釣り上げるまで二年かかった』って」
「だってぇ・・・。京ちゃん、自信なくしそ」
「そんなに早く釣れたら、醍醐味がなくなっちゃうだろ。フライは釣り士と魚の真剣勝負なんだろ? ほら、頑張って」
「・・・」
穏やかに励まされ、京平はまた鬱々と勝負に挑む。進はすこし離れた所からその横顔を見守りながらパステルを走らせた。
膝の上に広げたスケッチブックの上には、美しい新緑の渓谷の中で釣り糸を垂れる京平の姿が描かれていた。
倉田と知り合ってから、二人だけで出かける時は進はいつもこのスケッチブックを携帯するようになった。二人でサーフィンやルアーフィッシングを楽しむ時もあったが、最近はもっぱら京平だけが竿を握って、進は絵を描いていることの方が多い。倉田の影響を受けたことは事実だが、京平との間にそれぞれのスタンスが出来てきたことも確かだった。二人で同じ時間と場所を共有しながら、それぞれが好きなことをしている。いっけん、バラバラに思える行動にも、しかし、進は前よりも深く京平の存在と安らぎを感じた。
京平も同じだろう。彼は進が絵筆を動かしている間、何を描いているんだとも、出来上がった絵を見せろとも言わない。だが、時折振り返る眼差しには、愛しい者への深い情愛と歓喜が浮かんでいた。
いくつかの山を越えて、彼らは彼らなりの色をつかみかけていた。
結局、その日、魚は一匹も釣れなかった。
「残念だったね」
慰める進の傍らで、しかし、京平は楽しそうに微笑んでいた。
「ま、こういう日もあらーな。また付き合ってくれるだろ?」
目を細めて顔をうかがう京平に、
「うん」
進は頬を染めながら頷いた。
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2000年06月20日 「無題」
奎悟は最新型の超小型ノートパソコンに携帯電話をセットした。
メールが入っていた。
『親愛なるきみたちへ』
送信主は進だった。いつ頃からか・・・、おそらく奎悟たちが成人した頃からだろう、進は彼らを「きみたち」と呼ぶようになった。愛情を込めて。それは子供から一人前の男として認めてくれた証拠だった。
メールの内容はプレゼントの到着と、お礼だった。
『瑞波のは15日に、京介のは16日、奎悟のは18日の朝に届きました。
みんなとっても喜んでいます。』
世界各地に散らばった子供たちから四人の父親への、ささやかなプレゼント。
メッセージとともにデジカメで撮った画像が十数枚、送られてきていた。それぞれが贈ったプレゼントが映っている。進哉のものもあった。最後の一枚はそれらを全部並べたテーブルを囲んで、四人の父親がピースサインをしている。
奎悟は笑った。こういうコミカルなしぐさは京平の提案だろう。瑞紀は仏頂面だ。
『きみたちが、オレたちを思ってくれているように、
オレもいつもきみたちの健康と幸せを祈っています』
進のメールに続いて、瑞波のメールが入っていた。
『今、ニースにいます。
こちらは花盛りです』
このメールにも画像が添付されていた。色とりどりの美しい花々と青い海。
『この景色を進にも見せてあげたい。
進の誕生日までには帰ります』
瑞波の次は京介からだった。
『昨夜、ブルックリンのバーで演奏しました
トニーという、こっちでは有名なベーシストとのセッションで、
もうすげえ緊張!
進の誕生日、今年は帰れそうにないけど(ゴメン!)、お祝い贈るから、期待しててください!』
京介は今、ニューヨークにいる。サックス奏者になるのが彼の夢だった。その夢をかなえるため、高校の卒業を待たずに単身渡米した。
瑞波は子供の頃からやっていたモデルの仕事を続けながら、最近、カメラに凝っている。撮られているうちに、撮る側に興味を抱いたらしい。
進哉はまだ親のもとにいて、美大に通っている。四人のうち、結局、親と同じ職種を志したのは彼だけだった。
そして奎悟は・・・。
彼は滑らかにパソコンのキーボードに指を走らせた。
『レースも中盤になって、故障車続出です。
オレも今日、左のタイヤが二度もバーストして、大幅なタイムロスをしてしまいました。
なんとかゴールに辿りつけて、ホッとしてます』
そこまで打って、奎悟はふと顔を上げた。
沈み行く太陽が広大なオーストラリアの大地を赤く染めている。
奎悟は今、プライベートチームのレーサーとして大陸を縦断している。
「ヘイ、ケーゴ」
声に振り返ると、このレースで知り合いになったアメリカ人ドライバーが立っていた。
「何を書いているんだ?」
「家族への手紙さ」
少し照れながら奎悟は応えた。
彼が子供の頃は、携帯電話は国内でしか通話ができなかったが、今は北極圏と南極圏を除く全世界で使える。200×年に世界標準が基準化されたおかげだ。
この携帯電話とインターネットによって、世界のどこにいても、家族と連絡がとれる。そう、東京でも、ニューヨークでも、ニースでも、オーストラリア大陸のど真ん中でも。
『こちらはいい天気です。
オレも進の誕生日までには帰ります。
完走を祈っていてください』
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2000年06月28日 「無題」
「嘘だろ・・・」
受話器を置いた瑞紀は頭を抱え込んだ。
時刻は午前十時半。事務所には彼以外の姿はない。三人とも仕事で出ている。瑞紀も今日は十一時から打ち合わせが入っていた。まさに出ようとした矢先、電話が鳴った。
なんとなくイヤな予感がした。外は雨。こういう時にかかってくる電話と言えば・・・。
『青山保育園ですけど。大雨洪水警報が出ましたので、今すぐお子さんを迎えに来てください』
瑞紀はため息をついた。
「保育園は働く親のためのものじゃねーのかよっ!」
仕事で世話ができないから預けているのだ。だが、この種の警報が発令されたら、保育園は休園となる。
瑞紀は降りしきる雨と五分早く出なかった自分を呪った。
すぐさま進の携帯に電話した。だが、
『おかけになった番号は、ただいま電源が切られているか、電波の届かない位置に・・・』
舌を鳴らしながら、瑞紀は赤いストップボタンを押した。そういえば進と京平はどこかでプレゼンテーションだと言っていた。悟は千葉のほうに行っている。
一瞬、このまま無視して、打ち合わせに行ってやろうかと思った。迎えが遅ければ、保母は進の携帯にでももう一度電話をするだろう。そうこうしてるうちに警報も解除されるかもしれない。
自分は関係ない。いつものように進に任せよう。
瑞紀はカバンを手にドアに向かった。
「・・・・・・・・」
だが、誰かが後ろ髪を引っ張る。
振り返ると、きちんと整頓された進のデスクが目に入った。仕事をしながら四人の子供の世話までこなしている気弱なヤツ。子供に関しては人一倍責任感を感じている彼なら、保育園から連絡が入れば、きっとまた気をもむに違いない。同時に、彼が仕事にも一生懸命なことを瑞紀は知っていた。今日のプレゼンだって、今朝の四時まで一人で準備をしていた。
「・・・・くそっ!」
ダンッ、とスチールドアに拳をぶち込んで、瑞紀は踵を返した。
「覚えてろ。この貸しはきっと返してもらうからなっ」
文句をこぼしながら、京平の机の引出しをかき回す。目的は車のスペアキー。何枚かのフロッピーの下に、ディーラーのキーホルダーがついたそれがあった。瑞紀はそのキーをつかむと、足早に事務所を出て行った。
新田は上機嫌で鏡をのぞいていた。
別室に瑞紀が来ている。彼は表のディスプレイの打ち合わせなのだが、そんなものはどうでもいい。今日こそランチに連れ出すのだ。そのために予定していたファッションデザイナーとの会食も明日に延ばした。
「悪いね、レディ。今日は付き合ってもらうよ」
とろけそうな微笑を浮かべながら彼は鏡に向かって一人ごちた。
その時、誰かがドアをノックした。
「失礼します」
秘書の声だった。彼女は新田に軽く頭を下げると、少し身体をひねって右手でドアを押さえた
「さあ、どうぞ」
「誰かいるのか?」
来客の報告は聞いてなかった新田は眉を寄せた。瑞紀なら勝手に入ってくるはずだが・・・。
「コンニチハッ!」
元気なボーイソプラノが響いた。
その姿を見た瞬間、新田はめまいを覚えた。
入ってきたのは京平の子供の京介と、悟の子の奎悟だった。さらに奎悟の背中には、赤ん坊の進哉がくくりつけられている。
「ど、どうしたんだ!?」
「瀬尾さんが打ち合わせの間、ここで遊んでいろと」
「レディが連れてきたのか!?」
「保育園が大雨洪水警報で休園になったそうです」
驚く新田に、秘書はクールに応えた。
「瑞紀がおじちゃんにご飯食わせてもらえって!」
京介が元気に声をあげた。
新田は言葉を失った。そんな彼に、
「ゴヤッカイニなります」
奎悟がペコリと頭を下げた。おそらく瑞紀が教え込んだのだろう。新田の反応はない。日頃、クールに決めている男の二目と見られぬマヌケな顔に、秘書は笑いをこらえながら、「では」と退室しようとした。
「ま、待て!」
我に返った新田が慌てて声をかけた。
「このコたちを・・・」
「私たちは忙しいんです。それに瀬尾さんは社長に預けるとおっしゃったのですし」
「しかし・・・、そうだ、瑞波は!?」
一人足りないことに気付いた。保育園が休園なら、瑞波も一緒のはずだ。
「瑞波はどうしたんだ!?」
突然振って沸いた不運だが、瑞紀にそっくりなあの子がいれば、まだ救いもあるというもの。今はまだ小粒すぎて食指が動かないが、今から自分好みに育てるのもまた一興。
「瑞波ちゃんは危険だからそばにおいて置くとのことですわ」
「・・・・・」
野望は瑞紀に見透かされていた。秘書はこれ以上ここにいて、かかわりないになるのはゴメンだと、そそくさとドアを閉めた。
残された新田は呆然と足元を見下ろした。
「オッサン、オレ、腹へった!」
京介がズボンを引っ張りながら訴えた。
「給食、食べずに帰ってきたの」
奎悟が説明する。その背中で進哉も指をくわえてもぞもぞとやっていた。
「・・・・・・・」
ああ、レディと二人っきりのランチの夢は今いずこ・・・。
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2000年06月30日 「無題」
「ママァ・・・」
日曜日。
夕食を作っていた進の足元に、三つになる息子の進哉が泣きながら駆け寄ってきた。
「シン、なに?」
この時間帯に彼がグズるのは毎度のことなので、進は声だけで応える。原因は想像がつく。隣のリビングで京介と奎悟のはしゃぎ声がしている。二人に邪険にされたか、おもちゃを貸してもらえなかったか。
彼らも普段は面倒見のいいお兄ちゃんなのだが、お腹がすいてくると進哉の相手が億劫になるのだろう。逆に進哉は四つも年下のくせに、一人前の顔をして対等に振舞おうとする。そこでしばしばケンカが発生する。
当然のことながら、負けるのはいつも進哉だ。四才の差はいかんともしがたい。かくして口でも、体格でも、知恵でも負かされた進哉は、いつも泣きながら進のところに駆け寄ってくる。
「どうしたんだ、シン」
キャベツを刻みながら、気のない口調で尋ねる。
「・・・おにいちゃん・・・」
鼻水と涙でベトベトの顔をジーンズに押し付けながら、進哉は涙声で呟いた。
「おにいちゃんがシンくんのおもちゃとったァ・・・」
「ちゃんと貸してって言った? 進哉がお兄ちゃんたちのおもちゃで勝手に遊んでたんじゃないの?」
「ちがうもん。シンくんの。シンくんのポムぷりさんだもん」
初めて進が振り返った。そしてため息をつきながら、包丁を置いてリビングに向かった。足元を進哉がチョコチョコと追いかけてくる。
隣室では京介と奎悟が床の上におもちゃをいっぱい並べて、射的ごっこをしていた。標的の一つに進哉のポムポムプリンとぬいぐるみが混じっている。
「京介! 奎悟!」
厳しい声に床に腹ばいになっていた二人は顔を上げた。
「進哉のお人形返しなさい!」
「・・・・・」
叱られた二人はバツの悪い顔で、のろのろと起き上がると、黄色いぬいぐるみを持ってきた。進哉はそれをギュッと胸に抱きしめて、進の後ろに隠れた。
「まったく・・・」
進はため息をついた。そこに悟と京平が下の事務所からあがってきた。
「どうしたんだ?」
空気が重いのを感じて、悟が尋ねた。
「あのね、おにいちゃんがシンくんのおもちゃとったの」
「あー?」
京平と悟は互いに顔を見合わせた。
「チッ」
京介が腹立たしげに舌打ちして進哉を睨んだ。進哉は慌てて進の背後に引っ込んだ。
「コラ」
京平の拳骨が息子の頭に落とされた。
「イテッ」
京介は頭を押さえて座り込んだ。同じように奎悟も悟に軽く叩かれる。
「小さい子のおもちゃをとるなんてどういうつもりだ。反省しろ」
「・・・はーい・・・」
二人は鬱々と声を揃えて返事をした。
「わかったら、奎悟も京介もここを片付けなさい。もうすぐご飯なんだからね」
進が厳しい声で命じる。二人はまた声を重ねて返事をした。
数分後。
「進ゥ・・・」
トンカツをあげていた進のところに、今度は京介と奎悟が駆け込んできた。
進は大きくため息をついた。
「今度はなに?」
「お父さんたちがオレたちがゲームしてたら、横から割り込んできて、コントローラーとった!」
「返してって言っても、待てって言って、返してくれない!」
「・・・・・・」
進の苦労はまだまだ続く・・・。
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2000年07月07日 「うふっ。」
リビングで気象ニュースを見ていた進は、階下のドアが開閉する音を耳にした。
(誰だ・・・?)
時刻は二十二時。今夜は誰も帰ってこないと思っていたのに。
「誰かいねえか!? タオル持ってきてくれ!」
事務所から上がってきたのは瑞紀の声だった。
(ウソ!? 瑞紀!?)
一番可能性の薄い人間に二度驚く。今夜は絶対、女の人の部屋に泊まると思ってた。
今日は七夕だ。
「どうしたんだ!?」
外泊しなかったのかと、こんな雨の中を帰ってきたのかと、二つの問いを口にしながら、進はバスタオルを持って螺旋階段を駆け下りた。
一年に一度、牽牛と織姫に逢瀬が許されたこの日、関東地方は台風3号の接近で、夕方から土砂降りだった。
「あーあ・・・」
瑞紀は着衣のままプールに飛び込んだごとくずぶ濡れだった。
「駅から走ってきたのか?」
髪を拭いてやりながら進は尋ねた。
「ああ」
「もう。電話くれたら、車で迎えに行ってやったのに」
「おまえに転がせるような雨じゃねえよ。前、滝みたいだぜ」
事務所がある『椿ビル』の前の外苑西通りは、青山三丁目の交差点から六本木に向けて緩やかな坂になっている。
「それでもさ。いくら夏だからって、これだけ濡れたら風邪ひくぞ」
心配げに言う進に、瑞紀はハンと笑った。
「おまえじゃねえって。それより残りの二匹は?」
「さあ・・・。遅くなるって七時ごろに電話があって、まだ帰ってこない」
「さてはデートか?」
「たぶんね」
進はさらりと相槌を打った。瑞紀は意外そうな眼差しを向けた。
「なに?」
「怒ンねーのか?」
「別に。京が誰とデートしようと、それは京の勝手でしょ」
「へえ」
瑞紀は嘲笑を浮かべた。
「なんだよ」
進は唇をとがらせた。
「いや。おまえ、浮気されたらもっとヘコむかと思ってた」
進は視線をそらせた。
「別に・・・。京にだって付き合いはあるだろ。それはオレが口出ししちゃいけない領分だもん」
言いながら、バンビアイズが少し揺れる。瑞紀に答えるというよりは、自分に言い聞かせてるような口調でもあった。
「なるほどね・・・」
瑞紀は低く一人ごちた。次の瞬間、切れ長の双眸に、ふと悪戯っぽいたくらみが浮かんだ。
「だったら今夜はオレたち二人だけなんだな」
「え?」
「悟もどうせ女とよろしくやってるんだろーし、こっちはこっちで楽しもーぜ」
「ええっ!?」
進は瞬間的に数歩あとずさった。それを見て、瑞紀は肩を揺らして笑い出した。
「み、瑞紀・・・?」
「バァーカ。おまえ相手にその気になれっかよ」
イジワルな性悪ネコはニヤニヤと笑う。からかわれたとわかって、怒るよりもまず進はホッと安堵した。それを見て、瑞紀はますます愉しげに微笑っている。そして、
「じゃ、オレは風呂入ってくるわ。後の始末、よろしくな」
進を残し、階段を上がっていった。
指差されたところを見ると、板床の上に水溜りができていた。
「・・・やられた」
進は呆然と呟いた。
水溜りを雑巾で拭いている間にも、雨はますます激しさを増していった。時々稲光とともに、凄まじい音も轟く。
雷が苦手なハウザーが大急ぎで逃げてきた。
「大丈夫だよ。家の中にいたら安心だって。それにしてもすごい雨だなー。また降り込まなきゃいいけど」
そう言った時だった。また一つ雷鳴が轟き、次の瞬間、フッと蛍光灯が消えた。室内は真っ暗になった。
「ウソ!? 停電!?」
慌てて窓に駆け寄ると、赤坂のアークタワーの光も消えていた。
「やっぱり停電だ・・・」
どこかの変電所に落ちたらしい。
「KUUUUN・・・・」
怯えたハウザーが足元に擦り寄ってきた。進は頭を撫でてやった。
「大丈夫だよ。すぐに着くから。と、その前に懐中電灯」
たしか書類棚の中に置いてたはずと、手探りで移動を試みていると、
「進ゥ・・・」
階上でかすかに瑞紀の声がした。
「灯り持ってきてくれ。何も見えねえ!」
「そうだ。瑞紀、お風呂入ってるんだっけ」
今行くと返事をしながら、進はそろそろと本棚に向かって進んだ。
何とか懐中電灯を探し出して、リビングに上がると、こちらも真っ暗だった。
「瑞紀、入るよ」
部屋の前でノックをすると、中から「ああ」と返事が帰ってきた。進は取っ手を回してドアを開けた。
中を照らすと、服や雑誌が乱雑に散らかった様子が、懐中電灯の光に浮かび上がった。それらを踏まないように気をつけながら、進は隣の悟との部屋を仕切る浴室に向かった。
瑞紀と悟の部屋は間にはさまれた浴室で繋がっている。
ドアを開けると、瑞紀はシャワーのヘッドに身体を向けて、浴槽の中に立っていた。髪を洗っていたのか、シャンプーの白い泡が背中にも伝い落ちている。
「大丈夫か?」
進が声をかけると、振り返った。
「悪ィ、手元、照らしてくれ。見えねーんだよ」
「うん」
言われたとおり、そばに行って、蛇口のあたりを照らしてやる。
「ったく、こんなときに停電するなよ」
瑞紀は文句を言いながら、蛇口をひねり、シャンプーを洗い流しはじめた。
進はその間ずっとそばに立って、懐中電灯で照らしていた。
闇に白い裸身が浮かんでいた。
綺麗な身体だった。細いが適度に筋肉があって、引き締まっていて、ピューマやチーターのようなネコ科のしなやかな野獣を思わせる。肌はきめ細かく、無駄な体毛もない。
目のやり場に困って、進は顔をそらした。男同士だし、過度に意識するのも変だと思ったが、面と向かって顔を向けられなかった。
気配に気付いた瑞紀が振り返った。
「進?」
名を呼ばれて、頬にカッと血が上った。
突然、瑞紀がクスリと笑った。
「何で顔そらしてンだよ。恥ずかしーの、進クン? 男同士だぜ」
「・・・・・・」
からかわれて、頬の熱はさらにあがった。心臓は激しく脈打っていた。
瑞紀が「ふうん・・・」と呟いた。
「じゃあ、ご期待にそって、襲っちまおーか」
言うなり、濡れた手に腕をつかまれ、進はグイッと浴槽の中に引きずり込まれた。
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2000年07月18日 「無題」
サービスエリアまで2キロの表示が出ていた。
「腹へったなァ・・・」
ハンドルを握っていた京平が呟いた。助手席の悟は腕時計に目を落とした。11時35分。夕食をとってから4時間がすぎていた。
「寄っていくか? 向こうまでまだ1時間以上かかるし」
「そうだな」
車は清里にある悟の父所有の別荘に向かっていた。
サービスエリアまで1キロの表示が立っていた。京平は車を左の車線に移した。
悟は振り返って、運転席と助手席のシートの間から後ろの様子を見た。
「どうだ?」
京平が訊いた。
「よく寝てる」
悟は微笑みながら応えた。
セカンドシートの背もたれを倒して作ったベッドで、子供たちが一枚のタオルケットにくるまってぐっすりと眠り込んでいた。一番奥に京介、次が奎悟、ドア側に瑞波。小さな進哉は奎悟と瑞波の間で、瑞波に身体をよせて眠っていた。
「いつもこうやって寝ててくれると楽なんだけどな」
悟は苦笑しながら言った。
子供はじっとしていられる時間が短い。遠出をするたび、やれたいくつだだの、まだ着かないのだの、不満の声があがる。狭い車内でケンカなぞされたときには、たまったもんじゃない。
京平も同感だと笑いながら頷いた。
「これからは夜に移動しようぜ」
一人身の時は、出かけたい時に行き、自由に行動できた。だが、子供を持つと何かと制約ができてくる。
それでも、都会育ちの子供たちに自然を味わわせたくて、二人は仕事が終ってから中央高速に乗った。進は明日、打ち合わせが入っているので、今回は六人での二泊三日の旅行だった。
夏休みが始まってはじめての週末のためか、深夜にもかかわらずサービスエリアの駐車場には、思っていた以上の車が止まっていた。
「気をつけろよ」
京平が前を行く京介と瑞波に声をかけた。
「はーい!」
二人は声だけで返事をした。こんな夜中に起きているのは初めてなので、楽しくてしょうがないのだ。真夜中のサービスエリアは、オレンジ色のライトに照らされて、昼間とは全然違ったファンタスティックな雰囲気があった。その雰囲気に誘われて、二人は車と車の狭い間から車道に飛び出した。
その時、一台の乗用車が二人の横で急ブレーキを踏んだ。
「うわっ!」
とっさに京平が二人のシャツをつかんで引き止めた。間一髪、車は二人の直前で止まった。
「・・・あぶねー」
京介が呆然と呟いた。
「すみませんっ!」
京平は車の運転手に向かって頭を下げた。運転手はジロッと三人を睨んで、走っていった。
「バッカ野郎! 気をつけろと言っただろう!」
京平はペシッと二人の頭を叩いた。
「ったく、おまえらは! 奎悟を見習え!」
「大丈夫か?」
進哉を抱いた悟がやってきた。傍らに奎悟がいる。
怒られた二人はペロッと舌を出して首をすくめると、今度は左右の安全を確かめて、建物に向かって駆け出した。その後ろ姿を見ながら京平はため息をついた。
「ったく、あいつらしまいにケガするぞ」
「ちぃちゃんときょうちゃん、イタイイタイの?」
「言うことをきかなかったらそうなるってことだ。進哉も車が通ってるところでは飛び出しちゃダメだぞ」
悟が言った。進哉はコックリと頷いた。
「シンくん、とびだしたりしないよ」
「いい子だ」
悟は上下に揺すった。進哉はキャッキャッと歓声を上げた。
「パパ、おんぶー」
「ん?」
悟と京平は顔を見合わせて微笑った。
「ほら」
京平が抱き取って、悟の背中に背負わせた。だが、
「ちがうのー。おんぶー。シンくん、ピカチウなのー」
「ピカチュウ?」
「肩車のことだろ、シン」
奎悟が言った。
「ピカチュウ、いつもそうしてるんだよ。サトシが肩車してるの」
「肩車? これでいいのか?」
悟は進哉の腕を引っ張って、肩へ引きずりあげた。進哉はニッコリ笑いながら悟の耳をつかんだ。
「イテッ。こら、シン、引っ張るな」
「シンくん、ピカチウなのー!」
ヤマなし、イミなし、オチなし。これがホントのやおい(笑)
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2000年07月23日 「マーブルチョコ」
「もうすぐご飯だから、全部食べちゃダメだよ! お兄ちゃんたちにもあげなさいね!」
リビングに進の声が響いた。
買ってもらったばかりのマーブルチョコレートを眺めていた進哉は「うー」と唸った。
銀色のメガネのマーブルチョコなのだ。筒のヤツじゃないのだ。そんなに入っていないのに。お兄ちゃんたちにあげたら、シンくんの分がなくなってしまう。
だけど進ママは、そんなこと聞いてはくれない。
「シン、お返事は?」
厳しい声で言われて、進哉は渋々「はい」と返事をした。
「約束破ったら、明日からもう買わないからね」
言わなくてもいいのにとどめをさして、進ママはキッチンに入っていった。
残された進哉は手の中のマーブルさんをじっと見つめた。
甘い甘いチョコレート。赤や青、緑、黄色。綺麗な色がいっぱい。全部自分で食べたい。ちょっとしかないんだもの。絶対お兄ちゃんたちにあげたくない。でも、「あげる」ってママと約束した・・・。
「・・・」
進哉はノロノロと背後を振り返った。お兄ちゃんたちは、進哉がどうするのかとこっちを見ていた。
「・・・」
進哉はもう一度マーブルさんを見た。
奎悟が苦笑した。
「シン、一つでいいよ」
「シンが好きな色とれよ」
「オレたちは残ったのでいいからさ」
瑞波と京介も言った。
その言葉で進哉は決心した。
プチッ。
黄色いのを押し出した。これはシンくんの。ピカチュウの色だ。 それを大切にテーブルに置いてから、もう一度、今度は水色を押し出した。
「おにいちゃん、あげるー」
これは奎悟の。落とさないように気をつけながらトテトテと走る。
「ありがと、シン」
奎悟は少し困ったように笑いながら受け取った。進哉は気分がよくなった。
次は緑。
「きょうちゃーん」
またトテトテと走る。今度は京介の。
「ゴメンな」
京介も苦笑しながら片手を差し出した。進哉はその手に慎重に緑のマーブルさんを乗せた。
次は瑞波だ。
「ちぃちゃん」
瑞波にはピンクをあげた。
「サンキュ、シン」
瑞波はお返しにほっぺにキスをくれた。進哉はニッコリと笑った。
最初はイヤだったけど、お兄ちゃんたちの優しい顔を見てたら、シンくんまで嬉しくなってきた。
お菓子は一人で食べるより、皆で食べたほうが、美味しいかもしれない。
そう考えた進哉は、今度は京平のほうへ駆け寄った。
「はい!」
きょうパパは赤いTシャツを着てるから、赤のマーブルさん!
差し出すと、京平パパはなにやら悪戯っぽく笑った。
「進哉、半分コしよ!」
言うなり、抱き上げられて、マーブルをはさんだ唇でブチュウとキスされた。
「いやーんっ」
こんなお礼は余計だ。進哉は急いで逃げ出した。
これで四人にあげた。今日はみーちゃんはお外に出ているので、リビングに残っているのはあと一人。進哉はそっちを見た。悟パパはソファで新聞を広げていた。でも、シンくんを見ている。
進哉は手にした銀色のマーブルチョコを見た。あと残っている色は・・・。
「悟パパ、これあげる!」
「・・・」
差し出されたぷよぷよの紅葉の手の中には、茶色のマーブルさんがしっかりと握り締められていた。
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