影の檻 その二

 。
 姉は、よく笑う人だった。まるで、この世界は楽しい事、すばらしい事でいっぱいだというよう
に。今も姉の事を思い出すとき、ロレンスの心に浮かぶのは彼女の優しいほほ笑みと、血にま
みれた死に顔だ。
 姉はよくシスター達に混じって教会の敷地内にある治療院の手伝いをしていた。大司教だっ
た父のおかげで、姉とレノムスは働かなくても食べるのに困ることはなかった。それでも手伝い
をしていたのは、人の役に立ちたいという想いはもちろんあっただろう。だが、それよりも純粋
に働くのが楽しかったのだろうと思う。結婚してからも、家事や嫁ぎ先の店のヒマを見つけて奉
仕をしていた。もっとも、医術や魔術の心得があるわけではなかったので、寝具を洗ったり、掃
除をしたりそんなような事だったが。
 姉のリティリアが生きていた、最後の冬。ロレンスがまだ十歳で、レノムスという名で呼ばれて
いたころのある日。午前中の勉強を終えたレノムスは、姉に会いにいった。
 壁で囲まれた教会はちょっとした町ほどの大きさがあり、礼拝堂や孤児院、治療院、販売用
に僧が聖書や暦を書き写す書記院などがある。この時間なら、姉は治療院の炊事小屋にいる
はずだった。
 炊事小屋の戸を開けると、煮炊きで暖まった空気がふわっと体を包む。香草のいい香がした
のを覚えている。小屋の中心には食事を摂るためではなく、作業をするためのテーブル。隅に
は大きなカマドが三つあって、その右端には人が煮込めそうなほど大きなナベがかけられ、い
つも大量の湯が湧かされていた。治療院で道具の消毒や体拭きに使うものだった。
「あら、レノムス」
 姉はスープの大鍋をかき混ぜていた。振り返った勢いで、一つに結んだ腰まである長い銀髪
がふわっと揺れる。
「手伝いに来たよ」
 姉と一緒に食事の準備をしていたシスターのおばさん達がこちらに気づいて話かけてくる。
「あら、レノムスちゃんいらっしゃい。ありがたいわあ。いつもありがとねえ」
 もう十歳なのに『ちゃん』はないだろうと思うけれど、とりあえずにっこりと笑っておく。
「じゃあ、料理を運ぶ準備をしてくれる?」
「はい」
 姉の言葉に返事をして、レノムスは隅に置かれていたワゴンをひっぱって来た。そこに木の
器の入ったカゴを乗せる。治療院に入院中の患者全員分の用意は結構大変だ。
「そういえばリティリアちゃん、あの女の人はどうしたの?」
 おばさんシスターの一人が、ナベにいっぱいのポテトサラダにフタをしながら言った。
「ええ、だいぶよくなったみたいよ。食欲も出てきたみたいだし」
「女の人って?」
 木さじの数を数えながらレノムスが聞くと、シスター達が待ってましたとばかりに代わるがわる
話し始めた。
「二、三日前に、道端で倒れていた女が治療院に運ばれてきたんだけどね。意識がなくて。昨
日目が覚めたばかりなのよ」
「なんでもひどく殴られたあとがあったんだってさぁ! 変な事件に巻き込まれたんじゃないの
かね?」
「あれはまともな生活してないね。着ている物もツギハギだらけだし、目付きもどこか荒んでる
し」
「あまり関わり合いになりたい人間じゃないね」
 これは後で分かった事だが、その女性は泥棒だったそうだ。金持ちの屋敷をあさっていたと
ころ、家の者に見つかった。半殺しにされながらもなんとかその場を逃げ出したが、街に出た
所で気を失い、倒れてしまったらしい。
 今まで黙って聞いていた姉が、ナベを火からおろして言う。
「あら、そういう人を導くのが教会の役目でしょう」
 ほほ笑みながら姉は続けた。
「どんな理由があるにせよ、教会にいる間は食べ物も身の安全も保証されるわ。トラブルがあ
っても、ゆっくりとむきあえるようになるはずよ」
 姉の笑顔は、そこでちょっといたずらっぽくなった。
「もっとも、その相談に乗るのは私じゃなくて神父様達だけどね」
 姉は、運ばれてきた女性の過去はどうあれ、彼女の人生がこれ以上悪くなることはないと信
じているようだった。
 孤児院や治療院を手伝っていたのだから、世の中にある不幸を知らなかったわけではない
だろう。それでも懸命に生きれば報われる、不幸なままで終わることはない、そんな童話や教
会の話が教えるようなことを信じているような人だった。
 いや、世界はそうあるべきだと願っていたと言った方が正しいかも知れない。
「あなたが法王様になればいいのにね、レノムス」
 こっそりと姉が囁いてきた。
「あなたは優しいから、きっと皆を幸せになれるわ」
「僕にはその資格がないよ」
 無邪気な姉の言葉に、レノムスは苦笑した。
 高位の者の子供は、食うに困ることがない代わりに、教会の運営に関わるような位に就く事
はできない。それは、世襲制度で真に才のある者が埋もれることがないようにという配慮から
始まったしきたりだった。
 姉はすぐににっこりと微笑んだ。
「わかってるわよ。言って見ただけ」
 その時軽くノックがして、青年が入ってきた。短く切った白に近い金髪。丈夫そうな体つき。姉
の夫のフィアドだった。
「リティリア、ちょっといいか」
「どうしたの、フィアド」
 姉が嬉しそうに言う。
 反比例するように、レノムスはちょっと不機嫌になった。
「お、こんにちはレノムス」
 フィアドは微笑みかけてきた。
「こんにちは」
 失礼にならない程度にあいさつを返して、レノムスは視線をそらせた。
 半月前に姉と結婚した彼が、レノムスは少し苦手だった。
 客観的に見ても、いい人だとは思う。外見は十人並みだけど、誠実そうだし、優しい。働き者
で、親と一緒にやっている食堂で真面目にやっている。ちょっと魔術の心得もあるらしく、応急
手当レベルの回復魔法なら使えるらしい。何より、ちょっとした仕草から姉の事を愛しているの
がうかがえた。
 でも、どうしても好きになれなかった。原因はわかっている。彼に嫉妬して、姉を盗られたよう
な気分になるからだ。我ながら子供っぽいとは思っていた。
「明日の朝食の分の野菜がないんだって? こっちも出せる分はもうないしなあ」
 フィアドは時々食堂で余った野菜や、少し傷がついて客には出せないものの、十分食べられ
る果物などを教会に寄付してくれていた。姉と出会ったのもそれがきっかけだった。
「大丈夫、足りない分は夜に農家さんが準備してくれることになったから」
「夜? いつもこっちから取りにいってるんだろ? 大変だろう、俺が行くよ。店の方は余裕が
あるし」
 その言葉を聞いてシスターが「へええ」と感心した声をあげた。
「えらいわねえ。リティリアちゃん、いい旦那さん捕まえたわ」
「うふふ〜そうでしょ〜」
 にまにましている姉にため息をついて、レノムスは準備のできたワゴンを押して外へ出ていっ
た。

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