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。 なんだかイライラしたから、というわけではないが、レノムスはその日の夜、弟に会いにい
くことにした。
家の礼拝所にある隠し通路。その奥に重々しい鉄の扉がある。扉の横の壁には、小さな石
の板が埋め込まれていた。レノムスはそこに指先で短い文を書き込んだ。高位の者しか知らな いはずの開錠用の合言葉を、レノムスはこっそりと調べ出していた。大人が思っているほど子 供はバカでも無邪気でもないし、予想以上に周りの事をよく見ている。自分も子供だったはず なのに、大人はなぜそれを忘れてしまうのだろう?
軋んだ音をたて、扉が開く。そのむこうは、ひどい状況だった。床にはちぎった本のページや
文字の練習をした紙、服が散らかり、壁には顔料で描かれた落書きが踊っている。部屋の隅 で丸まっていた黒い猫が、レノムスに気づいて眠たそうに顔を上げた。
戸口に背を向け、机で何か落書きしていたハディスも、振り向いてぱっと顔を輝かせた。
この少年がここに閉じ込められているのには、理由がある。琥珀色の髪と目を持つ彼は、魔
族の――吸血鬼の――血を引いているのだという。
魔族のことは、レノムスも伝説やおとぎ話で知っていた。遥か昔、この世を乗っ取ろうと異世
界から現れた異形の生き物。なんでも血も涙もなく、人間の悲しみや絶望を見るのを好み、む ごたらしく人を殺すのを楽しんだそうだ。
魔族との混血自体は、珍しい物の無いわけではない。魔族との戦いの最中(さなか)、教会
は混血児を探しだし一掃しようとした。だが取りこぼしがあったらしい。
その証拠に、人間が魔族を異界に追い返して百数年経った今も、魔の血を引いている者が
ごくまれに現れる。異様に残虐な性格の者、人間としての理性を持たず、体に鉤爪や翼を持っ て生まれてくるもの。中には、本人ですら自分に魔族の血が混じっているのに気づいていない 者もいるという。
闇の血が薄い者は、大抵何事もなく人生を終える。だが極度の憎しみや怒り、あるいは強い
魔力で魔族化する事がある。そしてその場にいた人間は、魔族との戦いがただの伝説ではな い事を思い知るのだ。
だが、どういうわけか吸血鬼と人間との間の子は例がなかった。同じ人の形をしていても、生
物としてまったく別の生き物だからとされている。
だから六年前、布教の旅から赤ん坊だったハディスを連れて帰って来た父は、すぐにハディ
スをこの檻に閉じこめた。ハディスが魔族の本性を表した時のため、あるいはハディスを害に なるかも知れない太陽から守るために。果たして人に育てられた半吸血鬼が、人として生きら れるのか、『実験』するために。
しかし、レノムスにはいまいちピンと来なかった。どうみてもハディスは普通の子供にしか見え
ない。なんで大人達は怖がるのだろう?
ずっと閉じ込められているのはかわいそうだ。そう思ったレノムスは、時々こっそりとハディス
を檻から出し、外へ連れだしていた。もっとも、会いに行くだけならともかく、連れ出すとなると 大人の目を盗むのは難しく、数か月に一度、夜の間の数時間だけだったが。
「ハディス、遊び行こ」
「うん! 行こ行こ!」
ハディスがイスを飛び降りた勢いで、机の上に置かれた花瓶が床に落ちた。かけらと枯れた
花、そしてわずかに残った水が飛び散った。
「あーあー、慌てるから」
レノムスは床のかけらを拾いあげようとした。
「僕がやる!」
ハディスがレノムスの手を払いのける。驚いて顔を上げると、ハディスはなぜか少し怒ってい
るようだった。
「だってお前、この前ずっと怪我してたじゃないか」
一瞬何の事を言っているのか分からなかった。そして、ようやく数か月前にペンの木軸を調
節しようとして、ナイフで指を切った事を思い出した。
傷は大したことなかった物の、カサブタになってもまだ痛かったので、しばらく布を巻いてい
た。それをハディスは「まだ治らないの?」ととても不思議がっていた。傷を見せてほしい、とま で言ってきた。
実際に見たことはないが、ハディスには回復能力があるらしい。ちょっとした怪我なら一瞬で
治ってしまうそうだ。
ということは、ハディスにとってはそれが普通で、小さな切り傷が何日も治らないレノムスは、
異常にもろく見えるのだろう。
そんなレノムスがカケラで怪我をしないように、ハディスは自分が拾う、といってくれたのだ。
「ありがと、ハディス!」
なんだか嬉しくなって、思わずハディスを抱きしめた。服を通して、ハディスのぬくみが伝わっ
てくる。
ひゃ〜と悲鳴を上げながら、ハディスは身をよじって、レノムスの腕から抜け出そうとする。
「欠片のそばでジャレ合わない! 危ないですわよ!」
今まで黙っていた黒猫が言った。拾われた時からハディスのそばにいるというこの猫によく似
た妖精は、器用に両方の前足を使って花瓶のかけらを部屋の隅に片づけた。
「お二人とも、遊びにいくのでしょう? 速くしないと、夜が明けますわよ」
は〜い、と返事をして、二人はこっそりと外へ出て行った。
「レノムス様に言ってもしかたありませんけど、もう少しハディス様の待遇をよくしてほしいです
わ」
ぶつぶつと文句をいいながら、リンクスがその後をついていった。
二人が遊んでいる間、フィアドの身に何が起こったのか、レノムスは当然実際に見ていない。
聞いた話や噂、後で書類を調べた結果分かったことをまとめると、あらかたこんな感じらしい。
街についたフィアドは、野菜を乗せた荷車を押し、教会に向かっていた。そこで、何か物音
か、悲鳴のような物を聞き付けたのだろう。道端に置きっぱなしになっていた荷車から、急いで その場にむかったのだろうと見当がついた。
その先で彼が見たのは、見知らぬ男が女性を痛めつけている光景だった。長い髪をつかま
れ、何度も頬を殴りつけられていたのは、昼間レノムス達が話していたあの泥棒。
これも後から分かったことだが、彼女はリーザという名前だった。彼女はその夜、罪が暴か
れるのを恐れ、治療院を逃げ出していたのだ。そこで運悪く仲間と鉢合わせしてしまったという わけ。
リーザに盗みに入る館の情報を与える代わりに獲物の山分けを約束していたという男は、彼
女が手ぶらなので、獲物を独り占めされたと思ったに違いない。拷問して隠されている自分の 取り分をいただくつもりだったのだろう。現にその女は服のツギハギに似せた隠しポケットに宝 石を隠していた。
リーザを痛め付けていた男は、フィアドを見てあっさりと逃げ出した。きっと、結局いくらになる
か分からない盗品のために、大の男とやりあって捕まるリスクを冒すのは割に合わないと思っ たのだろう。後には、体中にあざを浮かべて立つこともできなくなったリーザが残された。
それからフィアドがとった行動を想像するのは簡単だ。幸いそこは魔法禁止区域ではない。
フィアドは女性を横たわらせ、回復魔法を唱えたに違いない。
フィアドは知らなかった。女のツギに小さな宝石が隠されていたことを。その宝石に古(いにし
え)の魔法が施されていたことも。
その宝石にかけられていた魔法がなんなのか、今ではもう分からない。盗んだ者への呪いだ
ったのか、あるいはもともとは宝飾品ではなく何かの武器の一部だったのか。間違いなく言え るのは、永い時間の中で、その術式がほころびていた事だ。
赤ん坊の夜泣に目をさまし、たまたま窓からその様子を見ていたという母親の証言によると、
フィアドが回復魔法を唱え終わった直後、宝石が真っ赤に輝いたという。その母親がよくみれ ば、沸き上がった赤い魔術文字が、連なり、絡み合い、女性の全身をマユのように包み込んで いるのが分かったはずだ。
明らかに回復魔法をかけた時の現象ではない。フィアドは恐怖を覚えたかも知れない。彼は
その時、劣化した宝石の術式に、自分の回復魔法の魔力が刺激を与えてしまった事には気づ いただろうか。ちょうどヒビの入ったガラスを強く弾いたように。
女性を包む赤い魔力は、膨れ上がり、暴発した。
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