影の檻 その四

 
 ムササビをハディスと一緒に追いかけていたレノムスは、ふいに頭を小突かれたような、髪を
一筋引っ張られたような、奇妙な感覚を覚えて立ち止まった。
 その時は、まだ自分に魔力を感じ取る能力がある事がわからず、その感覚に戸惑ったことに
覚えている。
「どうしたの? レノムス?」
「う、うん、ちょっと」
 周りに、何か変わった物はないかレノムスはあたりを見回した。
 分厚くつもった落ち葉、立ち並ぶ木々、遠くに見える教会と街をへだてる壁。何も自分達に危
害を与えてくる物はない。なのに、なぜか落ち着かない。
「いや、なんでもないよ」
 きっと、気のせいだろう。そうごまかして、レノムスはハディスと遊びに戻ろうとした。しかし、焦
りにも似た不吉な予感は、ますます強くなっていく。
 この不安の原因を突き止めないと、落ち着いて遊んでなんかいられない。どこを目指してい
るのか、自分でもわからないまま、レノムスは早足で歩きだした。
「ちょと待ってよ!」
 後からハディスの声がした。
 急がないと、取り返しのつかないことになる。そんな言葉が頭に浮かんだ。取り返しの付かな
いことって、何? わからない。
 早足は、いつの間にか駆け足になっていた。白い息が夜空に溶ける。
 気づいたら、いつのまにか治療院の近くに来ていた。心臓が痛むくらい鼓動が速い。
 院の裏側から悲鳴が聞こえた。冷たい風に乗り、錆びた鉄のような匂いが漂ってくる。
 治療院の角を曲がる。そこでレノムスは足を止めた。
 地面に、血が広がっていた。それは薄闇の中で黒ずんで見え、墨のようだった。その真ん中
に、人がうつぶせに横たわっている。
 いつもきれいにまとめられていた銀髪は、肩に、背中に広がっていた。華奢な体は、ほとんど
が血で染まっている。顔を見なくても、それが姉のリティリアだとわかった。
「は……」
 姉さん、と言ったはずの言葉は、無意味な音になった。高い熱が出たときのように、まわりを
取り囲む現実が遠退き、歪んでいく。
 姉のものではない、うめき声。姉のそばに動く影がある。
 それは、確かに人のようだった。しかし、どこか歪(いびつ)に見えた。獣が泉の水を飲むよう
に、その影は半ば四つんばいになり、赤く染まった口を姉の体に寄せている。
 その口から立ち上るのか、姉のまだ暖かな血からか、白い湯気が空気に溶けていった。静
かな闇の中でやわらかい物を咀嚼(そしゃく)する音が静かに続いていた。
 顔は見えないが、その体つきと服装からそれが誰かを認めて、レノムスは囁くように問いか
けた。
「どうして……」
 どうして、フィアドが姉を殺しているのだろう。どうして、姉が愛する人に殺されているのだろ
う。一番あってはいけないことなのに。
 小さなレノムスの声に気づいたのか、リティリアの指がかすかに動いた。その時まだ、姉はそ
の時、まだ生きていたのだった。
 うつむいていたフィアドが顔をあげた。
 その目を見た瞬間、レノムスにはわかった。義兄が、どんな言葉も想いも届かない、ただの
魔物に成り果てたことを。
 自分でも気づかぬまま、魔族の血を引いている者は確かにいる。そして極度の負の感情や、
強い魔力で魔族化する。
 殺される。
 急に恐怖が全身に襲いかかってきた。ここにいたら僕は殺される。けれど足が震え、息がで
きず、動くことすらできなかった。
 ふいに物を倒すような音がした。どこか遠くで、女が悲鳴混じりに叫ぶ声が響く。
「化物! 今、今、そこに化物が!」
 その音と声で、我に返る。今まで悪夢の中にいたようだったのが、その物音と声でこれは現
実だと思い知らされたようだった。まだ震える足を無理やり動かす。いくらも行かないうちに転
んだ。起き上がり、また走りだす。
 レノムスは、姉に背をむけて夢中で逃げ出した。

 息が続かなくなり、レノムスはよろけるように木の幹に手をつくと、息を整えた。頭が痛い。ひ
どく吐き気がした。血の半分以上をぬかれたように、寒くてめまいがした。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」 
 震える声でレノムスは呟いた。ほっそりした指のかすかな動きが、頭の中で何度も何度も再
生された。
 あの場所から逃げるべきではなかった。もちろん、そのままいたからといって姉を助けられた
とは思わない。非力な自分が魔族と化したフィアドを倒すことなどできないし、仮に姉を助けだ
したとしても、あの傷では手遅れだっただろう。
 何で逃げたんだろう? あの場でフィアドに殺されていれば、少なくとも大切なきょうだいを見
殺しにして逃げ出すような人間に成り下がることはなかったのに。こんなひどい想いはしないで
すんだのに。
 少し離れた場所で、治療院に向かうらしい何人かの足音が聞こえた。
おそらく、魔物になったフィアドを狩りにむかう僧兵だろう。魔族を倒すために訓練された僧兵
隊に、魔物になったとはいえ、もとはただの商人だったフィアドが逃げ切れるとは思えない。フィ
アドも殺されるのだな、と思った。
「ハディス……」
 そばにいるハディスがケガなどしていないか確認しようとして、レノムスはそこで初めて彼が
いないことに気がついた。なんとなく自分の後をついてきているような気がしていたのだ。
 レノムスはよろめきながら今来た道を戻り始めた。

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