影の檻 その五

 
 
 小さな物音がして、レノムスは立ち止まった。建物の壁と傍に置かれた木箱の間に隠れるよ
うにして、ハディスはうずくまっていた。
「ハディス」
 小さく呼び掛けると、ハディスはゆっくりと顔をあげた。
 逃げた時に転んだのか、頬に切傷が付いていた。そのまわりは血と泥で汚れている。
「じっとして」
 しゃがみこみ、ポケットからハンカチを取り出して傷口を拭う。
 泥がとれ、赤い糸のような傷がはっきりと見えた。また血が流れてくるだろう。レノムスはもう
一度ハンカチをあてようとした。
 目の前で、傷がうごめいたように見えた。真っ赤だった色が薄い桃色に変わっていく。そして
下から溶けるように消えていった。
 驚いて手をひっこめた勢いで、レノムスはバランスを崩して尻餅をつく。上体が後に倒れそう
になるのを、片手をついて支えた。
 もうハディスの傷は跡形もない。こいつは魔族の血を引いている。分かっていたはずなのに、
今初めてそれを知ったようだった。
 魔物となったフィアドの、濁った目。そして、血に沈んだリティリアの姿。
 ハディスを殺さなければ。でないと、あのフィアドのようになる。人を殺すようになる……
 地面についた指先に、石が触れていた。そろそろと視線を動かしてのぞき見ると、それは手
の平より一回りほど小さい。
 目の前の生き物に気付かれないよう、レノムスはその石を握り締めた。殺さなければ。これ
で頭を殴れば簡単にできるはずだ。手がじっとりと汗ばんだ。
「レノムス」
 自分の殺意を見抜かれたような気がして、ギクリと体を強ばらせた。
「ねえ、僕もあの男の人みたいになるの?」
 ハディスの肩が小さく震えていた。彼の歯が触れ合う音がかすかに聞こえた。
「僕も、あの人みたいにレノムス達を殺すの? スキな人を殺す?」
 続く言葉はあまりに小さく、レノムスはほとんど唇を読むようにしてそれを聞き取った。
『ヤだ』
 石を握り締めていた指が痛む。
 落ちて割れた花瓶、そしてカケラを拾おうと伸ばした腕を押し退けるハディスの手の感触がふ
いによみがえってきた。
 レノムスは手を石から離した。自分は何を考えていたのだろう。ここにいるのは化物なんかじ
ゃない。少なくとも、今は。
「大丈夫だよ、ハディス」
 レノムスはハディスを抱き締めた。
 ハディスがフィアドのようにならないなんて、誰も保証はしてくれない。無責任な気休めは言い
たくはない。だから、レノムスはこう言った。
「もしもハディスが魔族になったら、君が誰かを殺す前に、僕が君を殺してあげる」
「約束?」
 力ない問いかけに、レノムスはうなずいた。
「ハディス様!」
 今までどこにいたのか、リンクスが木の上から跳びおりてきた。
「まだ裏口からなら逃げられますわ。今なら、部屋を抜け出したことにも気付かれていないは
ず。逃げますわよ」
 どうやらリンクスは辺りの様子を偵察に行っていたようだった。
「逃げるって……」
 きょとんとしているハディスにいらだって、リンクスは早口で言う。
「こんな事が起きた以上、皆魔族に恐れを抱くでしょう。もたもたしていたらハディス様がどんな
扱いを受けるか! 下手したら、いいえ、間違いなく殺されますわ!」
 リンクスは、びっくりしているハディスの襟首をくわえ強くひっぱった。
「早く! あの魔族を狩るために、僧兵がどんどん集まっています!」
 遠くで、でも確かに、人の駆け回る音がする。
「でも……」
「大丈夫、前の実験では切り落とした髪も爪も、太陽で灰になったりしなかった! 朝日が昇っ
たところで死んだりしませんわ!」
 ハディスはその姿勢のまま、しばらく動けないようだった。だが、それは短い時間で、すぐに
立ち上がる。そしてレノムスに背を向け、走りだす。あとに付いていくリンクスが、途中で振り返
った。
「縁があったらまた会いましょう、レノムス様。それまでお元気で」
 二人の姿が消え、足音が聞こえなくなっても、レノムスは座り込んだまま動かなかった。

 数日後、レノムスは父と向き合っていた。忙しい父と他人を交えないで話せるのは深夜しか
なく、書斎にはロウソクが灯されていた。
「姉さんを恥辱の墓に葬るなんて……」
 その声は自分でも意外に思えるほど、低く圧し殺されていた。
『魔族との姦通』
 それがリティリアに与えられた罪名だった。
 どんな理由があろうとも、魔族と情を交わす事は許されない。魔族と親交を持つことすら禁じ
られているのだ。
「仕方のないことだ」
 机の向こう側に座った父の声は疲れて聞こえた。
「私だって、実の娘をあんな場所に葬りたくはない。しかし、あの二人が結婚していたことは皆
知っているし、フィアドが魔族になった所もかなりの人間に見られている。何せ教会内の事だ。
ごまかす事はできない」
「……」             
 詳しい者の意見では、フィアドがわざわざ教会の中に入りこんだのには理由があるとの事だ
った。獣同然となった頭の中で、フィアドはそれでもリティリアの事を覚えていたのだろうと言う。
 だが、魔族と化した血は、その印象が愛なのか憎しみなのか区別しない。感情のともなわな
い記憶に導かれるまま、リティリアを捜し出したフィアドは、魔族の本能にしたがって目の前の
生き物を惨殺した。言い換えれば、魔族になっても忘れないほど愛していたからこそ、フィアド
は姉を殺さずにはいられなかったのだ。なんという皮肉だろう。
 フィアドは、あれから僧兵に殺された。体中に槍を突き立てられて。
 フィアドが人間として生きていて、自分がもう少し大人になったら、きっともっと仲良くなれただ
ろう。客観的にみたら、彼は尊敬できる人だったから。でも、そんな未来はもう永遠に来ない。
「姉さんは、魔族と知らずにフィアドを愛した。いや、たぶん知っていても愛したと思いますが…
…それが罪だと言うのですか」
 言いながら、レノムスは自分の心の、何かやわらかな部分が静かに死んでいくのを感じてい
た。それはたぶん、童話や教会の話が教える類(たぐい)の物だったのだろう。
 姉は、何も知らずにフィアドを愛しただけだ。その報いがこれか。フィアドは女性をただ助けた
かっただけだ。その報いがこれなのか。
「ハディスはどうです。あの子は好きで魔族の血を引いているわけではない。それなのに、存在
自体が殺されなければならないほどの罪だと」
 彼は、生きることさえ許されないというのか。
「そうだ。それが神の定めた教会の法だ」
 だとしたら、僕は神を認めるわけにはいかない。もし目の前に現われたら、そいつを殺さなけ
れば。
「ハディスが無事だったのが救いだ。リンクスに感謝しなければ。あのまま残っていたら、どうな
っていたか」
 そんな言葉が出るという事は、父はハディスを愛していないわけではないらしかった。「お父
様」
 これから、自分の人生を間違いなく変えることを言おうとしているのに、不思議なほど緊張は
なかった。むしろ、こうするのが自然に思えた。
「これから、僕を殺してください」
「……どういう意味だ」
「あなたの息子であるかぎり、私は教会の中枢には入り込めない。高位の者の子は、高位に
就くことはできないから」
 自分は姉を見殺しにした。だから、残ったハディスだけは何があろうと守る。教会の中枢にい
れば、それができるはずだ。
 それに、姉は善意や努力が報われ、皆が幸せになれる世界を夢見ていた。それを実現でき
ると思うほど、おめでたい頭はしていない。けれどわずかでも理想に近付けるかも知れない。
「私は、姉と共に殺されたとでもしてください。いや、それはだめですね。僧兵に姿を見られてい
るし、義兄に罪を重ねさせることになってしまう。では、伝染病で死んだとでも。感染を防ぐ名目
で葬儀も簡素ですむでしょうし、棺桶を開けたがる者もいないでしょう」
 大司教の息子レノムスは死に、代わりに天涯孤独の修道士が生まれる。天涯孤独ならば実
力次第で昇位できるだろう。
「では、会うのはこれが最後かも知れないな」
 当然その修道士が下層のままなら、大司教と直接話す機会などないだろう。
「そうならないように努力します」
 レノムスは頭を下げた。
 大司教の子息を弔う鐘が鳴り響いたのは、二週間後のことだった。

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