Special Thanks!


 6666hit キリ番記念にふぶき様よりいただきました。 
           ふぶき様のメッセージはこちらから。





ふたりでおめざ


   

      
 例え名前が変わったって、一緒に住むようになったとしたって。
 いつまでたっても、どうしたって慣れないこと、というのはあるわけで。
 つまり、朝起きたら、真っ先にこのひとの顔が目の前にあって。
 「……そんな、じいっと見てるの止めて下さいよー……」
 こっちが問答無用で気恥ずかしくなるような表情で、見つめられているっていうのは。
 しかも、照れて赤くなっていくのを楽しむように、至近距離で、ずっと。
 「他のものを見たところで、面白くもなんともないだろう?」
 そんなことを言いながら、さりげなく髪に、額に、頬に、柔らかく唇が触れてくる。
 ……ああ、もうっ、なんでそんなに嬉しそうにしてるんですか、主査!!
 逃げようとしても、しっかりと腰に腕を回されているから無理だし、細くて薄いわりに
 力があるから、もっと深く抱き込まれたら抵抗できないし。
 「うー……でも、それならそれで方法はあるんですからっ」
 と、油断してる隙をついて、自由な両腕で毛布を掴んで、さっと頭からかぶってしまう
 ……つもりだったのに。
 「……こら、隠すなよ、春」
 顔半分までのところで、片手一本であっさりと止められてしまった。
 さらに、不機嫌そうに眉を寄せて睨まれると、ひたすら怖い。
 普段のむっつりした表情すら、ただでさえ迫力あるのに。
 細められてことに強さを増した視線に、内心でかなりひるみながらも、それでも最後の
 抵抗をしてみたりして。
 「こ、こんなの毎朝見てるじゃないですかっ、今日くらい許してくださいよー!!」
 「今日だけ許す、っていうのも妙だと思うんだがな。それに、明日も同じことをするだ
  ろうが、お前は……いい加減慣れろ」
 「そんなこと言ったって……」
 泣き出しそうな情けない声を出して顔をそらした私に、主査はため息をひとつついて。
 押さえていた手を離して、毛布ごときゅっと抱き締めてきた。


  そうされるたびに、いつも感じる、このひとの匂いに酔いそうになる。
 自分とは違う、酷く艶めいた色のある、独特の。


 「そこまで逃げられると、本当に嫌なのかと思うだろうが……」
 「……そんなわけ、ないですよ」
 少しだけ弱くなった声に小さく笑いながら、そっとしがみついてみる。
 もちろん、こうやって触れられるのは、嫌じゃない。
 腕の中はすごく心地いいし、あったかいし、安心してしまうから、大好きなんだけど。
 「なんかね……見られてると、だめなんです」
 「……見ずに出来ることじゃないだろうが、こういうものは」
 「!い、意味が違いますって!だから、暗いとそんなに照れなくて済むんですけどっ、
  主査の視線とか表情とかっ、朝だと全部はっきり見えるから、すごい恥ずかしい……って
  なんでそこで笑うんですかー!!」
 抱かれている私にまで響いてくる震えが、相当ツボにはまったことを知らせている。
 普段あまり笑わないひとだけに、一度始まるとなかなかおさまらないのだ。
 仕方ないから、半分拗ねながらじっと波が鎮まるのを待っていると、主査は大きく息を
 吐いて。
 それから、するりと耳元に声を落としてきた。
 「無理な相談をするからだ……お前、俺の楽しみを奪うつもりか?」
 「……やっぱり面白がってやってたんですか……」
 「まあ、それもあるがな」
 くくっ、と抑え切れないような声を漏らすと、耳朶にかかった息にびくってして。
 さらに近寄せられた唇が触れてくるのに、きゅって目を閉じる。と、
 「夜は声しか聞けないんだ、朝くらい見せてくれてもいいだろう?」
 ……そんな声で、そんなことさらっと言わないで下さいー!!
 そう叫んでじたばたして胸を叩いて逃げ出したい気持ちにかられるけれど、実際はもう
 どうしようもなくて。
 「……主査、ひょっとしてすごいいじめっこですか……」
 「惚れた相手にはな」
 「性質、悪いですよ……もう、やだー……
 こんなので、いつになったら慣れるのかなんて、想像もつかないけど。
 逃がしてはくれないし、捕まってたいから、ずっとふたりでこうやってるんだろう。
   
      

      
 組み合わせというのは、互いの足りないところを補うようになっているものだそうで。
 つまり料理が出来ないひとには出来るひとがついて、とかそういうことらしいんだけど。
 でもそれじゃあ、低血圧に低血圧が重なるっていうのは、どうなんだろう。
 「…………おおもりー、きょう、とうばんー」
 「……おーう……」
 高らかに七個の目覚まし時計が鳴り響く中、力の抜け切った声が弱く流れていく。
 十のうち一しか醒めていないような、どんよりとした意識をふりしぼって、二人並んで
 ベッドの上を匍匐前進。ただしスピードは芋虫レベルで。
 それでも、枕元にずらりと並べた右と左の端から、交互にアラームを止めていって。
 真ん中の一番大きなやつを同時に止めた頃には、身体もいい加減冷えてきて、ようやく
 人間に一歩近付いた感じになってくる。
 で、まだぼんやりしている頭を軽く振って、目を何度もこすって、あくびもして。
 目尻に溜まった涙をごしごしぬぐうと、同じようにうなだれた感じの大森の肩に触れて、
 軽く揺すぶるように動かしてみる。
 「大森ー、大丈夫ー……?」
 「おー……なんとかなー……お前さあ、もうちょっと寝てていいぞー」
 「その言葉は嬉しいけどー、そういう誘惑に負けたらー、もう二度と復活できなくなる
  ってー……うー、さむいよー……」
 そう言って、小さく震え始めた自分の身体を抱くように、両の腕を巻き付けてみる。
 まだ昼間はそれほどでもないけれど、そろそろ朝夕は冷え込み始める時期だ。ベッドの
 上に座り込んでうろうろしていれば、体温も奪われて当然なのだけれど。
 あ、くしゃみが出ちゃうかも、という悪寒にかられかけた寸前で、ふうっと。
 あったかいものが、それを押しとどめてくれて。
 髪の中に入り込んできた大きな手が、わしわしとかき回すように撫でてきた。
 「千比呂ーお前、ちっちゃいなー……」
 「……大森だって、でっかくはないよー?」
 そう応じながら、それでもしっかりと、自分をくるみ込んでしまっている彼を見上げる。
 じっと、こっちのぬくもりと柔らかさを味わっているみたいに目を閉じていて。
 子供をあやすみたいに、かすかに揺さぶられるのに、瞼がふっと落ちそうになって……
 「…………って、だめだってば、大森っ!!」
 「ぉわっ!?」
 と、変な悲鳴が聞こえた直後には、大森の姿はベッドの上から消えていて。
 鈍い音が耳に届いたのに、今度こそはっきりと目が醒めて、慌てて四つんばいで近付い
 ていくと、
 「おいー、ひっでえなあ……マジに腰打ったぞ」
 「ご、ごめん……勢い余った、ほんとにごめんー」
 急いで床に降りると、顔を顰めて座り込んでいる大森の背中をさすりはじめた。
 ここから落ちるとかなり痛いのは、もう何度か身をもって知ってるっていうのに。
 そうしたら、ぽん、と頭の上に手が乗ってきて。
 「いいいい、そんなん。わざとじゃねえんだしさ」
 「うー、でも……」
 「前に一緒に二度寝しちまったからなあ。おんなじパターンに反応したんだろ?」
 「……そう」
 そうなのだ。しかも、それほど前の話でもなくて。
 お互いにあんまり気持ちよくて、離せなくなってるうちにぐうぐう寝てしまって。
 気付いた時にはお昼、っていうのも血の気が引いたけど、なにより、翌日。
 「だってね、課のほとんど全員にからかわれたんだもんー……なぐさめてくれたの奈央
 ちゃんだけだったしー、幾ちゃんも春ちゃんも美帆ちゃんまで笑うんだからー……」
 「んー、悪かった悪かった」
 「……別に、大森が悪いわけじゃないよ?」
 「いーや。どっちかっていうと俺の責任」
 「なんで……」
 尋ねるように見上げると、大森はちょっと目を見開いて。
 何か嬉しそうに笑うと、広い額をこつん、とぶつけてきて。
 「だってお前、寝起き姿可愛いし?」
 これが触らずにいられますかってー、と続ける声を聞く間に、もう沸点のピークで。


 一緒にいるうちに、だんだんとレベルの上がる台詞に、どうしようもなく参ってしまう。
 特に照れの吹き飛んだあとは、一撃でなすすべもなくなってばかりで。


  ……言わないで欲しかったー……もう恥ずかしくて起きられないよー……」
 「んじゃあ、また揃って遅刻するか?」
 「それも、やだ」
 となると、もはや選択の余地はないはずなんだけれど。
 それでも、毎朝こうやって一緒にあったかくなるのは、外せないままなんだろう。


      

      
  色々と好みのうるさい相手に合わせるのは、当然だけれど忍耐が必要なわけで。
  例えば、自分が疲れさせてるくせに「俺より早く起きて朝飯作れよ」とか、「トーストで
 手抜きしやがったら許さねえからな」とか。
 とにかく口を開けば我がまましか出ないようなひとのために、どうしてよろよろ早起き
  して、朝苦手なのにこんなことしてるのかって時々思う。
  まあ、お料理の勉強にはなるけど。なにしろ、今まできちんと習ったことなんてなかっ
  たし、おかげで母親はなんだか喜んで、色々と教えてくれるようになったりもして。
  「ん……こんなくらい、かな?」
  お玉をくるりと回すと、お味噌をといたばかりの芳しい香りがふわりと広がる。
  味見を終えた小皿を流しの上に戻して、水気を絞っておいたわかめを入れて、一煮立ち
  したらすぐに火を止める。よしよし、このタイミングも結構掴めてきたかも。
  少し嬉しくなりながらお揃いのお椀を食器棚から出して、鼻歌なんか歌いつつ鍋の前に
  戻った途端、
  「お前さあ、音痴なんだから歌うなよな」
  「ひゃっ!?」
  背中から掛けられた声に、驚いて思わずお椀を取り落としそうになったけれど、寸前で
  にゅっと伸びて来た大きな手がそれを掴んで。
  慌てて振り向こうとした途端、ごつん、と頭のてっぺんに強烈な一撃を受けて。
  ……ったいですっ!!もー、また顎乗せてー!!それにわたし音痴じゃないですっ、
    ちょっと遅れ気味になるだけでっ」
  「あーそうだな、普通の人間並みのリズム感すらねえもんな」
  「うっ、ちょっと自分が上手いからって……」
  にやにやと、いかにも意地悪そうに見下ろしてきている高坂さんを睨み上げながらも、
  私は弱気になって、声も段々と小さくなっていってしまった。
  だけど、それだけは本当なのだ。普段の口と根性の悪さからは想像も出来ないくらい、
  いい声といい表情をして、歌うから。
  だから、こんなことになっちゃったのかもしれないんだけど。
  そんなことを考えている間に、お椀を脇に置いた高坂さんは、お鍋から直に味見なんか
  してみていて。
  「ん……まあまあだな。しっかしお前具に芸がねえぞ、もうちょっと緑入れろ」
 「これから葱を添えるとこだったんですっ。それに作れるんだから高坂さんもたまには
    手伝ってくださいよー!」
  「俺はひとがやってくれることはしねえ主義なんだよ」
  「うっわー、最低最悪じゃないですか!それになんでちゃっかり腕なんか回してるんで
   すかー!!」
 「んなもん当然だろうが。俺のもんなんだし」
 そう偉そうに言いながら、背中からするりと腰に回した腕に力がこもる。
  こういう時のこのひとは、いつもと変わらず口は悪いのに、行動はうんと優しくなる。
 壊れやすい、それでいて大事なものを包み込むみたいに、柔らかにして。
……めちゃくちゃ我がまま。こっちが『わたしの』って言ったら怒るくせにー」
  「それは譲れねえからな。悔しかったら、お前もなんか言ってみれば?」
  「そっ、そういうこと言うんなら、凄いこと言いますからっ!えっと、ええっとっ……」
  一生懸命考えている間に、高坂さんはますますぴったりと寄り添ってきて。
  首筋に、軽い息がかかったりするから、余計に混乱してきてしまって。
  ……うー、思いつかないー」
  「ばーか」
  顔中を真っ赤に染め上げて、あっさりオーバーヒートしてしまった私の耳元で、高坂さ
  んは喉を鳴らすと、
 「……たまには言えよ、美帆。マジで」
 そんなことを、凄く優しい声で言って、抱き締めてきたりするから。
 飴と、鞭。
  このひとを評するときに、先輩が言った言葉をふっと思い出す.


  でも、なんとなく、飴のほうが、だんだんと多くなって。
 もっとずっと、甘くなってきてるような、気がする。
      
 「……本当に、なんでも聞いてくれるんですか?」
 「誰がんなこと言った。内容によるに決まってんだろうが」
 「やっぱり」
 がっくりして俯いた私をそれでも離さないまま、高坂さんはまた喉を震わせて、笑って。
 だけど、どっちの味も、慣れれば美味しいものだって、気付いたから。
 このひとの甘さと苦さに翻弄されてしまうのは、これからも続いていくんだろう。


      

  人には、それぞれ癖とか習慣というものが結構あって。
 例えば朝起きたら必ずこれをする、というのもあるものだとは思うんだけど。
 「……あのさあ、渡瀬」
 「んー?」
 「なんかこれって、間違ってない?」
 「なんで。恋人同士の正しいあり方じゃん」
 「いや、そーゆーことじゃなくて。行動的にじゃなくて、時間的に間違ってるんじゃな
  いかなって思うんだけど」
 そう言って見下ろした先には、見慣れた尖り頭が転がっていて。
 別にホラーな意味では勿論なく、単に私の座っている膝を枕にしている、というだけな
 んだけれど。ついでに腰に手を回して、しっかりとしがみつくような格好でごろごろと。
 しかも毎朝。まあ、こうやって甘えられるのは、嫌じゃないからいいんだけれど。
 「出勤前にするってのが変じゃないか、ってこと。せっかくセットしたのにほらー、髪
  崩れちゃうじゃない、勿体無いよ?」
 そう言いながら、ハードワックスでがちがちに固められた髪の先をちょん、とつついて
 みる。元々が猫っ毛でまるで腰がないから、このくらいしないとどうしようもないらしい
 んだけど。
 ハリネズミみたいだなー、と思いながら、大して痛くもないそれでつい遊んでしまう。
 と、腕が一本伸びてきて、手首を掴んだかと思うと、探るように動いて。
 やがて指をしっかりと絡め合わせてしまうと、軽く、確かめるように握り締めてきた。
 「……渡瀬ー?どうしたの?」
 「んー……なんかな」
 「うん」
 握った手を遊ぶように振り回してみると、それを抑えるように、もう片方の腕がきつく
 抱きついてきて。
 私の膝に頬をすり寄せるみたいにして、眼鏡の奥の目を気持ち良さそうに細めて。
 「こうやってお前のこと、充電してんの。めいっぱいやっとかないと、あっという間に
  放電しちまうって感じだからさ」
 ……また、こいつはこういう恥ずかしいことを……
 いや、嬉しいけど、嬉しいんだけど、それ以上にもう照れて仕方がなくて。
 赤くなったのを誤魔化すように、意味もなく髪をいじりながら、ぽつりと言ってみる。
 「会社まで、一緒に行くのに」
 「そんなの、ほんの十分くらいしかないって」
 「……昼休みにも、会うじゃない」
 「時々だろ。営業に出ちまったら潰れるし、普通にしてたって三時間あるじゃん」
 「昼からの方が、もっと長いじゃない……」
 「それでも、終わったら一緒に帰れるじゃん。そっから一番長くいられる時間だしさ」
 ことごとく、あっさり答えを返されてしまえば、もう笑うしかなくて。
      

 こういう時、渡瀬には敵わないなあって、しみじみ思う。
 甘えるのも、言葉にするのも、さらりと素直にくれてしまって。
   
  
  「真似なんて、絶対できないなあ……」
 「ん?なんの?」
 「渡瀬の」
 「俺の?なに」
 「教えないー。あ、抹茶ホットケーキ奢ってくれたら考えるけど」
 「そんなの毎週のことじゃん。こら幾、教えろって、気になるだろ」
 「じゃあ、昼ごはんでもいいけど。パニーニ食べたいし」
 「それは俺も食いたい。バジル?」
 「そうそう、チキン」
 「よっし、決まりな。言ったこと忘れんなよ?」
 「忘れたら?」
 「予定してた月末豪華ディナー、全額そっち持ちな」
 「えー、それはひどいよー!絶対言わなきゃなんないじゃない!」
 「なに、そんな変なこと考えてたわけ?」
 「違うー!」
 とかなんとか、いつものようにじゃれ合いながら。
 また今日も、そして明日も、こうして一緒に、出かけるぎりぎりの時間まで。
 ふたりでエネルギー充電しながら、ごろごろしてるんだろう。


     
      
 一分一秒を争う事態、なんてそうそうあって欲しくないものだけれど。
 特に、お休み明けの久しぶりの出勤日、なんて日には本当に。
 でも、そんな時に限って、目覚ましのセットを間違えた、なんてこともあったりして。
 「阿部くん、ごめん薬缶噴いてるから火を止めてくれる!?それからもうカップにコー
  ヒーとミルク入れてあるから!」
 「了解ですっ!……ってうわあっちぃっ!!」
 「だ、大丈夫!?ああもう、だめじゃない素手で掴んだりしたら、はい、濡れ布巾!」
 「すいませんっす、気をつけますっ……っだあっ、噴き出してきたあっ!!」
 「や、火傷しなかった!?急に傾けちゃだめだよ!」
 「こっちはなんとかしますっ。それより奈央さん、なんか焦げ臭いっすよ!」
 「えっ!?やだっ、トーストのタイマー回しすぎちゃった!」
 と、いう感じで、広くないキッチンで二人して、どたばたとする羽目に陥ったりして。
 ところで、今日起きたのはいつもより一時間も遅い、七時半。
 五十分には出ないと電車に間に合わないから、とにかく先に身支度だけを整えて、少し
 余った時間で簡単な食事だけでも、と思ったのだけれど。
 「ああだめ、焦げちゃった……」
 「二枚ともですか?」
 「うん、炭になっちゃった。ほら」
 トースターを覗き込んできた阿部くんにそれを見せると、ひとつ頷いて。
 「ああ、まだこの程度なら食えますって」
 「え?えっ、ちょ、ちょっと……あ」
 一面黒焦げになったそれをひょいと取り上げると、一口でまず四分の一かじって。
 片手にした大きなマグとトーストとを交互に素早く動かして、みるみるうちに口の中に
 消えていくさまに見入っていると、
 「はい、ごちそうさんでしたっす」
 ものの三十秒もかからずに、コーヒーも二枚のパンも欠片もなくなってしまった。
 「本当に食べちゃった……焼き直す時間、ぎりぎりだけどあったのに」
 「勿体無いっすからね。それにこんくらいなら、キャンプで嫌というほど食ってますし
  ……あ、奈央さん、マジで時間ないっすよ!」
 「わっ、あと三分しかない!もうコーヒーだけでいいやっ」
 そう言いながらも、朝食を食べると食べないでは午前中にきっと差が出てしまうだろう。
 仕方ない、途中の売店ででも何か軽いものを買っていこう。そう、おにぎりでもひとつ
 あれば事足りるだろうし。
 でも、きっと阿部くんは、それくらいじゃもの足りないだろうな……
 それに、今朝もきっとたくさん食べるんだろうって思って、色々用意しておいたのに。
 そんなことを思いながら、自分のマグとお皿(結局使わなかったけど)を洗って、慣れ
 た様子で拭いている様子をぼうっと見ていると、
 「奈央さん、飲み終わったらこっち、洗いますから……どうしたんすか?」
 「え?あ」
 両手にしたマグを取ろうとして、まだ中身が全く減っていないのに気付いた阿部くんは
 少しだけ眉を寄せると、そのまますっと腕を上げて。
 「ちゃんと食べないと、だめっすよ?また貧血起こしたらどうするんですか」
 大きな手のひらで、くるむように頬に触れてきた。


 こうされると弱い、と本当に思う。 乾いていて、ほんのり温かくて。
 溺れそうに優しくて、いつまでもそうしていたくて。
     

  かすかに動かされる指先の感触に、甘えるように目を閉じると、そっと手を重ねて。
 「そうなったら、会社までおぶっていってくれる?」
 「そんくらい軽いですよ……っていうか、そんなんで出勤しちゃだめっすよ!」
 「だって、今日中に纏めないといけない資料があるから……そ、そんなに睨まないで、
  大丈夫、倒れたりとか絶対しないから」
 ますます眉を顰めた阿部くんに慌ててそう言うと、少し困ったみたいな表情になって。
 まだ中身の残っているマグをすっと取り上げてしまうと、流しの上に置く硬い音がして。
 なんだろう、と見上げた途端に、大きな身体にすっぽりとくるまれてしまった。
 「……ほんとに頼みますよ。俺、あん時心臓止まりそうだったんですから」
 「うん……ごめんなさい」
 少し前に一度、玄関先で倒れかけて、しばらくしゃがみこんでいた時があって。
 多分、季節の変わり目で疲れが出たんだろうと思うけれど、やっと楽になった時には、
 彼の方がすっかり血の気が引いてしまっていたくらいで。
 それから、ずっと一日つきっきりでいてくれて、嬉しかったんだけれど。
 「あ、けどそうならないいい方法、ありますよ」
 「え?……きゃ、ちょっと、阿部くんっ」
 何か思いついたようにそう言うなり、軽く身をかがめたかと思うと、膝の後ろを抱えら
 れて、あっという間に片腕で持ち上げられて。
 落ちないように、とっさに首にしがみついた私の耳元で、低い声で囁いてきた。
 「こうやって運んでけば、ぜんぜん大丈夫ってことで」
 「……もしかして、本気?」
 「はい。つうか、マジでやんないと本気で遅刻しますよ、ほら」
 その言葉にあらためて時計を見やって、私はしばらく固まっていたけれど。
 「い、急ごうっ!!あ、鞄取ってもらっていい!?」
 「はいっ!あ、奈央さん靴どっちですか!?」
 「今日は黒の!ああっ、阿部くん右と左と違うの履いてる!」
 「げっ!……よーしこれでいいっす、行きますよ、しっかり掴まっててください!」
 「うん!」
 そうして、やっぱりというか物凄く注目を浴びて、真っ赤になりながら電車に乗って。
 しばらくご近所の噂にまでなってしまったのには、さすがに恥ずかしかった、けど。

 「奈央さん、会社まで手繋いでっちゃだめっすか?」  「……あの角曲がるまでだからね?ちゃんと守ってね?」  「はいっ!」
 大事に思われているのも、思っているのも凄く分かっているから。
 これからの朝も、昼も夜も、きっとずっと。
 この優しい手を握ったまま、ふたりで歩いていくんだろう。