カケチョー:4
キクコは深くため息をついた。
昼前、10時57分。
いかにも暇な電話番らしくペンを鼻と唇の間に挟みながら、分かりやすくふてくされていた。
そんなことをしていても注意されないのは、周りに誰もいないからであり、それは今日が接遇等の全体研修日だからである。
なぜか今年は講師に一昨年に寿退社した美人で有名だったアナウンサーが来ることになっていた。総務部が今年は頑張ったらしい。
著名人なんて会うことがない地味な会社で、めったにない華やかなイベントに(あくまで研修なのだが)誰も彼も参加を希望する中、各部署一人は電話番としていなければならず、とりあえず3年連続で接遇研修を受けたものは残ってもいいだろうと、そういう者ばかり5人ほどでじゃんけんをしたら、キクコが負けた。
キクコはじゃんけんをする前から自分が残る気がした。こういう勝負にめちゃくちゃ弱いのである。強いように思われているがめちゃくちゃ弱い。
だから、何とかじゃんけんやくじ引きやしない方向に持ち込もうとしたが、どうにもならなかった。
じゃんけんやくじ引きはフェアな勝負だとみんな思っているからである。
フェアじゃないと、確率論等を交えて某月9ドラマの某助教授のように証明できればいいのだが、「だって平等な気がしないんだもん。」などと感情論でしか話せない文系のキクコはじゃんけんで出した手のひらを見つめることしか出来なかった。
あー、見たかったな、美人アナウンサー。
電話番とは言いつつ、本来は業務時間中であるのでやりかけの仕事をすればいいのだが、全然そういう気にはならず、裏紙にぐちゃぐちゃと落書きをしている。
あー暇。
最近頓についていない。
先週は社内の温暖化二酸化炭素削減委員というものにも、じゃんけんで負けて任命された。昼休みの消灯、給湯室の電気等の見回りなどこまごまとした仕事である。
おとついは朝ストッキングを履いた途端、伝線した。
そう思えば、階段で転んだ日もあった。
(くそーっついてない)と眉間にしわを寄せそうになって、慌てて眉間にペンをあてて伸ばす。
眉間のしわが跡になりそうだということを、昨日トイレで気づいたからである。
笑う門には福来るなんだから、とりあえず笑っておかなくてはと、眉間に当てたペンを頬に当ててにぃっと笑った。
笑え、笑え、笑え。
眉間にしわなんて寄せてるからつきが逃げていくんだ。
笑っているキクコが一番かわいい。
かわいい子にはつきが向こうからやってくるから。
自分で自分に言い聞かせる。
「にぃー。」
声にあわせて口角を上げる。
「にぃー。」
いい感じ。口角筋もほぐれてきた。
「にぃー。」
「お前、何ニヤニヤしてるんだ一人で。」
「ひっぃ。」
キクコは文字通り飛び上がって声をしたほうを見ると、横から、カケチョーが入ってきた。
ひゃあああ。
頬に置いていたペンが突き刺さった。
「おい、大丈夫か!?」
「ふぁい。」
キクコは頬を撫でながら、返事をした。
「お疲れ様です。今日は午後遅くまで帰ってこないんじゃなかったんですか?」
「その予定だったんだが、先方の担当者が人身事故に巻き込まれて、いや、彼が人身事故にあったわけじゃなくて、人身事故で交通遅延に巻き込まれたらしくて日を改めることになったんだ。」
「そうなんですか。」
「早く帰ってくるから、メールは入れなかった。みんなは?」
「今日は接遇研修の日ですから。」
「ああ、そうだった。」
直出だったカケチョーは忘れていたらしい。
「あっ、そう思えば、カケチョーのところに配達記録が届いているかなんだかで、総務から呼び出しがありました。」
「配達記録?じゃあ、行ってみるよ。ありがとう。」
カケチョーは席に座らないまま、引き出しからはんこを取り出して歩き出した。
カケチョーも朝からついてなかったのかな?お疲れ様だなと思い、帰ってくるまでにコーヒーでも入れてあげようとキクコも給湯室に立ち上がった。
暖かな湯気の立つコーヒーをお盆に二つ乗せて歩く。 給湯室から戻ると、すでに総務から戻ってきたカケチョーは席についていた。
湯気だけでない、芳ばしい香りがふわっと鼻に届く。
カケチョーとコーヒータイム。
ぐふふふふ。
しかも、二人きり。
ぐふふふふ。
笑う門には福来るだわ。こんな役得が来るとはよもや思わなかった。
机の中から取り出したチョコレートもお盆にのせておいた。
疲れたときにコーヒーとチョコレート。
なんて気が利く部下かしらと自画自賛した。
「カケチョー、コーヒーです。あと、お口汚しですがチョコレート。どうぞ。」
「ああ、ありがとう。ちょうど飲みたいと思ってたんだ。」
カップを置いたカケチョーの手元に、よく電車で見るポスターの絵が垣間見えた。
「あら、それ。」
「ん?」
「もしかして、劇団春のミュージカルじゃないですか?わぁー、中々取れないって有名な舞台ですよ。」
「あ、これか?何なんだろうな。」
「えっ?」
「いや、さっきの配達記録で送られてきたんだが、全然身に覚えがなくて。」
そういった後カケチョーは封筒から白い紙を取り出して読み始めた。
じろじろ見ると、パンフレットの下にはミュージカルのチケットが覗いている。しかも今月末のS席。キクコも行きたいとは思っていたがとても取れるとは思えなかったので諦めていた舞台のものだった。
「当たったみたいだ。」
「へっ?」
「いや、このチケット、電気屋でなにか買ったときについでに応募したのが当たったみたいだ。」
「えーーー!!本当ですか?抽選で?だって、これすごい人気の舞台なんですよ。何買ったんですか?電気屋で。」
「うーん、なんだったか・・・。思い出した、イヤホンだ。」
「イヤホン?イヤホンでこのチケット?カケチョーすごい!!すっごく運がいいですね。いいなー。私、全然こういうの当たらないからすごくうらやましいです。うわー。」
「日にちは・・・水曜か・・・。これ、そんなにいい舞台なのか?」
「そうですよ。ブロードウェイでは公演中一日も空席が出なかったといわれてて、JRで大々的に宣伝してるじゃないですか?日本でも中々取れないんですよ、人気で。うわぁー、いいな。」
「・・・アマノ、一緒に行くか?」
「へっ?」
「いや、平日だろ。アマノすごく興味ありそうだし、2枚ともやろうと思ったけど、アマノが言うの聞いて俺も見たくなった。その日同行で出張にして、直帰したら間に合うだろ。18時半開演でも。」
「本当に?いいんですか!!」
「アマノが嫌じゃなければ。」
「嫌なんてことありえません!絶対、絶対にありえません!本当ですか?いいんですか?カケチョー。」
「信用できないんだったら、チケット半分持っておくか?」
そういってカケチョーはチケットを半分差し出した。
「失神しそう・・・。」
チケットをしっかり握り締めて、鼻血が出そうなほど興奮して、思わず空いた手で鼻を押さえたキクコに
「大げさな。」
カケチョーは笑った。
カケチョー、カケチョー!!これって初デートですよ、初デート。
大げさじゃありません、私にとって一大事、お祭り騒ぎですよ。
舞台見終わった後は多分食事にも行くはず。そのはず。
しかもカケチョーと二人きり!!
うおおおおおお。
キクコは声にならない雄叫びを上げた。
鼻血ではなくて、今度は嬉しさのあまり涙が出そうになった。
キクコはふと思い出した。
くじ運は悪いが、自分が妙にタイミングがいい事を。
どこかでお土産やケーキを分け始めた時に、偶然立ち会わせることを。
誰も担当していない案件の、めったにない受注の電話を取るのは大抵自分だということを。
神様、ついてないなんていって申し訳ありません。
最高についてます。
幸せで、倒れそう・・・。
声は出していないが、チケットを持ったまま自分の席で飛び跳ねているキクコの後姿を、カケチョーは見ていた。
どんなミュージカルか分からないが、アマノがあれだけ喜ぶんだったら期待してもよさそうだ。もしつまらなくても、アマノを見るだけでも面白いだろう。
アマノが目も口も開けて舞台を見ている様子がすぐに思い浮かんだ。
カケチョーはその想像にふふふと小さく笑い、カレンダーに丸をつけた。