短編祀神(1)
祖父の家であるというそこへ訪れた理由は、所謂、療養。空気が澄んだ静かな場所で過ごせば具合も良くなるということだが、それは、表向きの理由。ここへ訪れた、いや訪れざるを得なくなった理由は他にある。
不況の煽りをくらい、傾いた事業を建て直すための第一歩、大事な顧客であったというのに、接待に失敗してしまったのだ。
兄さん、あなたは疲れているのです、という半分だけ血の繋がった弟の意見に事業主である父は頷いた。疲れを癒してこいという言葉は、頭を冷やしてこいという意味でもある。こうして、半ば無理やりに休暇を取らされるに至った。見送る弟の表情は静かで、眼差しは憐れみを映していたが、あの接待の失敗に弟が一枚噛んでいることは、間違いない。弟は頑にそれ否定してはいたが。しかし、指示を書き換えることができる人間は三人のみ。自分と、父と、弟と。父と自分ではないとすれば弟しかいないのだ。
「こんにちは」
門の向こうに広がっているのは、広い日本家屋。手入れの行き届いた玄関前で掃き仕事をしていた老人に声をかける。老人は半ば反射と思われるような動きでぺこりと頭を下げたあと、まじまじと私を見つめた。それから、破顔一笑、愛想の良い笑みを浮かべて近寄って来る。
「一哉様でございますね。お話には聞いておりましたが……随分とまあ、ご立派になられて……どうぞ、どうぞなかへ、よくぞいらしてくださいました」
背中を押され、なかへと招かれる。老人は私を知っている素振りを見せるのだが、私に老人の記憶はなかった。急かされるように玄関へと通され、靴を脱ぐ。わりと広い玄関に置かれた猛禽類の剥製が、私をじっと見つめている。何故か、背筋がぞくりとした。
「大旦那様、そして若旦那様が亡くなられてからは、寂れる一方でして」
大旦那とは祖父、若旦那とは父の弟のことだろう。父とともに経営に携わっていたそうだが、祖父が亡くなる少し前にこちらへ見舞いに訪れたまま、結局、戻らなかったという。少し、今の自分が重なり、自嘲染みた笑みが浮かんだ。だが、私は帰ってみせる。
廊下は歩くと軋んだ音をたてたが、それは決してうるさくはない。ギシッ、ギシッというその音には重みがあり、歴史を感じさせる。老人は細く暗い廊下を歩き、ひとつの襖の前で立ち止まる。襖を開き、なかへと促した。
正面に広がるのは、和風の庭。縁側から庭へおりることができるようだ。敷石が池へと並び、池には色とりどりの鯉が緩やかに泳ぐ。
「こちらの部屋をお使いください。若旦那様の部屋でしたが、一哉様がお使いとあれば若旦那様もお喜びになるでしょう。ただいま、お茶をお運び致します」
老人は音もなく静かに襖を閉めた。ひとりになった私は、改めて部屋を見回す。畳の部屋など久しぶりのことだった。床の間に飾られているのは掛け軸と壺。風を通しているために開け放たれた窓の向こうに広がる光景に心が落ちつく一方で、妙な、ざらついた感覚を覚えている。ここへ訪れたのは初めてであるはずなのに、何故か……見覚えがあるような気がしてならない。襖に描かれた松、掛け軸の鶴、壺は……亀の絵柄ではなかろうか。確かめてみると、壺には亀が描かれていた。
以前、ここへ訪れたことがあっただろうか?
疑問を覚えつつ、窓辺から庭を眺めていると、ふと、気配を感じた。老人がお茶を運んで来たのだろうと、振り向き、声をかけた。
「ありがとうござ……い……」
声は途切れた。そこに老人の姿はない。老人が閉めていったはずの襖は僅かに開き、そこに白い着物の裾が翻る。何事かと駆け寄り、襖を開き廊下を見やるが、そこには誰の姿もなかった。
「一哉様?」
お茶を用意した老人が現れる。
「この家にはあなたの他に……誰か?」
「いえ、私だけでございますよ」
では、見間違い。もしくは、人、非ざる者……いや、まさか。
「どうかなさいましたか?」
不安げな表情で老人は言う。私は横に首を振った。
「仕事が残っていますので……何か入り用なものがありましたら、なんなりと遠慮なくお申しつけください」
不必要に追求することもなく、老人は頭を下げて出て行く。これからしばらく寝食をともにするであろう人間がしつこい性質ではないことに安堵した。何もないようなところではあったが、私にはやるべきことがある。
そう、私は父の跡を継ぐことを諦めたわけではなかった。今回の失敗は確かに痛手ではあったが、地位を決定付けるものではない。まだ、挽回の機会はある。書類を取り出し、眼鏡をかける。
ギシッ。廊下の床板が音を立てる。反射的に顔を向けると、襖が僅かに開いていた。
縁側に腰掛け、月を、星を眺める。
夜は街灯が絶えることがない暮らしをしていた自分は、月や星がこれほどに明るいものだとは知らなかった。
「おかえり、一哉」
確かに聞こえたその声にはっとする。
振り向くと、やはり僅かに開いた襖の向こうに白いものが翻った。即座に立ち上がり、襖を開く。だが、そこには誰の姿もない。廊下を見回すと、廊下の突き当たりに白い着物を着崩した少年の姿があった。歳は十五、六だろうか。白い着物の手足から覗く白く細い手足、頸、白い貌。血の気が感じられない。
「おかえり、一哉」
もう一度、声は響く。少年の血の気のない唇がその言葉を紡いだことは確かだ。半ば病的でさえある、しかし、だからこそ美しいとも思えるほっそりとした白い貌に、柔らかな笑みが浮かぶ。
「誰……だ?」
少年は答えず、廊下を曲がる。待ってくれと声をかけるその前に、身体は動きだしていた。追いかけ、角を曲がる。少年はすでにひとつ向こうの角にいる。誘うようにこちらを見やり、そして、角を曲がった。何度か同じことを繰り返したあと、少年の姿は消えた。だが、そこは行き止まり……いや、扉がある。
近づき、確かめる。と、やけにその扉が頑丈な造りであることに気がついた。鉄製の閂で扉は封印されている。内側から閉められるわけがない。では、あの少年はいったい?
「一哉様」
突如、背後から響いた老人の声に肩を震わせる。
「そこは、開かずの扉でございます。どうかこちらへ、お戻りください」
開かずの扉……?
怪訝に思いながらも扉から離れる。老人に連れられるようにその場をあとにする。振り返ると、扉の前にはあの少年が佇んでいた。
ふと、座敷わらしの伝承を思い出す。幼子の姿をした家の守り神。なんらかの理由で表に出すことが叶わず、存在を知られぬままに死した子の障りを恐れ、祀られたもの。あれはそれに違いない。それだとは言い切れなくても、それに近い存在ではあるだろう。
それから、少年は事有るごとに私の前に姿を現した。何をするわけでもなく、ただ私の名を繰り返す。幻覚か、もしくはこの世のものではなかろうが、害はない。いや、あるのか。日に日に私は少年の姿を追うようになっている。
何度か声をかけたこともあった。だが、少年はこちらの言葉を聞いているような様子を見せながらも、答えることをしない。ただ、微笑みを浮かべ、招こうとする。
あの閉じられた部屋へ。
開かずの扉、あの向こうにはどんな光景が広がっているのか。とりつかれたようにそのことばかりを考える。これでは駄目だと少年のことを忘れたいがために書類を取り出し、目を通す。だが、目は文字を追うだけで、まったくと言っていいほど頭のなかに入っては来ない。気づくとあの少年のことばかりを考えている。あの子供ではない、だからといって大人でもない、この時期の少年だけに許された造形美に触れてみたい。そんな純粋で邪な思いを知ってか知らずか、少年は触れるほどの距離には決して近づかない。いつでも、届きそうで届かない位置にいる。
「一哉、まだ思い出さないの?」
はっとした。それは少年が背後から書類を覗き込めるほどの距離にいたせいではない。ここに訪れて以来、考えまいとした疑問。それを呼び起こす言葉を口にしたからだ。
以前、ここに訪れたことがあるのではないか?
普段の私であれば、何であれ疑問は解消しようと試みる。だが、それをしなかった。心に重くのしかかる『何か』に怯えていたせいだ。考えまいとしていたことは、少年の呆気ない一言で肯定された。
私は、以前、ここに訪れたことがある。
「まだ、思い出さないの?」
少年は言う。
「何を、何を思い出せという……待ってくれ!」
くるりと身を翻した少年の腕を掴んだ……かに思えたが、それは一瞬。するりと腕をすり抜ける。見た目どおりに冷たい腕。少年は誘うように襖で立ち止まり、ほんの少し目を細めた。
立ち上がり、少年のあとを追う。暗い廊下を何度か曲がり、誘われた場所は、やはり開かずの扉の前だった。
おまえは、この扉を開けろというのだな。いいだろう、開けてやる。私は扉の閂に手をかけた。長らく動かされた形跡がなく、かなりの力を要したものの、どうにか閂を動かした。頑丈な扉に手をかけ、開けられる状態となったとき、一度だけ、躊躇った。老人の言葉が頭を過ったからだ。ここで止めてくれるならば、私は扉から離れたかもしれない。だが、老人の制止の声はなかった。
扉が、開く。
そこは殺風景な部屋だった。厳重にもなかには木製の格子がある。座敷牢のような、いや座敷牢そのものであるといった方がいいかもしれない。あかり取りが目的の窓が高い場所にある。千羽鶴や紙風船、風車といった最近ではあまり見なくなった昔の玩具が床に転がっている。そのなかに、近代的なものがひとつだけ紛れていた。幼い頃に見たことがあるような手足が動くロボットの玩具。手に取り、何の気はなしに裏返す。と、そこには油性のマジックで歪んだ文字が書いてある。
「くがみ……いちや……?!」
それは私の名前。その子供ながらの歪んだ文字はかつての私のもの。驚きと気持ちの悪さから思わず手にしていたそれを投げ捨てた。音をたてて転がるそれを白い指が拾いあげる。
「乱暴にしないで。これは、私がもらった大切なもの……」
この部屋には誰の姿もなかった。だが、気づくとそこにいる。
「おまえは……」
少年は近づいてくると私の前に立ち、私の顔を覗き込む。黒く澄んだ瞳。白い着物から覗く白い首筋と鎖骨。求めていたものが目の前に、触れられるほどの距離にあるというのに、私の腕は戦いた。僅かに震えを伴う腕は途中で止まる。と、少年は細い腕を伸ばし、その細く繊細な指先で私の指を撫でた。何かを探り、確かめるような動きを見せたあと、少年の唇は言葉を紡ぎだす。
だが、その言葉は最後まで私の耳には届かなかった。