短編祟神
季節は、夏。
近くから、遠くから聞こえるものは、蝉の声。それはやたらと喧しかったはずなのに、駐車場から続く細い道を歩いていくと次第にか細い音となり、そして、ついには完全にその音を消す。
「お父さん」
周囲に木々は溢れている。なのに、蝉の声は遠くなるどころか、消えてしまった。しんと静まり返った細い道の先にあるもの、それがたまらなく恐ろしいもののように感じた。不安にかられ、父を呼び、足を止めようとしたが、父はその声に応えず、歩みも止めなかった。
「なんだか、嫌な感じがする。帰ろうよ……」
すると、父はなんともいえない複雑な笑みを見せた。
「おまえは……そう、あれに似ているのかもしれないな……」
父の言うところの『あれ』がなんのことなのかは、わからない。わかることは、父は自分の言葉を聞かないであろうということ。帰ろうと頼んだところで、帰るわけがない。
そう、昔からそうだった。
父はどこか冷めた目を向ける。
私を見おろすその目は、いつであれ冷やかだった。少年である私には、その理由は長らくわからなかった。そう、父がどこか冷めた目を向ける理由を知ったのは、随分とあとになってからのこと。母が亡くなり、やはり同じ頃に母を失ったというひとつ下の異母弟という存在が初めて私の前に姿を現したとき。
「当然か。おまえは、あいつとあれの……」
「お父さん?」
父は強く私の肩を掴んだ。父のその手には少年の華奢な肩など手に余る。掴まれ、その力の強さに身体が揺れた。その反動で手にしていた超合金のロボット玩具が手を離れた。地面へと転がり落ち、可動部分のネジが緩くなっていた首が外れる。幼い頃に父が買い与えてくれたたったひとつの玩具。それを見ると、父は目を細めた。
「まだ、そんなものを……捨てないか、いい加減」
吐き捨てるように父は言った。だが、それは私にとっては、宝物。幼稚園の私が書いた如何とも読み難い仮名の名前を父は褒めてくれた。あの頃の父は、まだ、あの目で私を見なかった。
「……」
答えず、俯く。それが、精一杯の反抗。父はゆっくりと指を開き、肩から手を離した。私は玩具を拾いあげ、首と胴とを繋げる。それを見届けたあと、父は私の手を掴み、何事もなかったかのように、また、歩きだす。私にその手を振り払う余裕も、立ち止まらせる余裕も与えてはくれなかった。
父の手につられながらやって来たその家は、旧き良き時代をそのまま閉じ込めたような庭園のある日本家屋だった。
「これはこれは、遠いところをご苦労さまです」
がらがらと玄関の戸を開けた父とその父の後ろに隠れる私とを出迎えてくれたのは、壮年の男だった。恐る恐る父の背後から様子を覗き見る私と目があうと、男は笑みのようなものを浮かべたが、私の目にはどこか不器用なそれは不気味なものにしか映らなかった。会釈もせず、反射的に父の背中へと隠れる。そういう意味では、父の態度がどうであれ、私は父を父だと慕い、頼っていたことになる。そう、どうであれ、何であれ、父は父なのだ。それは生涯、変わり得ない……おそらく。
「和貴の様子はどうですか……変わりはありませんか?」
カズタカと呼ばれるその人は、父の弟だった。小さな頃、仕事で忙しい父に変わり、母と私の相手をしていてくれた優しい人と記憶している。だが、いつの頃からかその姿を見なくなり、そして、それからほどなくして母が亡くなった。
「ええ……」
曖昧な返答と、苦笑い。だが、あの優しい人がここにいることを知った。ここは遠く離れた場所。だから、簡単には会いに来られなくなったのだろう、そう思った。
「どうぞ、おあがりください」
促され、玄関をくぐる。わりと広いそこには、猛禽類の剥製があり、靴を脱ぐ私を睨みつけていた。蛇に睨まれた蛙のような、金縛りにも似た感覚で動きを止める。その間に壮年の男は廊下を行き、父もその後ろに続いていた。慌てて靴を脱ぎ、父のあとを追う。置いて行かれたくはない一心で廊下を駆けると、父が振り向いた。諌める眼差しに駆けるのをやめて、静かに歩きだす。
「こちらです。……ですが」
いくつかの廊下を曲がったあと、壮年の男はひとつの襖の前で立ち止まり、膝をついた。何か言いたげな視線を父に向け、それを受けた父は私に顔を向け、言った。
「おまえは向こうに行っていなさい。……よろしくお願いします」
父は壮年の男にそう告げ、頭を下げる。そして、壮年の男が開けた襖の向こうに姿を消した。私が好奇心にかられて襖の向こうをそっと覗き見ようとするその前に、壮年の男は静かに襖を閉める。僅かに見えた襖の向こうに、一瞬、背中が見えた。それは懐かしいあの人のものだということは、考えるまでもなく瞬時にわかった。
「一哉様、向こうにお茶菓子がありますから」
どうしてあの人に会わせてくれないのだろうという疑問を抱いたまま、促されるままに襖の前をあとにする。部屋のなかではどんな会話が交わされているのか、あの人は自分のことを憶えていてくれるのか、どうしてあれから一度も会いに来てくれないのか等の疑問を繰り返しながら。
玄関がどこにあるのかわからないくらい廊下を曲がり、通された部屋には円形の、所謂ところのちゃぶ台と呼ばれるテーブル、古い型のテレビがあった。妙に小さな画面、画面の横に数字が書かれたボタン、家具のように四つ足がつき、室内アンテナを持つそれに驚く。
「さあ、どうぞ」
壮年の男は冷たい麦茶と、駄菓子と呼ばれる類の都会ではあまり見なくなった菓子を並べる。そして、テレビを点けてしばらくは私の近くでテレビを見ていたが、やがて仕事があるからと立ちあがり、部屋を出て行った。残された私は、見たこともない番組に退屈をしていたので、是、幸いとばかりにそっと部屋をあとにした。少年期特有の好奇心にかられ、屋敷内の探検に出発する。
同じような廊下と襖の連続に迷わぬように、左の壁に手をついて廊下を進んだ。右か左か、どちらかの壁に手をついて歩けば迷路をくぐり抜けることが出来ると教えてくれたのは父だったのか、あの優しい叔父だったのか。
「こんにちは」
不意にかけられた声にびくりと肩を震わせた。それはあの壮年の男の声ではなく、ましてや父でもなく、叔父でもなかった。
「君は、前にここに来たことがあるよね。だから、こうして会うのは二度目になる」
それは、白い着物の少年。自分よりも僅かに年上の少年を見あげ、ふと、どこからこいつは現れたのだろうと考えた。人の気配など、なかった。それなのに、気づくと目の前にいる。襖の開いた音も、廊下を歩く音もしなかった。だが、それより疑問だったのは、自分がここに来たことがあるという言葉だった。
「二度目……?」
「そうだよ。そのときは、女の人が一緒だった」
「女の人……」
「そう。そこで揺れていた」
少年が指さす廊下の向こう。太い梁が突き出たそこに、一瞬、何かが頭を過る。だが、それは……夢。そう、あれは、違う。現実ではない。
「違う!」
「……ふふ、君が違うと言うのなら、それは現実ではないのかも。それよりも。一緒に遊ぼう?」
少年は白い腕を差し出した。
「一哉、どこにいる、一哉!」
夕刻になり、父の呼び声にはっとする。歳の近い少年と過ごす時間は案外と楽しく、都会ではとても味わうことができない遊びに気づくと夢中になり、時が立つのを忘れてしまっていた。
「行かないと」
別れ難いのは、自分も同じ。少年期の付き合いに時間は関係ない。同じ時を過ごし、同じものを感じれば、もう、それはかけがえのない友達。
「……」
少年は答えない。
「また、来るから。ね、僕、またここに来るよ。お父さんに連れて来てもらうから」
「……」
それでも、少年は答えない。
「絶対に……そうだ、これ、僕の宝物だけど……君に、預けておく」
たったひとつの宝物。それを約束の証に差し出した。少年は白い腕を伸ばし、私が差し出した超合金のロボット玩具を受け取る。
「また、来るから。そのとき、返してもらうよ……え?」
少年は受け取ったはずの玩具を突き返してきた。驚き、戸惑う私の腕を、白い手がその華奢な腕から考えられないほどの力で掴む。怯み、反射的に腕を退こうとするが、まったくと言っていいほど、動かない。
「代わりのものなどいらない。私は、今、君が欲しい」
その声と表情は、およそ少年らしくはなく、何か別のものに感じた。身体中の毛が逆立つような感覚に怯え、声も出ない私に少年は近づく。と、私の腕を掴む少年の白い腕を大人の手が掴んだ。
「あらぶる心を鎮めるは、私の役目。この子の役目ではない」
そこにいたは、あの優しい人……叔父だった。
「叔父さん!」
久しぶりに見る叔父は、少しやつれていた。健康的な人だと思っていたのに、そこにいる叔父は、血色が悪く、どこか病的に見えた。だが、私の声に反応し、以前と変わらぬ優しい笑みを向けてくれた。
「何故、止める。この者が留まれば、おまえは解放されるのだぞ」
少年は無表情で言う。しかし、掴んでいた私の腕を静かに解放し、一歩、退いた。
「君には、一生、わかるまい。……一哉」
「叔父さん……叔父さん、どうして急にうちに来なくなってしまったの?」
訊ねたいことは、それこそ、たくさんあった。言いたいこともあった。だが、叔父は優しいが、どこか憂いた笑みを私に向け、問いかけに答えることなく、ただ、私の身体を抱きしめた。私といえば、そんな叔父の抱擁に疑問も言いたいことも解消され、黙って以前よりも細い叔父の身体に腕をまわした。そう、言葉など必要なかった。叔父は、あのときと変わっていない。私のことを好いていてくれている、確かにそう感じた。
「一哉、おまえが大人になるまで、どうにか私は生き長らえよう。兄は、私もおまえも許さない。きっとおまえを次の魂鎮めに選ぶだろう……」
叔父の言葉の意味はわからない。だが、真剣なことだけは伝わって来た。
「祀神は、祟神。贄なくば、祟る。だから、その前に、狗神(くがみ)家をあとに……家を出るんだ。いいね、一哉。家を出るんだぞ……必ず」
「よくわからないよ、叔父さん……」
「一哉……」
叔父は泣きそうにも思える顔で私の名を呼び、そして、私を解放すると背を向けた。あとを追おうとする私の前に、少年が立ちふさがる。
「彼の言うことに間違いはない。だが、ひとつだけ、訂正だ。選ぶのは、彼ではない。私だ……そう、一哉。また、会おう。それまで、これは預かっておくよ」
玩具を悪戯に弄びながら、少年は言った。
◇ ◇ ◇
何かを思い出しかけた。
大切な、何か。
「悪い話ではないと思うの……だから、お願い。狗神の名を捨てて、うちに来て。お父さまもあなたなら、跡を任せてもいいと……」
「君の申し出は、ありがたい」
愛する女性はとある企業の令嬢だった。婿養子として私を望んでいる。父の会社よりもよほど大きな会社、それを任せてもいいとまで言ってくれている。弟との後継者争いにもそろそろ疲れてきたところで、その申し出はこれ以上はないというほどの好条件だった。その話を受ければ、後継者争いをすることもなく、会社の建て直しに東奔西走することもなく、希望に満ちた新たな道を拓けるはずだ。彼女もそれを望んでいる。
「だが、今は受けられない」
「どうして……」
彼女は哀しげに視線を伏せる。だが、他の何は譲れてもこればかりは譲れない。
「傾きかけた父の会社を放ってはおけない……会社を再建できたなら、そのときは、きっと」
それを手土産に胸を張り、彼女の父に挨拶をすることができるだろう。それが、男としての私の尊厳。
「そう……約束よ」
「ああ、約束だ」
次の接待を成功させることができれば、おそらく、それた軌道を修正することができるはず。
手に手を取り合い、身体を寄せ合った私と彼女の背後から、不意に声が響いた。
「そうはいかないよ」
その声には聞き覚えがある。だが、どこで。それに、声はどこから。この部屋には彼女と私しかいない。
「な、なに? 今、何か声がしなかった……?」
「私には何も聞こえなかった……気のせいだろう」
彼女も声を聞いている。気のせいではないのだろう。だが、変に怯えさせることはないと何もなかった風を装う。
コンコンと扉が叩かれた。答えを待たずに扉は開かれ、弟が顔を出した。
「一哉! ……あ、これは……すみません」
「どうした?」
静かに声をかけると、彼女に愛想的な会釈をしつつ、弟は近づいて来る。
そして。
「和貴さんが亡くなった」
私の耳元に口を近づけると、そう言った。
◇ ◇ ◇
「これは、返すよ」
白い腕が差し出したのは、超合金のロボット玩具。
「そういう約束だった」
「そう……だ」
不意に思い出した。
私がこの家に訪れるのは、三回目。
一度目は母に連れられ、二度目は父に連れられ、そして三度目は自らの足で来た。この家に訪れる度、私は何かを失った。
「辛くはないよ。ここには、君が望む光景がある」
少年の視線の先は、私の背後。振り向くと、庭の向こう、椿の影にあのときと変わらぬ母と叔父の姿があった。微笑み、手招きをしながら何かを口にしている。声は聞こえなかったが、自分を呼んでいるのだということはすぐにわかった。
僅かな胸の傷みに耐えながら、私は一歩、踏み出した。