短編残影(1)
引っ越すことは、以前から決まっていたことであって、決してあの事件が関係しているわけではない。
最初にそれだけは言っておこう。
坂本とは、所謂、腐れ縁というやつだった。
小学校からの付き合いで、特別、仲が良いわけではなく、行動をともにするグループはお互いに違う。それでも、仲が悪いというわけではないから、顔を突き合わせば『よう調子はどうだい』と声をかけるし、そのときにもし腹が減っているようであればメシを喰いに行くこともあったし、話が盛りあがれば映画を観に行くこともあった。
その特別に仲が良いわけではない坂本と特別に仲が良くなったのは、進んだ高校が同じであったからだ。複数の中学から生徒が集まるから、最初は自然と同じ出身校の奴らでつるむことになる。これは、ごく自然で当たり前な流れであり、そのうち、慣れてきて出身校など関係なく気があう奴らができるわけだが、飯田という奴がまさにそれで、坂本と飯田、俺の三人はよくつるんでいた。特に、坂本と飯田は映画の趣味がよく似ていて話があうようだった。映画といえば話題作を押さえておく程度の俺にはついていけない突っ込んだ内容で、やれあれはどうだ、これはどうだと熱い討論を交わしていた。決して、喧嘩になるようなことはなかったのは、見解があわずに対立しそうになると意見を求められた俺が決まって笑ってごまかしていたからだろう。……仕方がない、俺には二人ほどの映画の知識がないのだ。ごまかす俺を見て、二人は仕方のない奴だと笑い、俺自身もそれを笑っていた。
たぶん、苦もあれば楽もある人並みな高校生活を過ごしたあと、なんとなく流れで大学へと進んだ。特別にこれがやりたいということがあったわけではない。ただ、高卒で就職するよりは、大卒で就職した方が給料面で優遇されること、職種の幅が広がる、もう少し遊びたかったというそれだけの理由だ。幸いなことに両親は疑うことなく俺の向学心を信じてくれたようで、二つ返事で進学と上京のための費用を用意してくれた。
そんな俺とは違い、坂本と飯田の二人にはやりたいことがあった。映画が好きな二人はどうやらそっちのほうへ進み、それで生きていきたいらしかった。将来は三人で映画を制作しようと言い、何故に俺まで入っているんだよと突っ込みながらも、二人の夢というか将来の展望というものに眩しいものを感じていた俺は、付き合えるところまでは付き合おうとたいして興味のない映画制作の同好会の扉を叩いたのだ。
それが、間違いだった。
いや、それ自体は間違いではなかったのかもしれない。
間違いだったのは。
「近藤くん、はい、差し入れ!」
「うわっ」
声と同時に背後から頬に冷えた缶が添えられる。
「おまえなぁ……」
苦笑いを浮かべながら缶を受け取り、プルタブを開けようとすると、冷えた缶を持ってきたせいで冷えた細い指がそれを制した。
「だーめ。振らないと淀んでるよ」
何が淀んでいるのかと思いながら缶を見やる。アロエヨーグルトサワー、ナタデココ、タピオカ入りと書いてあった。
「……なんだよ、これ。すっげ、マズそう」
流行っているから入れればいいというものでもない。ため息をつき、これでもかというほどに振ったあと、プルタブを開けた。
「ほらよ」
飲む前にどうぞと差し出すと、好奇心が旺盛そうに見える瞳を輝かせながら、恐る恐る缶へと口をつけた。一口、ごくりと飲んでからにこりと笑う。
「ごっつあんです」
「どうよ? ……うわ、最低」
口の中でナタデココだかタピオカだかよくわからないものがぷるぷるしている。俺は飲みたいのであって、喰いたいわけではない。
「あはは、これも飲んでみる?」
そう言って差し出したのは、ティラミスコーヒー。煽り文句は、濃厚なマスカルポーネとコーヒーのコラボレート、か……。こんな得体の知れないものをいったいどこで見つけてくるのだろうと不思議に思いつつ、横に首を振った。
「普通のはねぇのかよ」
「えー、近藤くん、こういうの好きそうだから」
俺はいったいどういうふうに人に思われているのだろう。とても不安になった。
「今度は、コーヒーソーダっていうやつを買ってくるからね」
やめてくれ、俺は心のなかで訴えながら、苦笑いを浮かべた。
彼女、平野美鈴は同い年、同期だった。坂本、飯田、俺の三人と一緒に同好会に入ったただひとりの女の子で、美人というわけではないが、親しみやすい可愛い子だった。同期ということで自然と仲はよくもなる。紅一点なうえに可愛いとあれば、三人の中で特別な存在になるまでにはそれほどの時間を要さない。もとよりあまり異性には縁がない俺たちだ。一年目の夏を迎える頃には三人が三人とも彼女に対し淡い恋心を抱くようになっていたとしても、それは仕方がないことだっただろう。
「大道具さん、進み具合はどうかな」
「暑くてたまらねぇよ。なんとかしてくれよ、この陽射し」
炎天下、大道具係である俺はひとり、材木と格闘する。他にも大道具係はいるのだが、やはり先輩たちは涼しいエアコンのきいた部屋で割合に楽な作業を行う。大変な仕事は新入部員に回される、これは世の中の定理、仕方がない。
「確かに暑いな……いっそ、プールにでも行くかい?」
「俺はいいけど、坂本が嫌がるだろ」
坂本は泳げない。泳げないというよりも、水を怖がり、近づかない。小学校の頃に溺れてから、中学、高校の水泳の授業はすべて風邪を理由にパスしていた。だから、夏の遊び場の定番であるプールや海は俺たちには遠い存在になっている。
「それもそうか。……じゃあ、手伝おうか。美鈴ちゃん、坂本も呼んできてくれないかな」
「はーい」
平野は涼しい部屋で稽古をしているであろう坂本を呼びに行った。それを見送り、飯田は近くにあったノコギリを手に取った。
「いいのかよ、脚本係」
飯田の白く細い手には不似合いなノコギリ。それを見ながら、板を押さえた。飯田はガムテープを張った場所の真ん中をノコギリで切りはじめる。ガムテープを貼ることでベニヤの切り口が滑らかになることを大道具を担当にするようになってから知った。
「構わないよ。たまには陽にあたらないとね……痛っ」
「あーあ、慣れないことをするから……大丈夫か?」
安っぽいノコギリのぺらぺらな刃がぐにゃりと揺れ、妙な具合に飯田の指を傷つけた。飯田は指を押さえながらも苦い笑みを浮かべてみせる。心配させまいという顔だ。
「平気、平気。左だから。右が平気なら問題ないよ」
まあ、利き腕が大丈夫なら問題はないだろう。傷もたいしたことはなさそうだ。
「俺がノコギリをやるから。おまえが押さえてくれよ」
「そうだね。そうする」
最初からそうすればよかったのだ。不器用なのだから、無理をすることはない。そんな具合でぎーこぎーことノコギリを動かしていると、平野が坂本を連れて来た。
「暑い最中にご苦労さん。手が足りないんだって?」
「まあ、そんな感じ。ベニヤにガムテープ貼ってくんない?」
坂本もどちらかというと線が細い。飯田と坂本を見て、やはりこの三人のなかでは俺が大道具になるしかないのだなと改めて思った。
「OK、ここにあるやつ、全部?」
「そう。平野もヒマなら手伝ってくんない?」
「うん、いいよ。なにする?」
平野は素直に頷き、指示を待つ。
「これでベニヤの隅にイロハ振ってくれ」
油性マジックを手渡し、指示をする。平野は、はーいと返事をして作業に入った。これで少しは楽になる。
「あ、普通の字で頼むぞ」
「なによー、いつだって普通だよ、私の字っ」
ちょっとむっとした顔で平野は言う。だが、自分の字が普通だと思っていたら、それは大きな間違いだ。早く訂正しておいたほうがいい。女の子文字とも言えばいいのか、やけに丸っこいようななんとも読みにくい暗号のような字。女の子らしい、実に可愛い文字だと飯田も坂本も言ってはいたが、俺は字に可愛さなど求めるものではないと思った。単に読みにくいだけだ。字とは誰が見ても読める、こうでなくてはいけない。シンプルイズベストだ。
「普通じゃねぇっての。ほら、ロは四角。丸じゃねぇだろうが」
「ロだってわかるんだからいーじゃない」
それはそうなんだけどさ。
「ははは。ところで、脚本はどうだって聞かないのか?」
飯田は俺と平野のやりとりを見て笑ったあと、なんとも言えない顔で坂本を見やる。坂本はびりっとガムテープを伸ばしながらなんてことはないというふうに答えた。
「おまえがここにいるってことは、不調ってことだろう」
「ははは……」
「あー、おまえ、煙草くさいな」
「あれ、わかる?」
飯田はくんくんと自分の匂いを嗅ぐ。
「わかるって。煮詰まるといつもそうだよな……健康に悪いからやめておけよ」
煙草嫌いの坂本は嫌悪感を露にする顔で言った。飯田は机に向かう作業が多いせいか、気分転換に煙草をよく吸う。俺は親からの仕送りだけに頼る生活をしているため、煙草を買う余裕などない。よって、吸うことはなく、時折、飯田から食後に恵んでもらうことがあったが、それは坂本がいないときに限られた。さすがに嫌いなことがわかっている奴がいる前では吸わない。そのあたりは飯田も心得ていて、坂本の前では煙草を吸わない。
「そうだね、何かきっかけがあればなぁ……たとえば、彼女が煙草嫌いだとか」
と、飯田は笑った。
「あ、私、煙草嫌いだよー」
はいはーいと平野が手をあげる。飯田はにこりと笑った。
「美鈴ちゃん、彼女になってくれるの?」
「どうしよっかなー?」
「あ、美鈴ちゃん、俺も彼女、募集中だよ」
坂本が言う。ならば、俺も言わねばなるまい。
「俺も俺も」
「もてもてだね、美鈴ちゃん」
このとき冗談で告白した三人のうちのひとりと彼女がまとまったのは、どうやら季節が秋に変わろうという頃だったらしい。本人の口から聞いたのは、師も走りだすという十二月のことになるのだが。