●大日本帝国陸軍・ビルマ、インパール、インドシナの戦い
証言記録・兵士たちの戦争
NHKBS DVD各45分
●北部ビルマ 密林に倒れた最強部隊〜福岡県・陸軍第18師団(2007年8月13日放送)
戦前の陸軍で、皇室の紋章である「菊」の名を名乗った唯一の師団があった。福岡県で編成された陸軍第十八師団、通称「菊兵団」。日中戦争さなかの中国大陸を転戦、ビルマ(現ミャンマー)攻略に参加する。ところが、ジャングルの戦いで、菊兵団は連合軍の反撃に苦しめられる。ジャングル戦に不向きな武器、届かぬ補給、熱病。絶対的に不利な状況の中で、戦い続けなければならなかった男たち。迫真の証言が、戦場の真実を明らかにする。
●ビルマ 退去戦の悲闘 〜福井県・敦賀歩兵第119連隊〜2007年 8月20日
昭和19年、福井県敦賀市の歩兵第119連隊にある命令が下った。任務は“退却支援”。ビルマ戦線で壊滅状態に
陥ったった主力部隊を救出せよというものだった。
味方の盾となり、連合軍の追撃を防ぐ第119連隊。補給もなく、マラリアや赤痢など病に倒れる兵士も続出した。第119連隊はおよそ2700人が戦死。生存者は1000人にも満たなかった。
元兵士たちの証言から、無謀な作戦にほんろうされたビルマ戦線の実像に迫る
●インパール作戦・補給なきコヒマの苦闘〜新潟県高田・陸軍歩兵第58連隊〜(2008年7月28日放送)
日本から4500キロに位置するミャンマー。太平洋戦争中、かつてのビルマ(現ミャンマー)とインドの国境地帯に広がるこの密林地帯は、日本陸軍の苦闘と敗北の舞台となった。
インパール作戦。日本が各地で敗北を重ねていた昭和19年、陸軍はインド東部の都市インパールを制圧し、一気に活路を開こうとする。しかし、日本軍は壊滅的な敗北、半数の将兵が死亡する。
新潟県の出身者を中心に編成された陸軍歩兵第58連隊は、インパール作戦の成否を左右するコヒマの激闘を戦うが、作戦の補給計画はずさんで、3か月以上もの間、食糧や弾薬がほとんど届かなかった。
英軍は圧倒的な物量で攻撃を加え、また、おとずれた雨季の激しい雨が、将兵を苦しめる。
退却を命じられた将兵は、雨の中、飢えや病気で次々と倒れていく。補給のない絶望的な戦いの中で、兵士たちは何を見て、何を感じたのか。
●ビルマ 濁流に散った敵中突破作戦 〜徳島県・歩兵第143連隊〜 2008年 7月28日
太平洋戦争で、激しい戦闘が繰り広げられたかつてのビルマ。
太平洋戦争終盤、攻勢に転じた連合軍を前に、日本軍は苦しい闘いを余儀なくされ、戦死者は16万人にのぼった。その中でも、過酷な退却戦を強いられた徳島県の郷土部隊、歩兵第143連隊。
武器も食糧も補給されず、四方を連合軍に囲まれる中、決死の覚悟で、連合軍の包囲網を突破しようとした。「もう少しで味方の部隊に合流できる。」そこに立ちふさがったのが、川幅が200メートルを超えるシッタン河。雨季で増水した濁流に、多くの兵士たちが飲み込まれていった。
部隊が孤立したのは、いち早く撤退した日本軍司令部によって、前線に置き去りにされたからである。
退路を断たれたうえに、追い討ちをかける事態も進む。日本に味方していたビルマ軍が、連合軍側に寝返ったのだ。第143連隊の将兵の証言から崩壊していくビルマ戦線の実態に迫る。
●インパール作戦 補給なき戦いに散った若者たち 〜京都 陸軍第15師団〜
2009年 6月27日
祇園祭にちなんで名付けられたといわれる部隊「陸軍第15師団」、祭兵団。昭和19年、この15師団は悪化する日本の戦局を打開しようと決行された「インパール作戦」に参加。
当時、日本の占領下にあったビルマ、現在のミャンマー。その奪還を目指して攻勢を強める連合軍に対し、日本軍はインド東部にあった連合軍の拠点、インパールを攻撃し、活路を開こうとする。
しかし、圧倒的な敵の兵力を前に、日本軍は惨敗。15師団の総勢2万人のうち、4分の3にあたる1万5千人が亡くなった。悲惨な戦場で連合軍の捕虜になることを恐れ、多くの若者が手りゅう弾などで自ら命を断つ。中には、やむを得ず仲間に手りゅう弾を渡し、自決に手を貸した人もいた。
過酷なインパール作戦の戦場で15師団の若者たちに何があったのか、その実態に迫る
●水筒と飯盒
ビルマ戦線・戦場の記憶
BS日テレ 100分
昭和20年8月15日、大東亜戦争は日本の無条件降伏によって終わり、今年平成17年はそれから60年の歳月を経ます。
この映像は大東亜戦争の中でも激戦の地であったビルマ(現ミャンマー)の戦場に斃れた多くの日本の兵隊を鎮魂し慰霊するために制作されました。
戦場になったミャンマー各地をスタッフは2度にわたって訪れ、撮影と編集に3年の歳月をかけました。生き残った兵隊の方々や心から協力していただいた方々に出会って、遂に完成いたしました。
映像による迎え火であり、送り火です。
譬えてみれば映像で作ったお精霊棚、盆棚です。
戦場の凄惨と戦友たちの最期を、元下士官、元兵だった5人が語ります。
戦場から生還した私たちの21世紀への遺言です。
陸軍軍曹 小栗義一(大正8年生)
分隊長として部下とともに闘ったビルマの戦場は60年の間片時も忘れることはできない。悪性のマラリアで気の狂ったしまった伍長。もう一歩も歩くことのできなくなった上等兵。母への遺言を私に託した伍長。自決した2名の部下。一人一人は今も私の中に生きている。
陸軍軍曹 桑原眞一(大正10年生)
戦争で一番つらい思い出は、生きて帰り、隣近所にともに育ち小学校、商業学校同級生だった戦友の安否を親族の方に問われたことでした。生還することがこれほどつらいことだとは思いませんでした。
陸軍兵長 上垣内栄一(大正9年生)
食べ物も薬も何もないんだ。バタバタ兵隊が死んでいった。塩もなかった。米もなかった。火を起こすのも大変だった。戦争にいったことのない人に見てもらいたい。
陸軍兵長 辻田美信(大正7年生)
食べるものが何もない。食べ物がなくなったら人間は死んでしまう。スタッフの皆さんと何回も撮影をしたが、私はこの映画を見る人にこの一番大事なことを伝えたいと思って頑張った。
陸軍兵長 城内松春(大正8年生)
私たち5人にとってはビルマの戦場は昨日のことのようにはっきりと思い出されます。「20年前に来たら話していただけましたか」ともスタッフの方に問われましたが、話さなかったでしょう。10年前にも5年前にも話さなかったでしょう。しかし今は話さなければならないと思っています。
戦記映画・復刻版シリーズ
●第8巻 「陸軍航空戦記 〜ビルマ篇」 (1943年・91分))
ビルマ作戦における陸軍の空での活躍。決死の撮影が当時の評判をよんだ航空記録映画の代表作。
製作/日本映画社
●第14巻 「ビルマ戦記」 (1942年/68分)
昭和16年12月に開始されたビルマ・ルート攻略戦。数ヶ月に渡った激戦の克明な記録。
製作/日本映画社
監修/陸軍省

大東亜戦争を語り継ぐ