
大東亜戦争を語り継ぐ
★特攻作戦
●特攻・どうしても伝えておきたい一枚の写真
太平洋戦争65年目の真実
2010.8.14
BS171 60分

| 番組内容 | 「どうしてもこの写真の真実を、今の世代に伝えておきたいんです」1枚の写真からひも解かれる悲惨な戦争の真実を伝える物語。写真の持ち主は千葉県に住む中田芳子さん。14歳の頃、ともに過ごした特攻隊員たちの知られざる真実。運命の8月15日と終戦。生き残り、戦後を一緒に生きたご主人となった人も。戦後も特攻に散った仲間達に“後ろめたさ”を抱えて生きてきたご主人の苦悩。中田さん自身の苦悩…。 |
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| 出演者 | 中田芳子 <ナレーション> 土屋裕一 須黒清華(テレビ東京アナウンサー) |
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| 演出 | <企画・演出> 佐藤悌(日テレ アックスオン) <プロデューサー> 師信介(テレビ東京) 高野隆一(日テレ アックスオン) |
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●証言記録 兵士たちの戦争
NHKBS 各45分
●「人間爆弾“桜花” 〜第721海軍航空隊〜」2010年 10月30日
●ベニヤボート”の特攻兵器 〜震洋特別攻撃隊〜 2009年 10月31日
●重爆撃機 攻撃ハ特攻トス 〜陸軍飛行第62戦隊〜2009年 4月25日
●人間魚雷 悲劇の作戦 〜回天特別攻撃隊 2009年 1月25日
●神風特別攻撃隊 その時
ディスカバリーチャンネル 90分
●アリラン特攻兵
日本と朝鮮半島の狭間で・・・・
NNNドキュメント08 30分
2008.8.31
●許されなかった帰還
NHK ETV特集 45分
知られざる特攻隊員の収容施設 福岡振武寮

特攻隊員たちが隔離収容された振武寮の全景
福岡市内の閑静な住宅街の一画にある九州電力体育館。九州のスポーツの殿堂として数々の名勝負が繰り広げられたその地に、かつて旧日本軍の特攻作戦に参加した隊員を収容した施設があった。振武寮。それは帰還してはならなかった隊員の精神を鍛え直す施設だったといわれる。しかし、公式の資料は皆無に近く、帰還した隊員が表に出ることもなかったため、全ぼうはほとんど知られていない。筑豊・田川に住み民衆の立場からルポルタージュを発表してきた作家、林えいだい(72)は、特攻隊の編成参謀で、振武寮を作った少佐に面会し、それまで外に出されなかった名簿を入手した。そして、この寮に入れられていた帰還特攻兵を見つけ出して取材を重ね、寮内で何が行われていたか、その実態を明らかにしようとしてきた。肺を患い、体調不良に悩まされている林はこの夏、最後の関係者インタビューをして7年間の取材の成果を一冊の本にまとめようとしている。「いつ死んでもおかしくない。でもこの振武寮だけはやりとげて、あの世に行きたい」。これまで歴史の表舞台に出てこなかった振武寮。その実態を、林えいだいの執念とともに描く。
あるHPからの感想
いつものことかもしれませんが、制作者の無知ぶりがモロに出ていて、テロップで「見習仕官」とか、紙製の落下タンクを大写しにして「爆弾」とナレーションを付けたり、国民から強制徴収したお金で作っているのに、少しは勉強すべきです。修学旅行生で溢れる特攻会館の様子を延々と流したり、実に歩きにくそうな浜辺に高齢の大貫氏を連れだしてわざわざ歩かせたり、振武寮と何の関係があるのですか?画面には故倉沢元参謀が所持していた「振武隊編成表」が何度も登場していました。生前の倉沢氏に度々インタビューしたという林えいだい氏がコピーしていたのです。ところが、黄ばんでいて一見本物のように見えたので驚きました。なんと画面にセピア色を付けていたのです。この芸の細かさには驚愕ですが、こんな無意味な画面操作やオドロオドロした効果音に凝る前に、事実の記録にこそ、エネルギーを費やすべきでしょう。また、島津氏が終戦を厚木で迎えたとなっていましたが、陸軍操縦者の島津少尉が何故海軍の厚木飛行場にいたのか?…ご本人がそう言っているのだとしても、その理由を説明すべきではありませんか。そして案の定、振武寮に宿泊した下士官の証言は全く登場せず、「学徒兵云々」などと、特操だから苛められたかのように強調していました。本土決戦への方針転換が、振武寮が存在した20年6月の時点で軍上層部だけの極秘事項であったとか、新鋭機は戦隊で使ったから特攻には旧式な中古機を回したのだとか、倉沢氏の生音声をそのまま流していましたが、決して記憶イコール事実ではありません。本土決戦の例で言えば、決号作戦準備は3月から正式に開始され、5月初めには決号作戦用の特攻隊が続々と編成されています。編成するのは末端の部隊ですから、当然みな知っていることです。飛行機に関しては、今日でもそうですが、操縦者は機種毎に養成されます。特攻に多用された97戦、高練、軍偵などは、操縦者のほとんどが、もともとこれらの機種で教育されているのですから、未熟操縦者でも乗りうるポピュラーな飛行機ということになります。特攻には戦隊でも現用の1式戦、3式戦、それに新鋭の4式戦も多く使われていますが、飛行機の機種と操縦者はあくまでセットです。仮に、4式戦を大量に特攻に用いようとしても、乗れる操縦者がおらず、また整備体制もありません(整備兵も改めて教育せねばならない)。特攻だからオンボロを…などという単純なものではないです。
もう一つ、倉沢氏は録音の中で、不時着は敵前逃亡との疑念を持っていたという意味のことを言外に語っていたように思います。沖縄作戦の場合、故障を理由とした不時着は確かに多すぎるのです。飛行機は使い込まれているから故障が多いというものではなく、整備が完全なら、むしろ信頼性は高いのが常識です。
勿論、105振武の佐藤氏が語っていたように、重い爆弾と燃料満載で飛行機には過大な負荷がかかっていて、狭い知覧飛行場では浮くのがやっとという状態ですから、その結果、不具合が誘発されたことは想像されますが、それでも、完整状態で出撃した飛行機があれほど不具合を起こすものか?と、操縦者である倉沢参謀が疑念を持つのは自然かもしれません。飛行機が旧式だから、使い込まれているから=故障というのは、一見尤もらしいですが、「素人考え」なのです。番組に登場した片山氏は、振武寮に宿泊していたとはいっても不時着組ではありませんから、ある程度客観的に事態を観察していたはずなのですが、何故か彼のインタビュー映像には振武寮での体験は出てこず、大貫氏の怨念ばかりが強調されます。
やはり番組の目的は、林氏の主張そのままに故倉沢氏の冷酷さ、非人間性を世間にアピールし、糾弾することにあったようです。まるで欠席裁判のような、後味の悪い番組でした。
●千の風になって 『知覧高等女学校・なでしこ隊』特攻隊・封印された23日間
2008年9月20日
フジテレビ 130分
●WINDS OF GOD
THE WINDS OF GOD』(ザ・ウインズ・オブ・ゴッド)は神風特攻隊をテーマとした今井雅之作の戯曲ならびに小説。1988年より国内外で上演され、1995年に最初の映画化が行われた。2005年にはテレビドラマ化、2006年には全編英語で再び映画化されている。そして21周年目の2009年に今井雅之演出、オール新キャスト版が調布市せんがわ劇場にて上演された。
●神風特攻隊・大空へ散った若き魂への鎮魂歌
ヒストリーチャンネル 45分
●59年目の特攻秘話・心優しき島
フジテレビ ザノンフィクション
学徒出陣兵
●神風特別攻撃隊 その時
ディスカバリーチャンネル 120分
●陸軍特別攻撃隊・学徒兵許されざる帰還
NHKスペシャル 50分
2007年10月21日
今から64年前の昭和18年10月21日、2万5千人の学徒が雨の神宮外苑を行進した。「出陣学徒壮行会」。学業の断念を余儀なくされ、多くの若者たちが、太平洋戦争の激戦地へと送られていった。その中で、飛行兵を志願した者の多くが、爆弾を積んだ飛行機もろとも敵に突撃する“特攻兵”となった。
昭和18年、ガダルカナル島からの撤退など戦況は急速に悪化。翌19年に万策尽きた海軍が、特攻作戦をレイテ沖海戦で敢行した。これに続き、陸軍も特攻隊を編成。そこに多くの学徒兵も投入された。パイロットとしての訓練は、わずか1年。さらに陸軍は、主な兵器を本土防衛に回したため、特攻隊の装備はほとんどが旧式のものだった。最後の戦闘となった沖縄戦。陸軍特攻隊は、慣れぬ海上で成算なき攻撃を繰り返し、300人を超える学徒兵が海に散った。陸軍の特攻作戦はどのように遂行されたのか。陸軍特攻の司令官が残した日記と元特攻兵の証言を軸にその真実を浮き彫りにする。
●俺は君のためにこそ死にに行く
2007年 東映 映画
140分 DVD
●特攻隊遺族の終わらない戦争・知覧ホタル館
2007.8.15 50分
●出口のない海
映画完成までの熱き道のり
2006年 DVD
●出口のない海
2006年 松竹 映画

ストーリー [編集]
甲子園の優勝投手・並木浩二は、大学進学後に肩を痛めて自慢の速球が投げられなくなり、「魔球」と名付けた新しい変化球の完成に復活をかける。しかし大東亜戦争(太平洋戦争)勃発。並木をとりまく状況は日ごとに激しさを増していく。日本軍は、ガダルカナル島をめぐる日米の攻防戦に敗れてから、敗戦への坂を一気に転がり落ちていった。昭和18年10月、ついに学生の徴兵猶予が取り消され、並木は学徒出陣する。愛する家族や友、そして恋人と別れて海軍に志願する並木。そこには彼と同じく、大切な人たちを守るために戦うことを決意した若者たちがいた。日本の敗色が日に日に濃厚になっていくなか、海軍は“回天”を兵器として採用する。敵艦に体当たりして自らの命と引き換えに戦果を得る、定員1名の回天に搭乗して究極の任務につくことを、並木を始め多くの若者たちが自ら望むのだった。けれども彼らの胸に迷いや怒り、悲しみが微塵もないわけではない。若者たちを乗せた潜水艦は海へと潜り、そして遂に出撃の時が訪れる……。

●特攻 前後編
●特攻 零
●天翔る青春
日本を愛した勇士たち 40分

天翔る青春 日本を愛した勇士たち
日本を守る国民会議
護國神社、等
●在りし日の神風特別攻撃隊
製品版
●潜特 封印された最終兵器
ディスカバリーチャンネル 60分
●屠龍・米軍に体当たりした韓国人少尉
報道特集 32分
●陸軍少年飛行兵
●海軍飛行予科練習生
●女たちの回天/人間魚雷に散った恋
2004年NNNドキュメント(山口放送)
60分 DVD
●ああ回天特別攻撃隊
1968年 東映 映画
●21歳の遺言・いま甦る特攻兵の肉声
2003年8月17日
NNNドキュメント DVD30分
人間魚雷回天
●特攻・城山三郎『青年指揮官を追う』
NHKスペシャル 50分
最後の特攻隊長 中津留達雄大尉
2001.8.13

作家・城山三郎さん(73)は、作家人生の集大成として、「特攻隊」をテーマに取材・執筆活動を行った。城山さん自身17歳で海軍を志願、戦争が長引けば特攻で散っていた命だった。城山さんは一人の青年指揮官を追っている。中津留達雄(ナカツルタツオ)海軍大尉は、優秀なパイロットであったが、終戦を告げる玉音放送の後、特攻出撃し戦死した。彼は、なぜ終戦の詔勅が出た後に出撃したのか、そしてどんな思いで死んでいったのか。番組では、城山さんが中津留大尉の人生を追い、その内面に迫る中で、あらためて戦争を問い直していく。
語り 国井雅比古アナウンサー
●特攻の母・鳥浜トメの肖像
ヒストリーチャンネル 30分
●鳥浜トメと特攻隊員
2001年 知ってるつもり 48分
●特攻隊員436人の母・鳥浜トメ
1999年 知ってるつもり 50分
ナレーション/日色ともえ
●神風特攻に散った青春・名古屋軍エース『石丸進一』
知ってるつもり

石丸進一は、名古屋(いまの中日ドラゴンス)のピッチャーとして、ノーヒットノーランを達成していた名投手です。
石丸進一は、大正十一(1922)年七月、佐賀県佐賀市で五男坊として生まれています。
父親は自営の理髪屋さんです。自分が学歴がなくて苦労したことから、「子供にはまともな教育を受けてほしい」と、教育資金調達のために方々で借金をし、その借金を返そうとして株をやって失敗、膨大な借金を作ってしまいます。のちに進一は兄の藤吉とともにプロ野球の道を歩むけれど、その裏にはこうした経緯があったのだそうです、しかしその借金は、進一が学徒出陣する直前に完済しています。進一は、八歳年上の兄の藤吉の影響で野球を始めます。小さい子供の頃から、少年野球の投手として抜群の天性の才能を発揮していたそうです。
そして兄、藤吉が通っていた佐賀商業に入学します。佐賀商業では、二年生から野球部のエースとして「石丸のワンマンチーム」といわれるほどの活躍を見せます。
ところが、昭和十四(1939)年の甲子園予選では、佐賀の決勝戦で、試合が始まる前に疲労予防のために飲んだ(当時は普通だった)で酔っ払ってしまって力を発揮できず、対戦相手の唐津中学に2−1で敗退してしまう。
翌昭和十五(1940)年も、佐賀大会の決勝まで進出したけれど、前年と同じ唐津中学に4-0で敗れ、在学中は甲子園に出場できなかった。
この頃、兄の藤吉は名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)に入団していて、母校の佐賀商野球部に訪れては、後輩の指導にあたっていたそうです。藤吉に刺激を受けた石丸は、次第にプロ野球に強い憧れを抱きます。
その兄、藤吉も、日中戦争招集され、支那の戦線に向かいます。佐賀商業を卒業した進一は、召集先の支那にいる兄に、名古屋軍(現中日ドラゴンズ)入団志願の血判を押した手紙を送ります。これを読んだ兄が、当時の名古屋軍の球団代表であった赤嶺昌志に進一を推薦。進一は、昭和十六(1941)年、晴れて名古屋軍に入団します。
入団一年目は、兵役で離れている兄の代役という事で、二塁手として73試合に出場します。
結果は打率.197、本塁打0、打点8といいますから、あまりたいした成績ではない。
ちなみにこの年の最高打率は川上哲治の.310、翌年は呉波(呉昌征)の.286です。
しかし、ピッチャーへの夢を捨てきれない進一は、煙草の銀紙を集め、これを丸めて作ったボールで、手首を鍛えて、投手としていつでも出発できるように日ごろから訓練をしていたそうです。翌、昭和十七(1942)年、兄、藤吉が無事復員して、球団に復帰したことを受けて、進一はようやく念願のピッチャーになります。
そして進一は、この年の4月1日、対朝日戦で、いきなり完封勝利をします。
とにかく、投げる球が速い。加えて、コントロールが、針の穴を通すほどの正確さです。進一は、初登板初先発でも、なんと2安打の完封勝利を飾り、さらに7月12日の対巨人戦では、巨人先発が当時プロ野球最強投手といわれた須田博と投げ合って1−0で勝利を飾る。この年の石丸進一の成績は、17勝19敗、防御率1.71と大奮闘です。ちなみにこの年の名古屋軍の成績は、105試合で39勝。
つまり、石丸進一は、勝利数の4割強を稼ぐという獅子奮迅の活躍をしている。翌、昭和十八(1943)年には、十八年の成績は、20勝12敗。
二シーズン通算防御卒1.44です。そして、この年の10月12日、石丸進一は、対大和戦で、戦前最後のノーヒット・ノーランを達成します。おかげで当時弱小球団だった名古屋軍(中日)は、この年の順位を二位まで躍進させる。
その九日後、進一は秋雨の降る神宮外苑競技場で、学徒出陣壮行会に参列します。
学生服にゲートルを巻き、銃を肩にして雨の中を行進した。
式典には出たけれど、実際に進一が軍に入隊したのは昭和十九(1944)年です。
進一は、海軍飛行科を希望し、この年の二月、第十四期飛行予備学生として筑波海軍航空隊に入隊します。
この頃、航空隊では、進一も上官からよく鉄拳制裁を受けていたそうです、そんなある日、上官チーム対予備学生チームの野球試合があった。進一は、予備学生チームのエースとして登板し、上官チームにファウルはおろか、バットにかすりもすらさせず、なんと20対0や30対0といった大差で予備学生チームを勝利させています。
上官チームの一人が、「オイッ、もっと遅い球を投げろ!!」と罵声を飛ばすと、進一は遅い球どころか、もっと速い球を繰り出していたそうです。試合中、予備学生チームの外野手は、あまりに球が来ないからと、全員で、煙草をふかして一服までしたとか。ここでも進一は、予備士官生たちの、まさにエースであった。翌、昭和二十(1945)年二月、石丸は少尉に任官。特攻隊員を志願します。そして海軍特攻基地の最前線である鹿屋基地に転進する。
転進の前日、進一はいったん、佐賀の実家に戻っています。そして従弟の牛島秀彦の家を訪れ、当時小学生であった牛島を呼び出すと、いきなり牛島の顔を思いっきりゲンコツで殴った。驚いた牛島少年が半べそをかきながら、「何でそんなことするんじゃ」というと、進一は、「すまん」と謝った。真剣な目だったそうです。後年、牛島は、当時の模様を振り返って、「きっとあれは、『俺が戦争で死んでも、石丸進一という男がいた事を、牛島、おまえだけはいつまでも覚えておいてくれ』という言葉だったのだと思います」と述懐しています。
昭和二十(1945)年四月二十五日、鹿屋への移動の当日、友人の浅野文章少尉が、最後の言葉を書き残すたにと、小さなアルバムを進一に手渡します。進一は、ペンをとると、そこに、〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜葉隠武士 敢闘精神 日本野球は〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜と書いた。あとの言葉が続かない進一に、浅野少尉が
「この期に及んでまだ野球か?」というと、進一は浅野のほうを振り返り、
「おう!! 俺は野球じゃ、俺には野球しかないんじゃ!! 野球だけなんじゃ!」と怒鳴るように言ったそうです。その途中で終わったアルバムの文章は、未だ、そのままで時が止まっています。石丸進一少尉らの出撃は、最初5月1日に予定されていました。その前夜に書いた赤嶺球団代表への手紙が残っています。彼は次のように記しています。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜野球という職業を選んだことを幸福に思っています。苦しいこともありましたが、それ以上に野球に楽しみを得ました。24歳のいまの私には、何の悔いるところもありません。明5月1日、必ず敵艦命中します。「忠孝」私の人生は、この二字にて終わります。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜しかし、情報が錯綜するなか、出撃はいったん見合わせになります。
5月10日、日本側の索敵機が、沖縄東方120カイリに敵空母2、戦艦4の南下を発見します。そして、菊水六号作戦発動に伴い、石丸は神風特別攻撃隊「第五筑波隊」隊員として500キロの爆弾を装着した零戦に搭乗する。司令の訓示が終ったあと、石丸少尉は、「さっ、名残に一丁、元気でいこうぜ!」と本田耕一少尉に声をかけます。
そしてふたりで、鹿屋基地に近い宿舎の野里国民学校の校庭で、最後の名残のキャッチボールを始めた。このときの一部始終を、従軍記者として取材に来ていた山岡荘八氏が見ています。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜石丸進一少尉が一球投ける。そのたびに本田耕一少尉がボールをキャッチして、「ストライク」と答える。その声が青空を突き抜けるようにあたりにひびく。私(山岡氏)はわれを忘れて球審の位置に立ってみたが、これほど野球が好きだったのかと思うと、残念ながら眼がかすんで、球はまるで見えなかった。たしか十本通して、「ボール」という声は一度も本田少尉の口から漏れず、「よーし、これで思い残すことはない」躍り上がるようにミットとグローブを校舎の中に投げ込んで、私に笑顔を向け、手を振りながら飛行場へ駆け去った。(山岡荘八著『庶民の中の士魂-野球と特攻』)〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜最後のキャッチボールを終えた石丸少尉は、午前六時五十五分、鹿屋基地を離陸します。一番機西田中尉、二番機石丸少尉。石丸少尉は、離陸寸前に、愛機の零戦の風防を開けて、飛行帽の上から絞めていた鉢巻きと、真新しいボールを地上へ投げつけます。そして、五〇〇キロ爆弾を抱いた零戦に搭乗し、沖縄の南の空へ飛び立っていった。彼に前後して、桜花隊、第6神剣隊、第6、第7昭和隊、第10建武隊、第7七生隊の特攻機が鹿屋基地を飛びたちます。10時8分、西田中尉から無電がはいります。「敵艦認めず、我慶良間に行く」その5分後、中尉から「敵艦見ゆ」との無電がはいる。この日、沖縄侵攻を支援中の米空母バンカー・ヒルは飛行甲板に突入した特攻機によって、燃料を満載していた艦上機を破壊されて大火災を引き起こしたうえ、続いて突入した二機目の零戦が艦橋に激突。さらに二機目の零銭が落下した爆弾が艦内部に達して大爆発を引き起こし、さらにその炎がガソリンに引火して誘爆を引き起こします。戦死者346人、行方不明43人、負傷者264人。撃沈こそ免れたものの、大被害を受け、真珠湾経由でワシントン州ブレマートンに帰投しています。出発のとき、石丸少尉が投げた鉢巻には「我、人生二十四歳にして尽きる。忠孝の二字」と墨書されていたそうです。最後のキャッチボールをした本田耕一少尉は、法政大学出身の一塁手だった方です。
その本田少尉も、。神風特別攻撃隊「第六筑波隊」隊員として、石丸少尉から遅れること三日目の、五月十四日、出撃し、沖縄の海に散っています。石丸進一少尉は、現役のプロ野球選手時代、もらった給料の八割を、父の借金の返済に充てていたそうです。そして、招集直前に、親の借金を全額させています。
その石丸進一少尉が東西対抗戦に出場したとき、試合前に他のチームの選手達と食べ物の話になったそうです。このとき、少尉は「自分はコーヒーも飲んだことがない」とおっしゃられた。
彼は、それほど、ギリギリの生活を送っていたのです。少尉は、出征の直前、球団代表の赤嶺のもとを訪ねて、守り神にと新しいボールをねだったそうです。少尉が、飛び立つ寸前に投げたボールは、その赤嶺オーナーからもらったボールです。現在、東京ドームの21番ゲート近くのラクーアとの間にある道路に面した階段の一角に、戦争で命を失った職業野球選手六十九名の名が刻まれた「鎮魂の碑」が建てられています。脇に立つ副碑には、遺族代表として石丸進一少尉の兄の石丸藤吉氏の追悼文が刻まれている。
藤吉氏によれば、野球のボールとともに届けられた進一少尉の遺書には、次のように書かれていたそうです。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜野球がやれたことは幸福であった。二十四歳で死んでも悔いはない。〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜石丸進一少尉が、まだ現役のプロ野球選手だった昭和十八(1943)年、のことです。
ある日の試合開始前、先発だった進一を探していた監督の三宅大輔が、球場の近くにある広場で子供達と野球をしている進一を見つけ、呼び出して叱ろうとしたそうです。
ところが、その子供と野球をする進一の姿が、あまりにも無邪気で楽しそうだった。なぜか三宅は、とうとう一度も進一に叱責をすることがなかったそうです。
コーヒーひとつ飲んだこともなく、ギリギリの生活の中で親を支え、プロ野球選手としてノーヒットノーランの成績まで残し、日本を護るために散華された石丸進一少尉。こういう人が、私たち日本人の先輩にいる。そのことを、私たちは決して忘れてはならないと思います。
●特攻・青春・いのち
終戦ドキュメンタリー 60分
知覧・生き残り兵の50年
●特攻慰霊祭・知覧
1971.6.18
NNNドキュメンタリー 30分
●回天の遺書
昭和44年7月2日 1969年
NHK ある人生
30分 DVD
●人間魚雷回天
1955年 新東宝 映画
●人間魚雷出撃す
1956年 日活 120分
伊58潜 インディアナポリス撃沈
●魚住少尉命中 人間魚雷回天
1963年12月7日
NHKドラマ 中尾彬
モノクロ 90分
| キー局 | NHK | 放送曜日 | 土 | 放送期間 | 1963/12/07〜1963/12/07 |
| 放送時間 | 20:00-21:00 | 放送回数 | 1 回 | 連続/単発 | 単発 |
| 番組名 | テレビ指定席 | ||||
| 主な出演 | 中尾 彬、伊吹友木子、岸田 森、有川 博、鈴木 正勝、結城美栄子、川崎 巌(川崎 厳)、宮部 昭夫、睦 五郎、丸山 持久、浜田 晃、(ナレーション・平光淳之助) | ||||
| 主な脚本 | (作・横光 晃)(構成・吉田 直哉) | ||||
| 主な演出 | 吉田 直哉 | ||||
| 局系列 | NHK | ||||
| 制作会社 | NHK | ||||
| 企画 | 吉田 直哉 | ||||
| 音楽 | 依田 光正、(演奏・NHKサロンアンサンブル)(効果・桜井 芳男) | ||||
| 撮影技術 | 岩井 禧周、(照明・平野 光男)(録音・山内 英夫)(編集・北村 旭) | ||||
| ビデオ | DVD:NHKソフトウェア | ||||
| 美術 | 中嶋 隆美 | ||||
●ああ特別攻撃隊
1960年 大映
●神風特別攻撃隊
1954 東映
●雲流るる果てに
松竹 映画
鶴田浩二
●アニメンタリー 決断 Volume4
71年に日本テレビ系で放映されたタツノコプロ制作の戦記アニメ第4巻。ミッドウェー作戦で敗北しキスカ島に取り残された日本軍守備隊の撤退作戦を担う木村指令が救出の時期を伺う。第16話「キスカ島撤退」から第20話「マリアナ沖海戦」までを収録。
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| 第16話 | キスカ島撤退 |
| 第17話 | 特攻隊誕生 |
| 第18話 | 山本五十六の死 |
| 第19話 | ルンガ沖夜戦 |
戦記映画・復刻版シリーズ
●第18巻 「陸軍特別攻撃隊」 (1945年/40分)
第一陣の万朶隊を初め、必死の体当たり攻撃を行った陸軍特別攻撃隊の記録。
製作/日本映画社
監修/陸軍報道部