「こっちだ! あそこの角を曲がったぞ!」
二人の警官は、懸命に追跡を続けていた。夜の路地裏では、同じ制服に身を包み、警帽をしっかり被った二人を区別することは難しかったが、ちょっとした立居振舞や声の響きから、一人が年輩でもう一人が新米の警官のようだ。
警官は、急いで電柱のある角を曲がった。闇に包まれた路地の向こうまで目を凝らしたが、ノラ猫一匹すらいない。
「くそ…! 逃げ足の速いやつだ!」
「まだだ! やつも、そろそろ疲れてきてるはずだ」
二人は狭い路地を走り抜けた。
「俺は右に行く! おまえは左を頼む!」
「はい!」
警官は二手に別れて駆け出していった。
フードを目深にかぶった一人の少年が、警官がたったいま曲がったばかりの角の、電柱にくくりつけられた“ひったくりにご用心!”の看板の陰から現れた。
「行ってらっしゃい。お勤めご苦労様です」
その少年、神楽タクトは、自分に気づかずに通りすぎていった警官に、皮肉たっぷりに敬礼した。こんな単純なトリックに引っ掛かるなんて。
追跡する警官の視線は常に遠くへ向かう。それまで逃げまわっていたタクトが、角を曲がってすぐの物陰で息を潜めているなど、考えもしなかったのだろう。
とはいえ、疲れているのは事実だった。ひたすら追い回されたタクトは、汗でぐっしょりとなっていた。汗を吸ったパーカーが、重さで肩から何度も滑り落ちた。これ以上、無駄に体力は使いたくない。タクトは、もう一度、最善の逃亡ルートを思い描いた。母親には、今夜はケンジの家に泊まるとあらかじめ言ってあった。うまく追っ手を振りきって、夜明け前に駅で制服に着替えればよいだろう。この辺り一帯はタクトの庭同然だ。それこそ、猫しか通れないような抜け穴だって、すべて頭に入っている。
だが、警官の追跡もなかなかにしつこい。たったいまやりすごした警官も、いつまた戻って来るかわからない。
タクトはタメ息をついた。服は汚れるが、秘密の抜け道を使ったほうがよいだろう。タクトはフードを左手で押さえながら、足音を立てずに駆け出した。
夕方までは、いつもと変わらない一日だったのに。タクトは舌打ちした。チームは、警察のお世話になるようなことはないようタクトが統制している。どうせ、タクトのチームを恨む別チームの罠だろう。きっと、ウチのチームが暴力沙汰を起こしているなどと警察に吹き込んだかなにかに違いない。当然、タクトのチームは潔白だし、調べればすぐにデマだとわかる安易な罠だ。だが、タクトは身元を調べられるわけにはいかなかった。昼の顔と夜の顔。いままで演じてきた努力が水の泡になってしまう。それだけは避けなくては。
タクトは目的地へ続く最後の角を曲がった。
途端に冷気が顔を襲い、タクトの顔が強張った。野生の本能で何かを感じとったのか、ノラ猫がギャッと悲鳴をあげ、空き缶を蹴飛ばしながらタクトの側を駆け抜けた。カラスはギャアギャアと鳴きわめくと、まるで何かから逃げるようにバサバサッと飛び去っていった。舞い上がる黒い羽根。いつもは人を惹きつける力を持つタクトが、何かに魅入られたかのように、羽根を透かして広がる闇に釘づけになった。
突然、ギョロッとした黄色いふたつの目玉が目と鼻の先にあらわれ、タクトは反射的に飛び退いた。その拍子に、タクトは空き缶を踏んづけてしまった。
「う…うわっ!」
タクトは受け身をとれずに尻もちをついてしまった。お気に入りのジーンズには泥が撥ねている。
だが、いまのタクトは、ジーンズに撥ねた泥など気にも留めていなかった。暗闇に浮かぶふたつの目を見つめ返すタクトは、かすかに震えていた。恐怖? いや、違う。どちらかといえば武者震いに近い。ついにご対面というわけだ。
タクトがそのノートを拾ったのは四日前だった。
タクトが学校の中で唯一、“仮面”を取ることができる場所、屋上。タクトは時折、無性に屋上で一人になりたくなることがあった。そんなとき、決まってタクトは、まるでこの世の中心に自分が存在しているかのような錯覚に陥るのだった。
その日も、タクトは屋上に寝転がり、自分を中心に広がる夕焼け空を見上げていた。ふと、パサッという音とともに足元に何か軽い物が落ちたのを感じて、タクトは起き上がった。それは一見、何の変哲もない黒い大学ノートだった。だが、さっきはこんなノートは屋上になかった。この屋上に足を踏み入れることができるのもタクトだけのはずだ。誰かが間違って入ってくることのないよう、外した内側の南京錠を外側にかけ直してある。では、このノートはどこから落ちてきたのか? フッとタクトは笑った。決まっている。空からだ。不可能な物を除外していって残った物が、たとえどんなに信じられなくても、それが真相なのだ。タクトはメルヘンに生きているわけではなかったが、今日科学によって説明できる事象がすべてだとは思っていなかった。宇宙人が交換日記をしたいというのなら、それはそれで面白い。タクトは、そのノートを拾いあげて裏返した。どうやらそちらの面が表紙のようだ。白い文字がタクトの目に留まった。
DEATH NOTE
NOTEに対する言及をさしおいて、好奇心がタクトに表紙を開かせた。
HOW TO USE IT
【このノートに名前を書かれた人間は死ぬ。】
【書く人物の顔が頭に入っていないと効果はない。ゆえに同姓同名の人物に一遍に効果は得られない。】
【名前の後に人間界単位で40秒以内に死因を書くと、その通りになる。】
【死因を書かなければ全てが心臓麻痺となる。】
【死因を書くと更に6分40秒、詳しい死の状況を記載する時間が与えられる。】
あげ始めたらキリがない。罫線のページまでの真っ黒な数ページに、綺麗な英語で使い方がびっしり書き込まれていた。とにかく、山ほどあるルールのなかでこのノートをもっとも端的に表現するものを一つだけあげるとするならば、やはりこれだろう。
【このノートに名前を書かれた人間は死ぬ】
宇宙人というよりかは、もっと霊的なものを感じさせるノートだ。しかも、交換日記のようなかわいらしいものではない。タクトはゴクリと唾を呑み込んだ。ひとまず、パラパラと罫線のページをめくった。新品同様まっ白だ。最後のページにメッセージが書かれているのに気づいて、タクトは手を止めた。使い方とは明らかに別人のカクカクとした汚い字で、以下のような内容が英語で書かれていた。
このノートを拾った人間へ
俺は、このノートを落とした張本人、死神のリュークだ。といっても、このノートの元持ち主は俺じゃない。じきに、ノートの元持ち主の死神見習いがおまえの前にあらわれるだろう。ノートを手にしたおまえには、そいつの姿が見える。だが、人間界の地に着いた時点で、ノートは人間界の物になる。もう、おまえの物だ。このノートを使うのも、そいつに返すのも、おまえの自由だ。そいつがおまえに手出ししないよう、俺が死神界から監視している。好きに使え。
タクトは、黄色い目を見据えながら立ち上がると、宙に浮かぶ相手の全身を眺めまわした。威圧するような表情。とがった耳に、軽く突き出した口。背中にはコウモリのような翼を生やしている。細くて長いしっぽの先は、切れ味が鋭そうだ。ヨーロッパ建築の屋根に居座る、ガーゴイルそのものの姿だ。この姿が見えるのも、あのノートを拾ったからだ。
ふと、タクトは閃いた。うまくいけば、これ以上服を汚さずにこのピンチを切り抜けられるかもしれない。
「へぇ、おまえが死神見習いか。待ってたよ」
一瞬、相手の顔に困惑の色が浮かんだが、すぐに消えた。どうやら、相手はタクトがどこまで知らされているか知らず、動揺しているようだ。しかし、その動揺を悟られたくはないらしい。自分が優位に立ちたいタイプのようだ。そういう意味ではタクトと同じだ。
「あいさつがまだだったね。僕はカグラ タクト。神が楽しむと書いてカグラ、タクトは指揮や発揮の揮だ」
形式的な自己紹介をしながら、タクトは別のことを考えていた。
ノートを拾ってからの四日間、この死神見習いはタクトの前にあらわれなかった。なのに、なぜ今なのか。タクトが捕まってしまうと、死神見習いにとっては都合が悪いのだろう。
「おまえの名前は?」
死神見習いに喋りかけながらもタクトの思考の歯車は回り続けた。
では、死神見習いが考えることは何か。
真っ先に考えるのは、タクトからノートを返してもらうこと。ノートを受け取ってタクトとの繋がりを絶ちさえすれば、あとはタクトが捕まろうとどうなろうと関係ないに違いない。だが、タクトはみずからの望みのためにもノートを手放すわけにはいかない。そもそも、今はノートの切れ端しか手元にない。リュークの言葉、「ノートを手にしていれば、そいつの姿が見える」。タクトはノートを拾ってから、ノートを持ち歩けないときにも、その切れ端だけは持ち歩くようにしていた。もっとも、切れ端で効果があるのかどうかは今このときまでわからなかったが、それでも切れ端を持っているだけでタクトは安心できたし、結果的にそれがこの窮地からタクトを救うことになった。
ノートを取り返せないならば、死神見習いはタクトを危機から救おうとするだろう。タクトが捕まることがなぜ不都合なのかはわからない。まぁ、これしきのことでタクトが刑務所に入ると思っている、なんてことはまさかあるまい。だが、理由はどうでもよかった。利害の一致さえ確認できれば、それでよい。
「ジークフリート」
死神見習いジークは、タクトの首筋を逆なでるような、太くて低い声で言った。どうやらまだ、タクトからノートを返してもらうことを諦めていないらしい。一瞬、タクトの頭にはジークを脅すという手段がちらついた。
『僕をここから助けろ! さもなくば、ノートを燃やしてしまうぞ!』
だが、タクトはその考えを即座に却下した。アメリカの心理学者ジャニスとフェシュバックの実験で、恐怖に訴える方法は不安度を高めこそすれ、対策を講じさせるという効果は薄いとわかっている。ならば…
「ジーク、おまえは僕が預かっているノートを取り戻しに来たんだろう?」
いきなり略称で呼ばれたのが癪に障ったのか、ジークは顔をしかめた。だが、ジークの口元が僅かに緩み、目が妖しい光を放った。
「話が早いな」
タクトは作戦がうまくいくことを確信した。
「だけど、今ノートはここにはない。そして、僕は警察に追われている。おまえの力を貸してくれ!」
タクトは一気に言い切ると、懇願するようにジークの目をじっと見つめた。大丈夫、うまくいく。すると、ジークはニヤリと笑った。
「よし、いいだろう」
やった。タクトはジークから見えないようポケットの中で、拳をグッと握った。
「で、俺は何をすればいい?」
ジークはタクトの側に降り立った。遠くから警官の足音が近づいてくる。タクトは心の中でニヤリと笑った。
「僕にいい考えがある」