▽1月11日、Anne Frankをかくまった最後の生存者Miep Gies氏(100)が死亡した。彼女は、ドイツのジャム製造会社のオランダ支社長であったOtto Frankの助手。Frank一家はドイツから逃れてきて営業を続けたが、1940年5月オランダがNaziに占領されると、一家は会社の天井裏の部屋に隠れ、彼女がその潜伏生活に命がけで協力した。屋根裏部屋には両親・姉妹、それにvan Pels家の3人、歯科医Pfefferの合計8人が潜伏。彼女は1941年、social worker Jan Giesと結婚。会社はGies夫妻が営業を継続。一家は食事の供給、書物を買ってきたり、外部情報を伝達したり、またemotional supportをした。1944年8月4日、Gestapoの襲撃を受けた時、彼女はその建物の中で働いていた。彼女が逮捕されなかったのは、Gestapoの一人が彼女と同様Austria出身だったからだという。彼女は後に8人を救出するための賄賂をもってAmsterdamのGestapo本部を訪れたが、成功しなかった。彼らがGestapoに連行された後、彼女はAnneの日記を保存した。Anneが生存して戻ることを待ったが、姉妹はBergen-Belsen収容所で死亡、母EdithはAuschwitzで死亡。父Ottoが一人戻り、日記を受け取って1947年出版した。彼女は「何もかも失われたけど、この日記で彼女の声が聞ける。私の若き友はこういう形で世界に遺産を残した。これは僅かな救いだ。もちろん、日記が失われても、彼らが救われたほうがずっといいけど。その後も一日として彼らのことを思い出さない日はなかった。私が恩人だって?そんなことないわよ。私は、私がやったようなこと、それよりずっと立派なことをした善きオランダ人たちの、長い列の最後尾についてただけよ」と語った。Gies一家は『日記』ではHenkという名で出てくる(Richard Goldstein)(Herald Tribune(Jan.23, 2010))[恐らくジャム会社のドイツ本社もユダヤ人経営だったのだろう]。

▽夫のJan Giesは抵抗運動家だった。Miepは一度に多量の食料を購入すると怪しまれるので、自転車で店をめぐり、分散して購入した(Herald Tribune Jan 14)。

▽Bergen-Belsen収容所でAnne Frankとともに過ごしたBerthe Meijer女史(71)の回想の中で、死の前のAnneが周囲の子供たちに物語を語って聞かせたとあるのに対し、他の被収容者たちなどから、末期のAnneにそんな力はなかったとか、6歳のBertheが覚えているはずがないとかという批判が出ているが、確定的なことはいえないだろう、と(AP-Japan Times(March 22, 2010))[71歳といえば私と同年。1945年年初頃のことをどのくらい覚えているか。東条のキンキン声のラジオ演説と米内の低く抑えた声の演説、前者は「米英」と言い、後者は「英米」と言った。これは44年7月以前のことだろう。Rooseveltの死の報道で、「天罰が下った」みたいな雰囲気があったのは45年4月。入学の頃のことも色々覚えている。担任は垣内良平先生。「アカイアカイアサヒアサヒ」を、「アサシ」と呼んで訂正された子がいた。毎日午後一時の番組でBoccheliniのminuetteが流れたのは、Italyが枢軸から脱落する前のこと(以後はItalia音楽禁止)。Mussoliniの演説の最後が「ポポ・イアタリアーノ」で終るので、「ポポ」とは何か不思議に思ったのだから45年4月以前ではある(popolo[人民])。Attu島玉砕の後、新京の街の電柱に島の写真が貼られていたのが5月のこと。父に召集令状が来て出発した朝のこと。隣は河西さん、その次は高尾さん、向いは大瀧さん、その隣は小野さん、と結構色んなことを覚えている。敗戦後は強烈な体験を多くしたから、語りきれない]。