新井勉『大津事件の再構成』

   法律事項である憲法第二章の権利保障の多くを勅令事項とし、議会の立法権を空洞化した国家総動員法(1938年)は、旧憲法違反と思われるが、それを公言する勇気をもった憲法学者は殆どいなかった。宮澤俊義「大津事件の法哲学的意義」(1944年)は、それへの弁明として読むこともできる。

   「予ハ元ヨリ法律論ヲ知ラス。然レトモ若シ果シテ斯ノ如キノ[津田三蔵を死刑にしない]処分ニ出ヅルナランカ、之レ陛下ノ思召ニ反スルノミナラス、露国ノ艦隊ハ品川湾頭ニ殺到シ、一発ノ下ニ我帝国ハ微塵ト為ラン」。1891年5月11日、巡査津田三蔵が大津でロシア皇太子ニコライに傷害を負わせてより半年後、西郷従道内相は、児島惟謙大審院長にこう迫ったと、児島手記にある。

   宮澤は、問題を「国家価値優位説」と「法価値優位説」の対立としてとらえ、児島手記を基礎に、彼の立場も、実は外国の圧力で法を曲げるのは国辱だとする国家優位説であると論じた。日本の伝統に法優位説などないとでも言いたげである。私もかつてこの主題に触れ、宮澤にリベラルな知識人の弱さを見るべきかどうか、などと論じた。

   ところが本書は、ロシアがその10日前に補償を求めないと通告しており、西郷発言はブラッフで、児島手記は肝心なことを隠していて信頼すべきでない、実はこの事件の本質は明治天皇の司法干渉にあるのだという。

   憲法制定後も、宮廷外交は相当程度一般国務の外にあり、皇太子接待は天皇の主導下で準備され、事件後も天皇が率先して処理に当った。松方首相さえ「お前は引っ込んでいろ」と指図された。天皇は、閣僚、裁判官、検事総長などに、(文言は抽象的だが)、早急に津田を死刑に処すべく指示した。西郷発言の「陛下ノ思召」がそれである。この天皇の指示に反抗した児島も、手記では、この立憲君主たる自覚に欠けたこの行為の公開をはばかり、その代りに政府の圧力を強調したのだという。

   先に紹介した書簡集(『法律時報』7月号参照)でアルバート・モッセが言うように、現実政治上天皇は「傀儡(Puppe)」「天皇=0」で、大津事件でも介入は宮廷外交故の例外なのか、これは昭和天皇の戦争責任問題にまで関わる旧憲法の重要問題であろう。

   『明治天皇紀』のこの時期の記事に、天皇の政治介入を示唆する記載が散見する。例えば、津田を無期徒刑とした大津事件判決(1891年5月25日)直後の5月29日、この事件の責任を取って青木外相が辞任した際、「初め内閣総理大臣伯爵松方正義、農商務大臣陸奥宗光を以て[青木]周蔵に代へんとす、天皇怡びたまはず、仍りて[榎本]武揚を奏薦す」とある(VI, p.851)。閣僚任免への天皇の介入である。

   本書の感銘深いところは、著者が徹底的に史料を集め、先入観を排して、細心の注意をもってそれを精読し、そして通説を根底から覆したことである。こういう業績を出すことこそ、「歴史家冥利に尽きる」というものなのであろう。(『法学セミナー』1996年9月号)

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