坂野潤治『近代日本の国家構想』

   私たちが「知識」と称しているものの大部分は、セカンドハンドなもので、「物知り」とはそういう知識で頭をいっぱいにした人々である。私の日本史の知識など、殆どがそれだ。そういう私にとって、本書には「おや」と思わせる個所が色々ある。

   大隈重信は、幕末村垣淡路守に随行して欧米を見た佐賀藩の友人小出千之助から、「世界の未来はアングロサクソンだ」といわれて、親英派となり、以後一貫して英国流立憲主義の主張者であったかのように思われているが、本書によると彼は大久保政権においては「君主専制家」の代表であった。むしろ長州藩の井上馨の方が立憲派で、「明治14年政変」で大隈が急進的な議会導入論を唱えて失脚したのは、その「転向」が咎められたことによる面があるという。

  明治憲法の起草者伊藤博文と井上毅の間の対立点の一つが天皇と内閣の関係であった。伊藤は、内閣の連帯性と総理大臣のリーダーシップを重視したのに対し、井上は、それでは天皇の権力が空洞化すると執拗に反対し、「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」という、内閣も内閣総理大臣も無視した第55条を憲法に盛り込んだ。これが後の恒常的な政権不安定・内閣短命の制度的根源をなしたとは、しばしば説かれる。

  この井上の主張は穂積八束に承継され、軍部・枢密院・官僚を握る山縣閥の利益を政党内閣から護る武器となる。しかしやがて「大権事項」に列挙されていない事業を行なう必要に迫られた官僚たちは、政党と妥協し、穂積憲法学の反内閣的解釈は、軍部と枢密院の利益に過ぎなくなって、官僚からも見棄てられる。

  それに対し、内閣中心の憲法解釈論を展開したのが(常識的には議会政治・正統政治の擁護者とされる)美濃部達吉である。彼は大正期に普通選挙に長く反対したから、民衆派とはいえず、昭和期には政党政治の欠陥を指摘し、「超党派的国策機関」の創設に関与するなど、議会主義的でもない。この点で吉野作造と異なるという。

  昭和期に民政党は「民本主義」に傾斜し、社会主義的要素まで取り込もうとしたのに対し、政友会は「皇室中心主義」を唱え、やがて陸軍皇道派と結んで、天皇機関説攻撃を推進する。5・15事件後に、衆議院多数党党首に首相を委ねる「憲政常道論」を唱えたのがこの政友会だが、民政党を与党とした軍人内閣(斎藤・岡田内閣)の方が、むしろ大正期以来の立憲主義の正統を継いでいる。「憲政常道」と「国体明徴」がセットになるなどということは、戦後史学は想定していなかったのではないか、と著者は批判する。

  著者のこのような問題提起に接し、セカンドハンドな知識の上に安住していた常識を、もう一度ファーストハンドの資料に立ち返って再検討してみる必要を感じている。(『法学セミナー』1997年5月号)*

*読み直してみて、やや坂野氏へのlip serviceが過ぎたかな、と感ずる。私は当時でも、ここに描いたような「セカンドハンドな常識に安住していた」とは思っていず、多少異なった事態の捉え方をしていた。万一もうしばらく生きられて、ケルゼン関係の残務にけりをつけたら、『明治憲法』という本を書こうと、少しずつ準備をしてはいるのだが。